三木鶏郎にとっての「うた」の戦後

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 「広告・宣伝」に使われる音楽と、「流行歌」として半ば自然発生的な過程も含めて作られてくる音楽との間には、当時の同時代気分として大きな違いが、それなりに感知されてはいたようです。そしてまた、それらと「歌謡曲」として作られる音楽との間にも、また。

 戦後初めて「CMソング」として、ラジオの民放開始当初に一般に向けて募集されたのが「童謡」と「歌謡曲」であり、「流行歌」というくくりではなかったことをもう一度、思い出しておきましょう。敢えて線引きがされていたとしか思えない、その間の「違い」とは、さて、何だったのか。

 世間一般その他おおぜいの気分や嗜好に向かって働きかけてキモチやココロ――つまり「情動」を喚起してゆくような属性を、それまでの媒体と情報環境のありようから比べても必然的に強く伴わざるを得ないラジオのような新しいマス・メディアが登場した新たな情報環境。そこでは、同じ「流行ること」をめがけた創作であっても、そこに至るメカニズムやからくりには、それまでの「流行歌」とくくられて片づけられていたものとは少し異なる要素があったはずです。少なくとも、CMソング以下、戦後の民間放送を規定する「広告・宣伝」を目的のひとつに設定されていた音楽には、そのような性格を示す何ものかが重要な隠し味としてまつわっていたらしい。そして、どうやらその配合の匙加減にこそ、その頃の「盛り場」に戦前以来、未だ当時はそれなりに野放図に流れてはいられたはずの「流行歌」とは微妙に異なる何ものかが、当時の同時代気分には察知されていたようなのです。

 それは具体的な音としては、たとえば、このようなものでもあったらしい。

「その時である!三越の階下の中央から天来の妙音が湧き上ってボクの運命のサイコロをゆすぶったのは!あの元気のいいスーザのマーチをブラスバンドが始めたのである。ボクは復職願をかきかけたまま、飛び出して廊下の手すりによって下をのぞいて見た。キラキラとスーザホンや銀メッキしたサキソホンが光り輝いて、何年ぶりかの明るいアメリカの音楽なのである。この音楽を聞いている内に、今まで頭の中にもやもやしていた敗戦ボケがふっ切れて、光がさし始めたのである。それは直覚的といおうか衝動的といおうか、理性では判らない或る力にひっぱられて、ふり向きもしないで階段を下りて行った――フランクキャプラ的転向であり「我が道を行く」であった――気分としては。」


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 三木鶏郎です。敗戦後の一時期、ラジオと共に広告・宣伝も股にかけ、民間放送の黎明期にそれまでとは違う経路での新たなかたちの「流行歌」を多数作り出して、当時の同時代気分を煽り、ブーストをかけてもいった戦後大衆社会状況に対する意識せざる工作者となったひとり。彼は、自身の内なる「音楽」の意味が敗戦によって一大転回した体験をこのように語っています。

「ボクは再び焼跡に立った。音楽家になると云う決心が決まっていた訳ではない。只、自分の足の上に立って、自分の主人公になって次の時代が要求する何ものかを創造しようという決心だけであった。それは何ものであるか――どういう形を取るのか――何ンにもはっきりしてはいなかった。」(三木鶏郎「冗談半生記」『モダン日本』1948年11月号、『冗談党宣言』実業之日本社、1949年所収)

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 この天啓とも言い得るような、ある種の感動と回心の告白。少し前に触れた、電通の吉田秀雄が奇しくも同じ1948年(昭和23年)に草していた「広告」に憑依したかのような高調子のマニフェスト、「常に到る所で我々の身辺を、我々の生活を囲繞する処のもの、政治も、文化も、経済も、それなしには成長と、発展を、否その存在をすら脅かされる所のもの、謂って見れば社会の紐帯とも称せらるべきもの、宣伝とは、広告とはこうしたものであろう」というくだりと同じ気分、よく似たある種の高揚感が、ここにも横溢していることが感じられないでしょうか。

