「カバー」ということ

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 「カバー」という言い方がある。特に音楽の、個々のうたや楽曲について言われるようになった印象ではある。元のうたや楽曲があって、それを元の歌い手やバンドとは別の人が歌ったり演奏したりする、そのことをさして言う言い方ではある、一応のところは。辞書的な間尺で言えば、主に流行歌や商品音楽、つまり著作権が「オリジナル」設定と共に確定され、保証されているような種類の楽曲、およびそれらジャンルの音楽に対して、この「カバー」というもの言いは最もなじむものになっているらしい。著作権やら何やらが意識されるようになってのこと、といった社会的背景などもあるのだろう。

 だが、この「カバー」、いわゆるクラシックではこういう言い方はされていないように見えるし、ジャズなどでも同様、せいぜいが「バージョン」という言い方で語られているように思う。同じ楽曲でも演奏者が違う、あるいは演奏日時が異なる、だから解釈その他も違ってきている、そのバージョンといった意味で。どうやら何かが微妙に違うらしい。

 「カバー」というもの言いに対しては、その対極に「オリジナル」というものが想定されている。ある種の原点、基準としての「オリジナル」が確固として存在する、だからこそそれに対する「カバー」なわけだが、とは言え、それは少し前まであったような「ほんもの」と「にせもの」あるいは「コピー」といった、かのベンヤミン流の図式そのままで理解されていいようなものでもなくなっていることも、また確かなようだ。

 それが証拠に、最近ではそれら「カバー」もまた「オリジナル」である、少なくともそういう感覚で楽曲に接する楽しみ方も新たな音楽の消費のされ方として受け入れられてきているように見える。元が、「オリジナル」が何であれ、自分が〈いま・ここ〉で接した楽曲なり作品なりがいいと感じられ、好ましいものならばそれでいい、「コピー」だから「にせもの」だから、といった背景の文脈や来歴についての説明の類は、とりあえず関係ない――そういう消費者としての潔さが、少し前までよりもずっと一般的になってきているようなのだ。そして音楽であれ何であれ、いずれ商品として日常に流通するようになっている文化コンテンツ(イヤなもの言いだが)に対する感覚にそのような風通しの良さがあたりまえに備わってきていることは、とりあえずいいことではあると思う。



 かつては「和製●●」という言い方もあった。いわゆる洋もの、「本場もの」のある意味「コピー」であり、日本人と日本語ベースの国内市場向けにアレンジされたバージョンを称しての冠つき話法。音楽に限らず「和製ベーブ・ルース」「和製ジェームス・ディーン」「和製ピカソ」など割と広く使われるようにもなっていた。あれも考えたら、「オリジナル」な「ほんもの」である「本場もの」に対する「にせもの」「コピー」という図式前提のもの言いになるだろう。ならば、その「にせもの」を当時の〈いま・ここ〉で楽しんでいたその頃の世間の感覚というのは、いまどきの「カバー」をそのものとして屈託なく楽しむようになっている昨今の気分とさて、同じものなのか、それともそうでないのか。

 たとえば、江利チエミの「テネシー・ワルツ」や、中尾ミエの「可愛いベイビー」、弘田三枝子の「夢見るシャンソン人形」……それら昭和20年代後半から30年代にかけて、日本語の訳詞を介して歌われた「本場もの」の楽曲たちは、それまで耳慣れなかった音楽をひとくくりに「ジャズ」と片づけ、同じ箱に放り込んでひとまず理解しようとしていたわれらニッポン人その他おおぜいにとって、その耳慣れなさを身近に感じてなじんでゆく過程で大きな役割を果たしたと言われている。それらも今で言えば「カバー」であるし、また実際、最近ではそれらの楽曲は「カバー」と普通に理解されているようだ。


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 それらは後に、「和製ポップス」などと呼ばれるようにもなったが、その定義もかなりあいまいなまま、ジャンルの呼称としても定着しなかったし、まして個々の楽曲についてそのような呼ばれ方がされることはなかったように思う。「和製●●」と称され得たのは当時、主に歌手でありプレイヤーであり、いずれそれら生身の個性を伴った上演者の側だったわけで、彼らの歌う楽曲や披露する演技の類に直接、その冠がつけられることはまずなかったのではないか、当時の世間の感覚として。

 ということは、具体的な個性を伴う生身の形象、言い方を変えれば見てくれが優先される視覚的な部分については「ほんもの」と「にせもの」の区別が良くも悪くも色濃く伴ってきて、だからこそ「和製」という翻訳感のようなものが強調されてその「にせもの」性を裏返しに補填してもいたのに対して、そうでない部分、たとえば歌われる楽曲自体については、そのような区別はそれほど意識されなかったのかも知れない。なるほどそれは、いまどきの「カバー」をそのものとして、そういう解釈による「オリジナル」として楽しむことのできるいまどきの耳の習慣、音楽に対する聴き方の習い性ともどこか通じているとも言えるし、また、耳を介して入ってくる楽曲のうち、歌詞という「言葉」の要素以外の音そのものの領域に対するわれわれの受け取り方、受容の仕方について、「民俗」レベルも含めたところで立ち止まって考えておくべき何ものかを示しているように思う。

