民主党=芸能プロダクション、説

 案外気づかれていないのかも知れないが、民主党というのは、いまや政治家というタレントを抱えるプロダクションみたいなものである。もっと言えば、政治も含めて何かムツカしいことを言える言論/社会派タレントの元締め。芸風もそれなりに取りそろえ、ふと見ればテレビの討論番組や昨今流行りのバラエティー系政治コンテンツなどでは、必ず一定人数は混じっていないと何かおさまりが悪いくらいにはなっている。

 たとえば、「朝まで生テレビ」と「TVタックル」である。どちらも、いわゆるそれまでの政治を扱う番組、それこそNHKの日曜討論、もっと極端には選挙時の政見放送に典型的な、杓子定規で形式的な価値中立さの演出とはまた別の、ワイドショーやバラエティーなどと同列の、まさに“ショウ”=見世物として政治を見せてゆく、というコンセプトにおいてその地位を確立してきた。論理を戦わせ、議論をかわしてゆくことで観客にことの真偽をはっきりさせる、といった手前勝手な前提はそこではそう簡単に機能しない。だから、政治家なり代議士なりの言っていること、主張のその中身だけがそこにあるのではなく、必ず生身のキャラを介してそこにある、というメディアの真実についてどこまで思い知っているか、が、このような〈いま・ここ〉の政治を考えようとする時に、ひとつ大きな分岐点になる。

 そのことが良いか悪いかはひとまず措いておく。政治というのもまた、そのようにある種芸能として、メディアを介して消費されてゆかざるを得ない側面を持ってしまう、そういう前向きなあきらめを前提として初めて成り立つのが他でもない、昨今のニッポンの民主主義、ということらしいからだ。

 もちろん、そのような現在を評するもの言いも、すでにいくつか出てきている。

 たとえば「劇場型政治」ということが言われる。また、小泉政権がそのような政治を存分に活用していることを揶揄して「小泉劇場」なんてこともよく言われていた。どれもあまりちゃんと定義したのを聞いたことはないのだが、まあ、意味としてはおおむね、メディアを使って何かある気分を煽り、国民の判断を誤らせて政治を動かそうとすること、といったことらしい。

 時には、「ワンフレーズポリティクス」とか「ポピュリズム」などというカタカナのもの言いも、合わせ技で使われる。前者は、耳ざわりのいいキャッチフレーズをでっちあげることで論理的にものを考えて判断することをさせないようにする手口、という感じで、後者はというと、そのようなずるいやり口で何とかく人心をとりまとめて操縦するやり方、といったところか。で、そのようなイメージの延長線上に、お約束で「ヒトラー」だの「ファシズム」だのというおどろおどろしいもの言いも、時には飛び出すことになる。事実、小泉政権に対する「批判」の文法のかなりの部分は、いつしかこういうルーティンに収束してゆくようなものになっていた。情報操作で国民の眼をあざむく煽動型政治家、という、この手の小泉像は、それまでの冷戦構造下の政治のパラダイムにおける与党支持者にも、また革新系シンパにも、共に一定の訴求力を持っていたようだ。その意味でも、なるほど小泉の出現というのは、旧来の政治の枠組みを内側から崩壊させてゆくモメントを内包していた。

 小泉とその政権が作り出した政治の状況に対してこのような「批判」を繰り出す側にとっては、どうやら、民主主義というのはひとりひとりの国民・有権者がちゃんとものを考えて判断したその集積である、という考え方が前提にあって、だから「劇場型政治」みたいに国民にちゃんとものを考えさせないようにするのはいけないことだ、ということが自明らしい。ならば、その「ちゃんとものを考える」というのは具体的にどういうことか、というあたりは実は相変わらずうやむやのままなのだが、しかし、こういうもの言いを弄する人たちは、それが評論家であれ学者であれ、メディアの高みから何かものを言う手癖だけは旧態依然のくせに、そんな自分たちの考えることだけがまともな、ちゃんとしたものだ、ということを、なぜか無条件で信じているところがあるらしい。そして、その信心とそこに由来する主体の勘違いぶりや無防備さの表現こそが、〈いま・ここ〉の情報環境において最も不信感を喚起するものである。そのへんの方法的自覚の有無こそが、ある意味最も鋭く「政治」に関わってくる部分だったりするから難儀なのだ。