 もちろん、ここでの三木鶏郎の意識は、吉田のように「広告・宣伝」自体に直接に合焦しているわけではない。けれども、自分自身も含めた戦後の新たな、生まれ変わらなければならないと深く感じた日本の国民に対して、彼らが要求する、彼らに必要な音楽をつくるべき使命を明確に察知している限りにおいて、それら国民一般に働きかける創作――彼にとっての「音楽」の、その後とるべき方向性を自覚していることがよくわかります。敗戦後3年、1948年(昭和23年)の〈いま・ここ〉の〈リアル〉とは、このような側面もはらんでいたらしい。

 そのような「国民一般」といった大文字の訴求対象を明確に設定した以上、それはまさに「大衆」と二重写しになり、眼前の同時代に生きる彼らに確実に届くための技法に求められるものとして、「広告・宣伝」は必然的に入り込んでくるべき属性になる。ゆえに、彼にとっての「音楽」は、それら「広告・宣伝」属性と切り離すことのできないものとして戦後の情報環境に、にわかに「民主主義」に沸き立つ同時代気分の公会堂に朗々と、おそらく彼自身が考えていた以上に広く、力強く響き渡ることになりました。それは確かに、それまでになかった味わいの音楽として、当時のわれら同胞その他おおぜいのキモチやココロを、それまでと違う興奮に誘ったものらしい。


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 その三木鶏郎、岩波文化と講談社文化の分断を糸口に、当時の本邦「大衆」のありようについて、このように語ってもいます。

「日本には二つの種がいるのである。その人種は、言葉も、食物も、住宅も、衣服も、讀む本も、歌う歌も全部異なる。かたや直譯的なレトリックをもち、かたやべらんめェの論理の飛躍がある。かたや毎日コーヒーをのみ、かたや茶漬けにたくあんをつける。かたや四畳半に長火鉢を備えつければ、かたやイスと机にスタンドを用意する。長火鉢の前に『講談倶楽部』がよみさしで伏せられ、スタンドの前の岩波文庫にはリボンのしおりがはさまれる。(…)一言で片づければインテリと俗衆である。この差がはなはだしいだけではない。この兩者が壓倒的多數で、中間が空白な事である。理論と実践が――精神と肉體が平均に発達した人間がいないのである。」

 図式的と言えば図式的ですが、しかし、当時の大衆社会状況に対する理解の水準としては悪くない。いや、杓子定規な概念や理論で説明されるのでなく、的確な比喩で「分断」を語ってみせるあたり、「冗談音楽」の始祖であり、『日曜娯楽版』『ユーモア劇場』などの番組で、ラジオを足場に占領下の同時代を一気に駆け抜けた早すぎた異才、三木鶏郎の面目躍如でしょう。

 そして、こう続けている。

「この兩極端の間に中間文化を作るということ、指導性あり價値ある大衆文化を作るということは、理論的にはインテリに了解され唱導されていたが、例によつてアタマでつかちで實践を伴なわないものであつた。その證據にはいつまでたつても試作品さえできない。たまに、「これが價値ある」大衆文化であると料理臺に出されたものをかんじんの大衆が食いつかなかつた例がいくつもある。」

 「中間文化」という言葉が出てきます。だが、これを過去の雑誌記事索引類を集大成した『明治・大正・昭和前期 雑誌記事索引集成』(120巻)を基に作成されたデータベース「ざっさくプラス」に放り込んでも、1955年以降のものしかヒットしない。おそらく、1957年(昭和32年)に刊行された加藤秀俊出世作『中間文化』(へいぼんぶっくす 平凡社)あたりを介して、インテリ知識人世間におおっぴらに流行するようになった形跡なのだろうと推測されますが、それ以前の1949年(昭和24年)の段階で三木鶏郎が、それもこのような的確な文脈で「中間文化」という語彙を持っていたことが、自分には興味深い。

