「うた」と言葉について

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 「木綿のハンカチーフ」にしても「ウエディング・ベル」にしても、未だそこまで自分の内面、やくたいもないこのココロの銀幕に鮮烈な印象を残しているらしいのは、単にその「歌詞」、言葉としてそこで歌われている言葉の意味内容においてだけでなく、それが具体的な「声」として、肉声として生身のたたずまいを否応なく伴って現前していたからだろう。*1

 肉声を伴った言葉は、文字や活字と異なり、その向こう側に生身のたたずまいを察知させざるを得ない。それは聴き手であるこちら側が生きている現在、〈いま・ここ〉に共にピンポイントで現前し、こちらの生身である部分に感応し、その裡に何らかの情動、ココロの動きといった不定形であやしい領域を不断に生み出してゆく。そして、その〈いま・ここ〉であること、時間と空間が限定された「現在」の上演であることを引き受けて初めて、「うた」もその場にゆくりなく宿ってゆく。前回ほどいてみた「カバー」ということもまた、オリジナルの元の楽曲の別のヴァージョンというだけでなく、それらが元の楽曲が宿っていた時代や情報環境とはまるで違う〈いま・ここ〉にまた、その都度新たに「うた」として宿ってゆくということになる。その意味で、「うた」のヴァージョンとは、実はそれが耳にされるたびに常に更新され、それぞれの場で新たな現在として立ち上がり続けるものではあるらしい。*2

 とは言え、さはさりながら、それでも「うた」は言葉である。少なくとも、いまの自分たちにとっての感覚と、それに依拠した「そういうもの」という水準では。ただ、同時にそれが本当に普遍的な感覚なのかというと、どうやらかなりあやしくなってくる。

 たとえば、これは少し前から気づかされていて、自戒していることでもあるのだが、いまどきの若い衆世代、少なくとも20代から下くらいの人がたにとっては、「うた」とは必ずしもそのように言葉が最も前景にあるものでもなくなっているのが、むしろ普通の感覚ですらあるらしい。

 どんな楽曲でもいい、流行りのJポップであれアニソンであれ、いずれそこに歌詞として言葉が含まれている音楽の、その歌詞に耳が合焦しない。自ら好きといい、ダウンロードをしてスマホに入れて持ち歩いては繰り返し聴き、あまつさえこのCDがほぼ売れなくなっているご時世になお、ブツとしてのCDを買い求めて手もとに置いてあるような贔屓の歌手やバンドの楽曲であっても、そこに歌われている言葉としての歌詞を意識して聴いたことはほとんどなかった、とうっかり白状した学生若い衆に遭遇したのは、今からもう10年ほど前のこと。歌詞を糸口にしてある楽曲を語ろうとするこちらの言葉に耳傾けていた果てに、「なるほどねえ、彼ら、そんな意味の歌を歌ってたんですねえ」と表明した素直な驚き方に、こちらは違う意味で驚かされた。楽曲を構成している「音楽」としての要素、メロディなり、リズムなり、ビートなり何なり、そういう狭義の「音」と地続きに歌詞の言葉は聞こえているし、それ以上でも以下でもない――かいつまんで言えば、そういうことらしかった。同じくその頃、突出して現象化してきていたアニメの声優にだけ自身のフェティッシュを鋭敏化させてゆくような性癖などと共に、いまどき若い衆世代の五感のまとまり方とその結果否応なく現前しているらしい生身のありかた、身体性の現在を眼前の問いとして痛切に思い知らされた次第。

 しかし、そういう意味でなら、自分たちもかつて「洋楽」と呼ばれる音楽に初めて接した時、英語なりフランス語なり、いずれ「外国語」としてそこに含まれている母語の日本語ではない言葉によって発声されている歌詞の中身を理解できないまま、それらを音として、「音楽」の要素としてフラットに聴いていた。そんな中から、辞書をめくってそこで歌われている歌詞の意味を探る者も出てきたけれども、でもその一方、大方はそんなこととは関係なく、それでも、やれビートルズがどうのJBがこうのと、あれこれ能書きを言いあうくらいには素朴にそれら「洋楽」を楽しんではいた。まして、言葉による歌詞の介在しないジャズやクラシックなどになると、そのような言葉に耳が合焦することもなかったから、まずそこにある「音」だけを生一本で受容することにならざるを得なかった。戦前の旧制高校生などに代表される「教養」としての「音楽」にまずクラシックがあげられていたのは、それが学校教育としての「正しい」音楽とされていたからだけでなく、同時にそれが言葉が介在しない、しかも母語として即座に耳が合焦してゆき、いきおい意味がそこに生じてくるような聴き方をしなくてすむ、そんな種類の音楽だったからという面もあったのではないか。逆に言えば、母語としての日本語が即座に介在し、それに伴う意味の場が生成されてしまうような空間は「通俗」であり、それら「教養」が宿るべき場所ではないという、当時の生活文化的な文脈による棲み分けによるものだったということでもあるのだろう。