 政治がメディアと結びつくのは、自由主義社会においては当然だろうし、その中には「ワンフレーズポリティクス」だろうが何だろうが、手口として当たり前に含まれてもき得る。広告代理店がやらかすコピーライティングやイメージ操作の手口がOKで、政治にそれを援用するのはダメ、というのは、理屈としてはともかく、現実にはまず無理な話だろう。で、もっと言えば、そのような「ワンフレーズポリティクス」が引き出した現実もまた、〈いま・ここ〉の政治なのだ、という度量ある認識がないことには、いまどきこの高度情報社会で政治なんかまともに論じられるわけがない。

 メディアの舞台、特にテレビにおいて、政治は政治そのものとして語られるのではなく、政治を司るとされる議員なら議員のキャラクターと共に表象されてゆく。その限りで、議員であれ官僚であれ、キャラクターとしてまず存在させられるのであり、その上で主義主張、思想信条、政策や価値観、世界観その他もろもろも表現されてゆかざるを得ない。政治に関する世論調査などではよく「人柄が信頼できる」という項目がくっついているけれども、まさにその「人柄」の部分が今やメディアを媒介にした「キャラ」としてあらかじめ成り立ってしまっている。

 そんな状況で、民主党の抱えているキャラは、メディアの舞台における政治を成り立たせる上で、欠かせないもののようだ。そのことは、民主党自身が気づいているかどうかとは別だが、少なくともメディアの現場で政治を取り扱おうとする者たちはほぼ自覚しているのだろう。

 とりあえず政府や与党、既得権益と目される側を批判する立場で、「若さ」という属性を最大限に利用する身振りを備えていて、多くは育ちよさげな元気さがあって、口数の多さがアタマの良さと思わせられる程度に反射神経もあるらしい。その上でオンナだったりすればなお結構。そんなキャラの需要が必ず数人分、メディアには予定されている。固有名詞としては実は誰でもいい。そういうキャラにきれいにあてはまってくれる存在であれば、そしてある程度の幅でそれらのキャラに色づけをしてくれるのならば、メディアの現場を支える論理にとってはとてもありがたいもののはずだ。

 そんな“民主党プロダクション”の中では、河村たかし、が現状、最も異色だろう。そしてその異色な分、キャラとしても案外強かったりする。あの強烈な名古屋弁とアクの強さ、それに坊主の説法のような語りの明快さで、好き嫌いはともかく、とにかくキャラとして印象づけてしまう力は、固有名詞として突出してゆく度合いの薄い民主党タレントの中では、群を抜いている。党内での同志がほとんどいず、総理大臣になる、といまどきすっぽんぽんに公言していても、民主党の党首選挙に必要な推薦人二十人すら満足に集められない、といった、永田町におけるミもフタもない現実も、必ずしもマイナスに働くとは限らない。先に述べてきたようなキャラを擁する芸能プロダクションとしての民主党の、最大公約数の広報部隊として常に最前線で頑張っている、そのことについては政治家個人としての毀誉褒貶とはまた別に、メディアと政治の相においての評価が必要なはずだと思う。

 むしろ、メディアの一部で未だに民主党のイメージとしてあげられがちな菅直人鳩山由紀夫横路孝弘といったオールド民主党キャラの方こそが、実はその需要が以前よりかなり低くなっている。まして、もともとキャラとして筋違いなところの強い小沢一郎はさらにキツい。みんな固有名詞として輪郭が、すでにはっきりしすぎているのだ。それよりも、代替可能な程度の“薄い”固有名詞と、キャラとしての汎用可能性の高さが共に備わっていることの方が望ましい条件。オヤジ世代の政治家というのは、そういう意味でもいまの政治をめぐる環境においては、使い回しのしにくいことになっている部分があるらしい。