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 もちろん、当時としては間違いなくインテリ知識人としての知的形成過程をくぐってきていた彼のこと、まして、NHKに草鞋を脱ぐきっかけを作ったのが丸山真男の兄、丸山鐵男だったことなどを得手勝手に結びつけるならなおさら、これは丸山真男的な脈絡での社会科学的な術語だったのでは、と憶測されるのも、まあ、いまどきならば致し方ないのでしょうが、しかし、何もしちめんどくさい考証沙汰などせずとも、そういう社会科学的な術語としてこの場の彼がこの「中間文化」を使っていたとは、自分にはちょっと思いにくい。岩波文化と講談社文化、本邦の大衆社会状況の「分断」を象徴するふたつの文化的ありようの「中間」の、質的にも穏当な中庸さを身につけた新たな文化を創り出すことがこれからの日本を支える主体の創出につながってゆくはずだ――彼の内心を斟酌しながらほどくならば、およそこのような内実が込められた、ごく素朴なもの言いだったのだろうと思います。

 そのような意味でなら、「三木鶏郎が音楽家として台頭する経緯が示しているのは、平時ならば社会において支配的な地位につくことによって後退(少なくとも個人のうちに潜在)してゆく文学青年的な芸術趣味に基づく音楽活動が、敗戦にともなう価値転倒のなかで特異な形でオーヴァーグラウンドに浮上し、一躍メディアの寵児になってしまった、という事態ではないだろうか」(輪島祐介「戦後放送音楽の「ホームソング」志向と三木鶏郎」、2011年)といった、一見きれいに整理されたように見え、そして総論的な意味での一般性の水準においては合格点かもしれない彼に対する近年の評価のもの言いについてもまた、異なる「読み」の足場を構築しながら相対化してゆけるはずです。


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 たとえば、こういうところ。レコード会社におけるそれら「分断」の実際を引き合いに出しながら、彼はこんな言い方もしています。

浪花節や講談が邦楽部に属するのは當然だが、和製洋楽のたぐいである流行歌や歌曲もこの部分に入る。」

 この「歌曲」というのは、「歌謡曲」の誤植ではないかと思われますが、ここでの「流行歌」とは、先に触れてきたような、マス・メディア以前の情報環境から民俗的な経緯で「うた」として「流行」してくる経緯までも包摂し、さらに加えて新たにレコードやラジオを介した商品音楽までもが等しく同時代の眼前の「うた」として渾然一体、茫漠としたまるごととして現前している総体といった意味ではなく、レコード会社が生産する商品音楽として「流行」してきた楽曲、という限定的な意味においてでしょう。

 この場で注意しておきたいのは、当時の「流行歌」や「歌謡曲」は、先の構図で言えば岩波文化的なものではない講談社文化的なものに属する通俗「大衆」の嗜好に投ずる「邦楽」の受持ちになってはいるけれども、しかしそれは「和製洋楽」である、と、さらりと言っていることです。マス・メディアに乗じてゆくことを属性として生産される商品音楽は「和製洋楽」、つまり「洋楽」のたてつけをとってはいるけれども、それはあくまでも「大衆」の嗜好に投ずることに役立つ言わば味つけ、隠し味としてのものであり、正真正銘生一本の洋楽ではない、という認識に立っての言い方らしい。ならば、自分はそこにもうひとつ、レコード会社の生産する商品音楽である以上、否応なしにまつわらせられてくる「広告・宣伝」の属性を加えることで、このなにげないもの言いのはらむ可能性を拓いてみたい。