 歌詞という形であれ何であれ、楽曲を構成している「音楽」としての要素に、言葉が含まれるか含まれないか、どうやらそれは音楽を聴いて楽しむ上で、何も本質的で普遍的なものではないらしい。とすれば、音楽を聴く時にそこに含まれている歌詞、言葉の要素にまず耳が、意識が合焦してしまうような今のわれわれの習い性こそ、広い意味での言葉にあらかじめ縛られたものであり、むしろそちらこそが人間の本性、本質からすると、例外的で少数派なのかも知れない。



 「うた」と言葉の関係。殊に、その「うた」に関わってくる言葉が文字や活字であるのか、それとも生身を介した肉声という意味での「声」であるのか、その間におそらく孕まれ、埋め込まれている亀裂のようなもの。「うた」を考えようとする時に、考えるこちら側の生身に常に問いかけてくるおそらくは言葉の向こう側、この生身の昏がりに滞っている何ものかの気配の拠って来たる場所。

 たとえば、自分ごととして振り返ってみれば、「詩」と「短歌」がわからないという感覚がずっとあった。今でもある。これはもう拭い難いもので、いまさらどうしようもないらしい。だがしかし、これらも共に「うた」ではあるはずなのだ。だとすれば、詩や短歌がわからないということは、自分には「うた」がわからない、ということになるではないか。「うた」の宿らぬ生身のつづる言葉に、この世のほんとの広がりは見通せない。

 もの書きの肩書きに「詩人」というのもあった。いつの頃からか廃れた。少なくとも恥ずかしくて自ら名乗ることがはばかられるようになった。いや、そもそもその「詩」自体、恥ずかしいものになって久しい。最近では「ポエム」などとまで言い換えられ、ただ揶揄、嘲笑されるべきものにまでなっている。それが「うた」でもあったような境遇からすでにはるか遠く、「ポエム」にまで落魄した「詩」は、すでに21世紀のわれら同胞のことばの作法の裡に、その居場所を失っているかに見える。

 そのような「詩」とは、少し前までまだその姿かたちが見えていた頃までは、概ね口語の自由詩であり、時にその延長線上の散文詩でもあるようなものだった。思えば「短歌」もまた「和歌」と呼ばれて、「俳句」や「川柳」などとひとくくりに「五・七・五」「五・七・五・七・七」といった定型だけを暗記させられ、教室の机の上を「そういうもの」として通り過ぎるものだった。戦後の学校教育の文脈で取り上げられる「詩」とは概ねそんなものであり、散文による表現の代表として理解されていったらしい「小説」と共に、広い意味での「文学」として合切袋に放り込まれ、「国語」というさらに大きな箱の中に詰め合わせになっていた。そこに「うた」の居場所はなかった。

 学校教育での「うた」は、「音楽」という別の箱に納められていた。それは「唱歌」であり、言葉を楽曲のしらべに乗せて発声し、「歌う」ことを課せられていた。「唱」の文字に込められていたものは、そのように「人に先立って」声に出し、節をつけて歌うことだった。学校における音楽教育の来歴をあれこれひもといてみると、もとは当時の欧米、殊にアメリカの流儀で「音」そのもの、人間の音声のみならず自然天然にある「音」まで視野に入れ、それらの「感情」「情操」への影響などにまでお堅く真面目に考えていたようなのだが、しかし、ここでもわれら凡俗の理解の中心はなぜか「歌詞」であり、あらかじめ文字として与えられた言葉を間違いなく教えられた通りに「歌う」ことが自明の目的になっていったようだ。なので、ここ「音楽」においても「うた」は、本邦の世間にそれまであったかたちに沿った居場所を安堵されないままだったことになる。