 落語で考えてみよう。古典落語は誰がどう上演しても「古典」であり、あるのは志ん生の貧乏長屋、米朝の親子茶屋であって、それをいちいち「バージョン」などと言わずとも受け入れられている。歌舞伎も同じ。あたりまえだ。演目演題は「古典」で基本変わらない(と認識されている)もので、それを演じる演者が違い、だから生身の個性が異なり、だから解釈や表現が違う。そこに〈いま・ここ〉の表現としてのかけがえなさがあるし、その意味でそれらは常に「オリジナル」でしかないとも言える。人間の関与する表現にとっての「上演」と〈いま・ここ〉の関係、関数というのはいかに時代が変われど、本質的にはそういうものだろう。

 この場合、「古典」は「オリジナル」としてあるのではない。「オリジナル」でないから「カバー」という言い方も成り立たない。なぜだろう。「古典」は、それらを上演する生身の個性を伴った演者の属性と紐付けられていない、だからそれ自体としては、表現として成り立たない。〈いま・ここ〉に生きている生身の個性伴った演者を介して初めて、それら「古典」は〈いま・ここ〉での「オリジナル」になり得るし、その時間と空間の交叉する領域が解消されれば、それはまた〈いま・ここ〉との関係も解かれた「古典」に戻る。このあたりはいまどきの電子化された情報環境における「クラウド」のあり方、オンデマンドでのダウンロードなどとの関係から、さらに敢えて大風呂敷を広げるならば、本邦「民俗」レベルでのカミとの関係などにももしかしたら関わってくるかも知れないと思っているが、まあ、それはひとまず措いておくとして。



 「木綿のハンカチーフ」という楽曲がある。言うまでもない、筒美京平松本隆という、ある意味本邦の商品音楽、通俗歌謡曲としての黄金コンビによる1975年の楽曲……といったことを書き綴っていたら、筒美京平の訃報が飛び込んできたから、ああ、時代というのはこういう配慮、縁のとりもち方をしてくれるものだな、と嘆息した。


★木綿のハンカチーフ★ 大田裕美/1975年(S50)

 この「木綿のハンカチーフ」、元の太田裕美ではなく、2002年に椎名林檎のカバーがあって、これはカバー曲でまとめた彼女のアルバムの中に1曲あしらわれていたのだが、やはり図抜けて印象深かったのだろう、この曲だけでそれなりに話題になったから覚えている向きも多かろう。まるで別の曲、いや、それはアレンジがどうとか編曲がこうとかでなく、もちろんそれらもあるにせよ、それら音楽そのものとしての要素よりもさらに前面に「うた」としての〈リアル〉のかけがえなさが突出して自己主張していた、そのさまによって鮮烈だった。


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 70年代半ば、まだ「マチ」と「イナカ」の違いが否応なく現実の〈いま・ここ〉に織り込まれていた状況で、その違いを確かな足場に創作表現の成り立ちが輪郭をくっきりすることができた、その証明となったような楽曲だったのものが、それから四半世紀ほどたった後、それら前提となる足場がほぼ煮崩れてゆき、大衆消費のしかけのコモディティ化過程に呑み込まれる流れがほぼ全国的に均質に掩うようになっていた状況で、椎名林檎(と松崎ナオ)の生身を介した「うた」がうっかり導き出した〈リアル〉というのは、間違いなく〈いま・ここ〉と「オリジナル」の本質をその身に実装した「カバー」の本領だったと思う。「カバー」というもの言いに、ああ、こういう〈いま・ここ〉の「オリジナル」としての内実を宿すことが可能である証明。同じような鮮烈さは、例によっての半径身の丈極私的な体験で恐縮だが、シュガーの「ウエディング・ベル」を PUFFY がカバーしたバージョンにも感じたものだ。


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 ある種のクラシックやジャズなど、言葉を介した「うた」の要素のとりあえずないような音楽の場合は、こういう角度からの「カバー」の鮮烈さというのは、まず感じられないのではないだろうか。いや、これには当然異論百出だろうが、ただ、言葉と肉声を介した「うた」の要素が、その楽曲を組み立てている重要な位置を占めているからこそ、聴き手のこちら側にそのような鮮烈さを与えてくるという事情は、言葉とわれら人間との抜き差しならぬ関係を思えば、やはりどこかにあるのだろう。「うた」と言葉、そしてそれらを仲介する生身のこの個体との関係というのが、どうやらここで漠然と固執しようとしている「うた」の内実に合焦しようとする時のひとつ、とりあえずの補助線になってゆくらしい。せっかくなのでこのへん、もう少し立ち止まって手もとの日々のお題にしておきたい。

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