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 彼が天啓を受けた、三越でスーザのマーチを奏でていたブラスバンドは、アメリカ軍の軍楽隊だったかもしれません。その響きは、「音」としてはそれまでにも帝国陸海軍の軍楽隊が演奏していたものと、そう変わらなかったでしょうし、昭和初年あたりまでなら、軍楽隊ならずとも民間の吹奏楽団が同じスーザのスコアを使って演奏することもあり得たかもしれない。何より、彼自身がスーザの名前と楽曲を聴き知っていた程度に、戦前、昭和初年の情報環境で「マーチ王スーザ」とそのマーチは、「モダニズム」「アメリカニズム」の一環として知られるようになっていたのでしょう。けれども、それは単に物理的な「音」だけでなく、それを聴いた敗戦後の三木鶏郎の耳にとって、それはある種の「うた」として、ココロやキモチを深いところで動かしてゆくような質を伴い響いていたはずです。そう、「音」もまた「うた」のかけがえのない要素であり、〈いま・ここ〉に現前してゆくために欠かすことの出来ない構成部品でした。

「ラジオというマス・コミュニケーションは、政府とか、与党とか、資本家とか、さては労組とか、特定の階層の代弁であった時、聴取者はそっぽを向く。それが国民全体の問題を取り上げた時に、大衆は絶対的にラジオを支持するのである。」(吉本明光「思い出の放送」、毎日ライブラリー『ラジオ・テレビ』月報、1954年)

 彼の事務所には、のちに若き日の永六輔野坂昭如らが集うようになっていったことも、すでに戦後史の挿話として知られています。その野坂自身、トリロー流の「広告・宣伝」流儀のCMソングをかたっぱしから引き受け、それらの歌詞を書き飛ばしていた頃のことを、こう言っています。

「芸術的衝動にかられたり、苦しい胸のうちを託したりして作詞しません。このことを忘れると、あなたはたちどころに栄光あるCMソング作詞者の座から堕ちて単なる詩人と化します。」

 「詩人」ではない、いや、むしろ「詩人」ではいけないのだ、CMソング作詞者は――これは当時のそれまで自明だっただろう「文学」一般、それらを雛型にした「芸術的」創作の作法自体を否定するマニフェストです。ある程度韜晦もあってのこととは言え、敗戦後一気に現前化したそれまでと異なる大衆社会化状況と、そこに確かに立ち現れている世間一般その他おおぜいのキモチやココロを真正面から相手取り、それらの意を迎えることを稼業とする立場にとって、従来の「芸術的」創作に規定された自意識は鈍重で、ものの役に立たないものに見えていたのでしょう。「うた」もまた、そのような情報環境の転変の裡に、水が器に沿うように姿を変えてゆきます。

ばんえい十勝「公社化」騒動・草稿

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 去る1月27日、北海道は帯広の、ばんえい十勝・帯広競馬場で、ばんえい十勝調教師会・騎手会とばんえい競馬馬主協会が、帯広市長に対して「要望書」を手渡しました。

 内容は、「ばんえい競馬の公社化に反対する」というもの。これだけでは何のことかわからないでしょうから、少しご説明しましょう。

「公社化」というのは、昨年暮れ12月15日付けの十勝毎日新聞に突然、地元財界関係者などで構成する「ばん馬と共に地域振興をはかる会」会長で、帯広商工会議所会頭でもある川田章博氏が、ばんえい競馬の運営を現在の帯広市直営から「公社」など別法人にすべきとの持論を展開した、という報道が出されたことで、にわかに表沙汰になった案件。地元紙の片隅の何の変哲もない報道記事でしたが、ここ数年、主催者との間の軋轢が増し、信頼関係に亀裂を深めていた厩舎や馬主など現場の関係者には、あ、これは競馬の運営を別法人化することで一部の連中が競馬をわが物にする囲い込みを画策しているな、と、ピンときたという次第。

 全国の地方競馬はここ数年、どこも右肩上がりに売上げが伸びて収支改善、経営状況が好転しています。いわゆる普通の競馬ではない特殊な形態のばんえい競馬も例外ではなく、昨年令和3年の総売得金が前年比120%増の510億円あまり、1日平均も約3億4千万円と記録的な数字を叩き出し、年末30日の開催では7億円という1日あたりの売上げレコードも達成、「50年ばんえいやってきたけど、こんなの経験ない」(あるベテラン調教師)と言うほどの好況ぶりではあります。