「様々な音楽の効力は、「徳性の涵養」というただひとつの目標に収斂されてしまった。その理念を実現するための唱歌教育とは、音あるいは音楽よりも、歌詞の意味内容の伝達に重点を置くものではなかっただろうか。新しい音楽を創るという強い決意のもとで始められた唱歌創作において、音楽が決してなおざりにされたという意味ではないが、少なくとも音楽はことばの意味を運ぶ乗り物のような役割しか担っていなかったと言える。響きとしての音楽自体が人間の感情に喚起させる感動、「人心に感動力を発せしむ」という伊沢や目賀田の音楽観は完全に姿を消してしまっている。(…)こうした歌詞のみへの関心は、明治20年代から盛んになる、俗楽一掃の手段として唱歌を利用しようとする動きと表裏一体であり、俗楽への非難も、やはり歌詞の卑俗さに集中しているのである。」
(石田陽子「唱歌教育と童謡復興運動にみる初等科音楽教育への提言についての一考察」 2007年)

 文字や活字と、生身の肉声と、言葉のまとまりがそれぞれに引き裂かれてゆく中、「うた」もまた、それが本来宿っていた場所であるはずの生身の〈リアル〉から引き剥がされ、ひからびた標本のように水気も色気も枯れていったらしい。

*1:「うた」と「うたう」の現在 - king-biscuit WORKS https://king-biscuit.hatenablog.com/entry/2020/10/01/000000

*2:「カバー」ということ - king-biscuit WORKS https://king-biscuit.hatenablog.com/entry/2020/11/01/093855

「陰謀論」の逆襲?

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*1
 アメリカ大統領選挙がえらいことになっています。というか、まだえらいことのまんまの真っ最中。 本誌の原稿締切りを過ぎて事態が急転していたこともあり、なかなか原稿に手がつかずに推移してしまい、いや、小川編集長、ほんとに申し訳ない。

 陰謀論というもの言いがあります。言葉としてはっきり常用のものになったのは、おそらく80年代だったかと。「トンデモ」という揶揄するもの言いと共に、そういう言説は「陰謀論」と呼ぶのだ、という理解が割と普通に広まっていった。それこそ「ユダヤ」だの「フリーメーソン」だのに始まり、果てはどう見てもビョーキの人の脳内妄想だろうという「ニャントロ星人」(あったんです、そういう地球侵略中の宇宙生命体を信奉する向きが)に至るまで、 「科学的」に「論理的」に「証明」できない、されていないできごとやものごとについて、いや、だからこそもしかしたらそういうこともあるかも知れない、というあたりの人の心の隙間にとりついてはびこってゆくのが、それら「陰謀論」なのだ――およそそういう理解が一般的になってゆきました。

 ところが、どうやらここにきてそれら「陰謀論」が、単に嗤い飛ばしてすましておけばいいようなものでもなくなってきている気配がある。他でもない、例のアメリカ大統領選挙の結果をめぐって、トランプ大統領が主張している「不正選挙」のストーリー。一見、見事に「陰謀論」の文法、話法でもあるのですが、ただ同時に、今のこの2020年の〈いま・ここ〉の現実としては、決してそれだけではすまされないような内実もはらんできている印象がある。もちろん、それらを「陰謀論」だと嗤い飛ばしてしまう向きも、世間の常識の装いと共にまだ強固にあるし、事実、対抗するバイデン候補とその支持者たち、およびいわゆるマス・メディアの多くはそうやって批判しているのですが、ただ、それら嗤い飛ばす側が依拠しているらしい間違いない「正しさ」というのが少し前までとどこか違う。何というか、「正しさ」が自明の「そういうもの」になってしまって久しい結果、その前提を誰も疑わないことも含めての「正しさ」に知らぬ間になってしまっているような、ちょっといやな変貌の気配を感じています。

