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アメリカ大統領選挙がえらいことになっています。というか、まだえらいことのまんまの真っ最中。 本誌の原稿締切りを過ぎて事態が急転していたこともあり、なかなか原稿に手がつかずに推移してしまい、いや、小川編集長、ほんとに申し訳ない。
陰謀論というもの言いがあります。言葉としてはっきり常用のものになったのは、おそらく80年代だったかと。「トンデモ」という揶揄するもの言いと共に、そういう言説は「陰謀論」と呼ぶのだ、という理解が割と普通に広まっていった。それこそ「ユダヤ」だの「フリーメーソン」だのに始まり、果てはどう見てもビョーキの人の脳内妄想だろうという「ニャントロ星人」(あったんです、そういう地球侵略中の宇宙生命体を信奉する向きが)に至るまで、 「科学的」に「論理的」に「証明」できない、されていないできごとやものごとについて、いや、だからこそもしかしたらそういうこともあるかも知れない、というあたりの人の心の隙間にとりついてはびこってゆくのが、それら「陰謀論」なのだ――およそそういう理解が一般的になってゆきました。
ところが、どうやらここにきてそれら「陰謀論」が、単に嗤い飛ばしてすましておけばいいようなものでもなくなってきている気配がある。他でもない、例のアメリカ大統領選挙の結果をめぐって、トランプ大統領が主張している「不正選挙」のストーリー。一見、見事に「陰謀論」の文法、話法でもあるのですが、ただ同時に、今のこの2020年の〈いま・ここ〉の現実としては、決してそれだけではすまされないような内実もはらんできている印象がある。もちろん、それらを「陰謀論」だと嗤い飛ばしてしまう向きも、世間の常識の装いと共にまだ強固にあるし、事実、対抗するバイデン候補とその支持者たち、およびいわゆるマス・メディアの多くはそうやって批判しているのですが、ただ、それら嗤い飛ばす側が依拠しているらしい間違いない「正しさ」というのが少し前までとどこか違う。何というか、「正しさ」が自明の「そういうもの」になってしまって久しい結果、その前提を誰も疑わないことも含めての「正しさ」に知らぬ間になってしまっているような、ちょっといやな変貌の気配を感じています。
「科学」や「論理」、その上に共有される「証拠」「エビデンス」に依拠して積み上げられた結果の「正しさ」が、人間と生身の介在する〈いま・ここ〉の現実に対してどこまで有効なのか、というこれまた思いっきり古くて新しくて大風呂敷な問いが、改めていまどきの情報環境において立ち止まって検証されねばならなくなっているらしい。少なくとも、「リベラル」と自他共に認めるいまどきの市民社会的「正しさ」の側が、「陰謀論」をある種ポリコレ的な問答無用の態度で振り回すのは、その内実がかつての文脈から大きく逸脱したところで予期せぬ猛威を振い始めているところがあるのかも知れない。そして洋の東西、国境や文化の境界なども越えたところで、そういう猛威が近年、現前化して確認されるようにもなっているらしいのは、おそらく古典的な意味での「宗教」と社会の関係などもうっかり凌駕してしまうような何ものか、がすでに介在しているのかもしれない、というあたりのところまではとりあえず、立ち止まって留保しておこうと思います、かつて、その「トンデモ」や「陰謀論」を嗤い飛ばす側に何らかの新たな「正しさ」、〈いま・ここ〉の〈リアル〉の気配を間違いなく感じていた世代のなれの果てのひとり、としては。このお題、息長くしつこく要検討、にしておきます。
*1:『宗教問題』連載原稿