 「科学」や「論理」、その上に共有される「証拠」「エビデンス」に依拠して積み上げられた結果の「正しさ」が、人間と生身の介在する〈いま・ここ〉の現実に対してどこまで有効なのか、というこれまた思いっきり古くて新しくて大風呂敷な問いが、改めていまどきの情報環境において立ち止まって検証されねばならなくなっているらしい。少なくとも、「リベラル」と自他共に認めるいまどきの市民社会的「正しさ」の側が、「陰謀論」をある種ポリコレ的な問答無用の態度で振り回すのは、その内実がかつての文脈から大きく逸脱したところで予期せぬ猛威を振い始めているところがあるのかも知れない。そして洋の東西、国境や文化の境界なども越えたところで、そういう猛威が近年、現前化して確認されるようにもなっているらしいのは、おそらく古典的な意味での「宗教」と社会の関係などもうっかり凌駕してしまうような何ものか、がすでに介在しているのかもしれない、というあたりのところまではとりあえず、立ち止まって留保しておこうと思います、かつて、その「トンデモ」や「陰謀論」を嗤い飛ばす側に何らかの新たな「正しさ」、〈いま・ここ〉の〈リアル〉の気配を間違いなく感じていた世代のなれの果てのひとり、としては。このお題、息長くしつこく要検討、にしておきます。

*1:『宗教問題』連載原稿

「カバー」ということ

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 「カバー」という言い方がある。特に音楽の、個々のうたや楽曲について言われるようになった印象ではある。元のうたや楽曲があって、それを元の歌い手やバンドとは別の人が歌ったり演奏したりする、そのことをさして言う言い方ではある、一応のところは。辞書的な間尺で言えば、主に流行歌や商品音楽、つまり著作権が「オリジナル」設定と共に確定され、保証されているような種類の楽曲、およびそれらジャンルの音楽に対して、この「カバー」というもの言いは最もなじむものになっているらしい。著作権やら何やらが意識されるようになってのこと、といった社会的背景などもあるのだろう。

 だが、この「カバー」、いわゆるクラシックではこういう言い方はされていないように見えるし、ジャズなどでも同様、せいぜいが「バージョン」という言い方で語られているように思う。同じ楽曲でも演奏者が違う、あるいは演奏日時が異なる、だから解釈その他も違ってきている、そのバージョンといった意味で。どうやら何かが微妙に違うらしい。

 「カバー」というもの言いに対しては、その対極に「オリジナル」というものが想定されている。ある種の原点、基準としての「オリジナル」が確固として存在する、だからこそそれに対する「カバー」なわけだが、とは言え、それは少し前まであったような「ほんもの」と「にせもの」あるいは「コピー」といった、かのベンヤミン流の図式そのままで理解されていいようなものでもなくなっていることも、また確かなようだ。

 それが証拠に、最近ではそれら「カバー」もまた「オリジナル」である、少なくともそういう感覚で楽曲に接する楽しみ方も新たな音楽の消費のされ方として受け入れられてきているように見える。元が、「オリジナル」が何であれ、自分が〈いま・ここ〉で接した楽曲なり作品なりがいいと感じられ、好ましいものならばそれでいい、「コピー」だから「にせもの」だから、といった背景の文脈や来歴についての説明の類は、とりあえず関係ない――そういう消費者としての潔さが、少し前までよりもずっと一般的になってきているようなのだ。そして音楽であれ何であれ、いずれ商品として日常に流通するようになっている文化コンテンツ(イヤなもの言いだが)に対する感覚にそのような風通しの良さがあたりまえに備わってきていることは、とりあえずいいことではあると思う。



 かつては「和製●●」という言い方もあった。いわゆる洋もの、「本場もの」のある意味「コピー」であり、日本人と日本語ベースの国内市場向けにアレンジされたバージョンを称しての冠つき話法。音楽に限らず「和製ベーブ・ルース」「和製ジェームス・ディーン」「和製ピカソ」など割と広く使われるようにもなっていた。あれも考えたら、「オリジナル」な「ほんもの」である「本場もの」に対する「にせもの」「コピー」という図式前提のもの言いになるだろう。ならば、その「にせもの」を当時の〈いま・ここ〉で楽しんでいたその頃の世間の感覚というのは、いまどきの「カバー」をそのものとして屈託なく楽しむようになっている昨今の気分とさて、同じものなのか、それともそうでないのか。

 たとえば、江利チエミの「テネシー・ワルツ」や、中尾ミエの「可愛いベイビー」、弘田三枝子の「夢見るシャンソン人形」……それら昭和20年代後半から30年代にかけて、日本語の訳詞を介して歌われた「本場もの」の楽曲たちは、それまで耳慣れなかった音楽をひとくくりに「ジャズ」と片づけ、同じ箱に放り込んでひとまず理解しようとしていたわれらニッポン人その他おおぜいにとって、その耳慣れなさを身近に感じてなじんでゆく過程で大きな役割を果たしたと言われている。それらも今で言えば「カバー」であるし、また実際、最近ではそれらの楽曲は「カバー」と普通に理解されているようだ。


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 それらは後に、「和製ポップス」などと呼ばれるようにもなったが、その定義もかなりあいまいなまま、ジャンルの呼称としても定着しなかったし、まして個々の楽曲についてそのような呼ばれ方がされることはなかったように思う。「和製●●」と称され得たのは当時、主に歌手でありプレイヤーであり、いずれそれら生身の個性を伴った上演者の側だったわけで、彼らの歌う楽曲や披露する演技の類に直接、その冠がつけられることはまずなかったのではないか、当時の世間の感覚として。

 ということは、具体的な個性を伴う生身の形象、言い方を変えれば見てくれが優先される視覚的な部分については「ほんもの」と「にせもの」の区別が良くも悪くも色濃く伴ってきて、だからこそ「和製」という翻訳感のようなものが強調されてその「にせもの」性を裏返しに補填してもいたのに対して、そうでない部分、たとえば歌われる楽曲自体については、そのような区別はそれほど意識されなかったのかも知れない。なるほどそれは、いまどきの「カバー」をそのものとして、そういう解釈による「オリジナル」として楽しむことのできるいまどきの耳の習慣、音楽に対する聴き方の習い性ともどこか通じているとも言えるし、また、耳を介して入ってくる楽曲のうち、歌詞という「言葉」の要素以外の音そのものの領域に対するわれわれの受け取り方、受容の仕方について、「民俗」レベルも含めたところで立ち止まって考えておくべき何ものかを示しているように思う。

 落語で考えてみよう。古典落語は誰がどう上演しても「古典」であり、あるのは志ん生の貧乏長屋、米朝の親子茶屋であって、それをいちいち「バージョン」などと言わずとも受け入れられている。歌舞伎も同じ。あたりまえだ。演目演題は「古典」で基本変わらない(と認識されている)もので、それを演じる演者が違い、だから生身の個性が異なり、だから解釈や表現が違う。そこに〈いま・ここ〉の表現としてのかけがえなさがあるし、その意味でそれらは常に「オリジナル」でしかないとも言える。人間の関与する表現にとっての「上演」と〈いま・ここ〉の関係、関数というのはいかに時代が変われど、本質的にはそういうものだろう。

 この場合、「古典」は「オリジナル」としてあるのではない。「オリジナル」でないから「カバー」という言い方も成り立たない。なぜだろう。「古典」は、それらを上演する生身の個性を伴った演者の属性と紐付けられていない、だからそれ自体としては、表現として成り立たない。〈いま・ここ〉に生きている生身の個性伴った演者を介して初めて、それら「古典」は〈いま・ここ〉での「オリジナル」になり得るし、その時間と空間の交叉する領域が解消されれば、それはまた〈いま・ここ〉との関係も解かれた「古典」に戻る。このあたりはいまどきの電子化された情報環境における「クラウド」のあり方、オンデマンドでのダウンロードなどとの関係から、さらに敢えて大風呂敷を広げるならば、本邦「民俗」レベルでのカミとの関係などにももしかしたら関わってくるかも知れないと思っているが、まあ、それはひとまず措いておくとして。



 「木綿のハンカチーフ」という楽曲がある。言うまでもない、筒美京平松本隆という、ある意味本邦の商品音楽、通俗歌謡曲としての黄金コンビによる1975年の楽曲……といったことを書き綴っていたら、筒美京平の訃報が飛び込んできたから、ああ、時代というのはこういう配慮、縁のとりもち方をしてくれるものだな、と嘆息した。


★木綿のハンカチーフ★ 大田裕美/1975年(S50)

 この「木綿のハンカチーフ」、元の太田裕美ではなく、2002年に椎名林檎のカバーがあって、これはカバー曲でまとめた彼女のアルバムの中に1曲あしらわれていたのだが、やはり図抜けて印象深かったのだろう、この曲だけでそれなりに話題になったから覚えている向きも多かろう。まるで別の曲、いや、それはアレンジがどうとか編曲がこうとかでなく、もちろんそれらもあるにせよ、それら音楽そのものとしての要素よりもさらに前面に「うた」としての〈リアル〉のかけがえなさが突出して自己主張していた、そのさまによって鮮烈だった。


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 70年代半ば、まだ「マチ」と「イナカ」の違いが否応なく現実の〈いま・ここ〉に織り込まれていた状況で、その違いを確かな足場に創作表現の成り立ちが輪郭をくっきりすることができた、その証明となったような楽曲だったのものが、それから四半世紀ほどたった後、それら前提となる足場がほぼ煮崩れてゆき、大衆消費のしかけのコモディティ化過程に呑み込まれる流れがほぼ全国的に均質に掩うようになっていた状況で、椎名林檎(と松崎ナオ)の生身を介した「うた」がうっかり導き出した〈リアル〉というのは、間違いなく〈いま・ここ〉と「オリジナル」の本質をその身に実装した「カバー」の本領だったと思う。「カバー」というもの言いに、ああ、こういう〈いま・ここ〉の「オリジナル」としての内実を宿すことが可能である証明。同じような鮮烈さは、例によっての半径身の丈極私的な体験で恐縮だが、シュガーの「ウエディング・ベル」を PUFFY がカバーしたバージョンにも感じたものだ。


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 ある種のクラシックやジャズなど、言葉を介した「うた」の要素のとりあえずないような音楽の場合は、こういう角度からの「カバー」の鮮烈さというのは、まず感じられないのではないだろうか。いや、これには当然異論百出だろうが、ただ、言葉と肉声を介した「うた」の要素が、その楽曲を組み立てている重要な位置を占めているからこそ、聴き手のこちら側にそのような鮮烈さを与えてくるという事情は、言葉とわれら人間との抜き差しならぬ関係を思えば、やはりどこかにあるのだろう。「うた」と言葉、そしてそれらを仲介する生身のこの個体との関係というのが、どうやらここで漠然と固執しようとしている「うた」の内実に合焦しようとする時のひとつ、とりあえずの補助線になってゆくらしい。せっかくなのでこのへん、もう少し立ち止まって手もとの日々のお題にしておきたい。

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陳述書 2020.10.27 (冒頭意見陳述)

*1

大月隆寛です。

 裁判を始めていただくにあたって、冒頭、少しだけ自分の今の気持ちを述べさせていただきます。

 自分は1989年以来、大学や研究所の教員として生活してきました。2007年以来、縁あってご当地の札幌国際大学に教員として勤めてまいりました。同時にもちろん、研究者としての研究も行なってきました。

 それらがおよそ正当な理由と手続きのないまま、しかも懲戒解雇という労働者としては最も厳しい処分で職を追われることになった、そのことについては言うまでもなく非常なショックを受け、困惑し、大きな憤りも感じています。

 ただ、ひとつはっきり申上げておきたいのは、それらと共に、あるいはそれ以上に、公益法人である大学という機関がこのような異常とも言える処分をくだすにいたった、その背景の詳細とその是非について、この法廷の場で、法と正義に基づいたまっとうな判断を下していただくこと、そしてその過程において、大学の中でどのようなことがおこっていたのかについて、社会に、世間の方々にも広く知っていただくこと、を目的としているつもりであります。

 さらに、この6月末に自分がいきなり解雇されたことによって、自分が受け持っていた講義科目や演習の学生たちに著しい不利益が生じていることも申し添えておきます。今年に入ってからのコロナ禍でいわゆる遠隔授業が実施されていたことで、4月に入学したものの大学に顔を出すことも禁じられ、同級生やクラスメートとも顔をちゃんと合わせたこともないままだった1年生も含めて、あるいは他方、就職活動を行ない、卒業論文の執筆にもとりかかっていた4年生に至るまで、何の予告もそのための準備もないまま前期半ばでいきなり放り出されてしまいました。その後も誠実な対応をしないまま推移している大学側の態度と、それによって生じてしまった学生たちの不利益についてもまた、この場で明らかにして、それらの是非もまっとうに判断していただけることを、彼ら彼女らの名誉のためにも希望いたします。

 大学という場所が本来どういう場所であるべきか。少なくとも自分は、憲法で保障された「学問の自由」を教員も学生も共に、同じ「学生」、古い言い方を敢えてするならば平等な「書生」という立場で、保障されるべき場所だろうと思ってきましたし、今もそう信じています。それはその大学が有名か無名か、国立か私立か、文系か理系か、大規模なものかささやかなものか、といった違いを越えて、未だに国際的に共通する認識であり、前提だろうと思います。そして、そのような場所を持続的に、安定して維持してゆくのが大学経営の本来であるはずです。

 そのような経営側と、現場の教員を中心とした教学側の、良い意味での緊張関係をもってあるべき大学の姿をめざして努力して行く、立場の違いはあれど、大学という場所に関わり、それを仕事とする者にとってはみな同じ認識だと思っていましたし、今もそれは変わりません。

 経営側と教学側がそのような風通しの良い信頼関係を取り戻して、あるべき大学の姿に少しでももう一度近づくことができるような環境を、自分は何よりも望んでいます。それは、自分ひとりでなく、奇しくもこのような事態に巻き込まれてしまったこの札幌国際大学の、今いる教員や職員などの多くのもの言わぬ想いでもあるはずです。今回の自分の「懲戒解雇」とそこに至る過程は、この大学の教職員はもとより、いま在籍して学ぶ学生たちの、さらにはこれまでこの大学で学んで社会に出て行った卒業生のOBOGも含めた人たちの、大学に対する信頼も大きく損ねてしまった、そのことを教員のひとりとして残念に思いますし、またできるだけすみやかにそれらの信頼を回復できるよう、努力したいと強く思っています。大学としてのまっとうなあり方とはどんなものか、たとえ北海道の小さな私立大学あっても、それは世界的に共通する「学問の自由」という価値に向って開かれたものである、ということを示したいと願っています。

 大学の規定でフルタイム雇用の定年は63歳。自分はいま61歳ですから、あと2年で自分は時間切れになります。この裁判の結果が出る頃には、自分は大学に戻れなくなっているかも知れない。今いる学生たちとももう大学で会えなくなっているかも知れない。そういう意味で今の自分に残されている時間はもう少なくなっています。なので、縁あって大学で出会って共に学ぶことになった、今の学生たちとの関係をまずできるだけ早く取り戻したいと考えていますし、そのために公正な判断をできるだけ早くいただきたいと思っています。そしてそれは、学生たちのため、という一点において、大学本来の目的とも合致しているはずです。

 これはしょせん、地方の一私大のできごと、見る人によってはよくある内紛に過ぎないと思われているかも知れません。ただ、背後にある構造はどうやらいま、この国のさまざまな組織で起こっていることとも、陰に陽に関連しているようですし、その意味では案外厄介で根の深い問題も引きずり出しかねない案件だと、自分としては腹をくくってこの場に臨ませていただいております。

 「懲戒解雇」という異常で不当な処分を、「学問の自由」を保障するべき公益法人である大学が一方的に行なったことの是非。そして、そこに至った背景にある昨年来の留学生をめぐるさまざまな問題の経緯も含めて、どうか法と正義に基づいてご判断をしていただけるよう、裁判官のみなさま、心からよろしくお願いいたします。

 以上です。

*1:仮処分申請が却下された後、札幌地裁での本訴の冒頭意見陳述書。

第1回口頭弁論 冒頭意見陳述

*1
 裁判を始めていただくにあたって、冒頭、少しだけ自分の今の気持ちを述べさせていただきます。

 自分は1989年以来、大学や研究所の教員として生活してきました。2007年以来、縁あってご当地の札幌国際大学に教員として勤めてまいりました。同時にもちろん、研究者としての研究も行なってきました。

 それらがおよそ正当な理由と手続きのないまま、しかも懲戒解雇という労働者としては最も厳しい処分で職を追われることになった、そのことについては言うまでもなく非常なショックを受け、困惑し、大きな憤りも感じています。

 ただ、ひとつはっきり申上げておきたいのは、それらと共に、あるいはそれ以上に、公益法人である大学という機関がこのような異常とも言える処分をくだすにいたった、その背景の詳細とその是非について、この法廷の場で、法と正義に基づいたまっとうな判断を下していただくこと、そしてその過程において、大学の中でどのようなことがおこっていたのかについて、社会に、世間の方々にも広く知っていただくこと、を目的としているつもりであります。

 さらに、この6月末に自分がいきなり解雇されたことによって、自分が受け持っていた講義科目や演習の学生たちに著しい不利益が生じていることも申し添えておきます。今年に入ってからのコロナ禍でいわゆる遠隔授業が実施されていたことで、4月に入学したものの大学に顔を出すことも禁じられ、同級生やクラスメートとも顔をちゃんと合わせたこともないままだった1年生も含めて、あるいは他方、就職活動を行ない、卒業論文の執筆にもとりかかっていた4年生に至るまで、何の予告もそのための準備もないまま前期半ばでいきなり放り出されてしまいました。その後も誠実な対応をしないまま推移している大学側の態度と、それによって生じてしまった学生たちの不利益についてもまた、この場で明らかにして、それらの是非もまっとうに判断していただけることを、彼ら彼女らの名誉のためにも希望いたします。

 大学という場所が本来どういう場所であるべきか。少なくとも自分は、憲法で保障された「学問の自由」を教員も学生も共に、同じ「学生」、古い言い方を敢えてするならば平等な「書生」という立場で、保障されるべき場所だろうと思ってきましたし、今もそう信じています。それはその大学が有名か無名か、国立か私立か、文系か理系か、大規模なものかささやかなものか、といった違いを越えて、未だに国際的に共通する認識であり、前提だろうと思います。そして、そのような場所を持続的に、安定して維持してゆくのが大学経営の本来であるはずです。

 そのような経営側と、現場の教員を中心とした教学側の、良い意味での緊張関係をもってあるべき大学の姿をめざして努力して行く、立場の違いはあれど、大学という場所に関わり、それを仕事とする者にとってはみな同じ認識だと思っていましたし、今もそれは変わりません。

 経営側と教学側がそのような風通しの良い信頼関係を取り戻して、あるべき大学の姿に少しでももう一度近づくことができるような環境を、自分は何よりも望んでいます。それは、自分ひとりでなく、奇しくもこのような事態に巻き込まれてしまったこの札幌国際大学の、今いる教員や職員などの多くのもの言わぬ想いでもあるはずです。今回の自分の「懲戒解雇」とそこに至る過程は、この大学の教職員はもとより、いま在籍して学ぶ学生たちの、さらにはこれまでこの大学で学んで社会に出て行った卒業生のOBOGも含めた人たちの、大学に対する信頼も大きく損ねてしまった、そのことを教員のひとりとして残念に思いますし、またできるだけすみやかにそれらの信頼を回復できるよう、努力したいと強く思っています。大学としてのまっとうなあり方とはどんなものか、たとえ北海道の小さな私立大学あっても、それは世界的に共通する「学問の自由」という価値に向って開かれたものである、ということを示したいと願っています。

 大学の規定でフルタイム雇用の定年は63歳。自分はいま61歳ですから、あと2年で自分は時間切れになります。この裁判の結果が出る頃には、自分は大学に戻れなくなっているかも知れない。今いる学生たちとももう大学で会えなくなっているかも知れない。そういう意味で今の自分に残されている時間はもう少なくなっています。なので、縁あって大学で出会って共に学ぶことになった、今の学生たちとの関係をまずできるだけ早く取り戻したいと考えていますし、そのために公正な判断をできるだけ早くいただきたいと思っています。そしてそれは、学生たちのため、という一点において、大学本来の目的とも合致しているはずです。

 これはしょせん、地方の一私大のできごと、見る人によってはよくある内紛に過ぎないと思われているかも知れません。ただ、背後にある構造はどうやらいま、この国のさまざまな組織で起こっていることとも、陰に陽に関連しているようですし、その意味では案外厄介で根の深い問題も引きずり出しかねない案件だと、自分としては腹をくくってこの場に臨ませていただいております。

 「懲戒解雇」という異常で不当な処分を、「学問の自由」を保障するべき公益法人である大学が一方的に行なったことの是非。そして、そこに至った背景にある昨年来の留学生をめぐるさまざまな問題の経緯も含めて、どうか法と正義に基づいてご判断をしていただけるよう、裁判官のみなさま、心からよろしくお願いいたします。

 以上です。

*1:「懲戒解雇」の不当性を争う、札幌国際大学相手の民事訴訟における冒頭意見陳述。場所は、札幌地方裁判所