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 思い起こせば16年前の2006年暮れには、その頃相次いでいた地方競馬ドミノ倒しのご多分にもれず、四自治体の市営競馬組合から北見市旭川市と櫛の歯引くように抜けてゆき、岩見沢市まで抜けて帯広市の単独開催に追い込まれたことで廃止確定になったところ、その最後の土壇場で、当時進められていた競馬法改正による「民営化」のテストケース的にソフトバンクと提携、その後は新たな改正法の下、外部委託できる部分をアウトソーシングするなど、厩舎などの現場関係者と主催者とが協力しあって、他の競馬場と異なる立場で懸命に努力してきた結果と言えます、とりあえずは。

 なのに、というか、だから、なのかもしれませんが、ここ数年、主催者と現場の厩舎との間の信頼関係は悪化する一方で、表だって特に報道などされないものの、水面下での不信感や不満はずっとくすぶっていました。

 もともと、公正確保など核心の部分は公的セクターがきちんと担保するたてつけになっている公営競技のこと、経営不振で「民営化」に舵を切ったとは言え、再び儲かり始めれば、以前のお役所丸抱え競馬時代の習い性が顔を出すのは、まあ、いずこの競馬場も似たようなもの。やれ、施設の改善だなんだと、現場が求めてもいない事業に予算を流し、お手盛りの業者などに発注、ずさんな工事でやり直しといった不手際が目立つようになっていたばかりか、日々馬と共に仕事をし、暮らしている厩舎側との信頼関係なくして成り立たないはずの競馬と競馬場の運営にも関わらず、「学歴のないおまえらに何がわかる」と言わんばかりの居丈高な態度すら、主催者側が随所で露骨に見せるようになり、せっかく売上げが伸びて収支改善されたのだから、賞金や手当の増額や今後の生活安定のための基金創設など、厩舎関係者の生活環境改善のための、まず妥当な提案を現場から繰り返し要求されても、渋い顔のまま。加えて、そのような状況の下、一部の馬主や獣医に働きかけて既存のものとは別の団体を作らせ、そちらを優遇、後押しして、現場に対する分断工作を仕掛けてきていた経緯まであったところに、その「公社化」構想が一方的にほのめかされたことで、とうとう現場関係者の不信感が爆発したという経緯でした。

 当日、記者会見席上で、調騎会、馬主会それぞれ主催者と帯広市に対して要望書を手交したのですが、その趣旨はほぼ共通していて、いずれもこの時期の性急な「公社化」に対する懸念が示されています。

・ 市が直営するよりも責任の所在が曖昧になるばかりでなく、独断的な判断を容認することに繋がるなどリスクの多面的評価がしにくくなり、経営判断を見誤る可能性がある。


・ 議会の権限が間接的になり、監視機能が弱体化すると共に、開示すべき情報が容易に得られなくなり、透明性が担保できなくなる。


・ 公社廃止、統合という時代の潮流に逆行し、天下り先の容認・確保や所謂「わたり」の温床となることが懸念され、結果として組織の肥大化による人件費等の高騰や収益を浪費する体質に陥るなど、将来的に経営を圧迫することが予測される。

 かつて放漫経営で存廃の瀬戸際に追い込まれた四市運営組合時代のように、人事異動が停滞し、経理担当者が長年同じ人物になることで、横領行為が長期にわたり継続、被害金額が拡大したような事態が再び起こりかねない――といった具体的な指摘も混じり、厩舎関係者や馬主の間にわだかまっている、現在の主催者に対する不信感の根深さがうかがえます。未曾有の好況であるがゆえに、現場の関係者からの訴えは切実で、共に、帯広市に対して文書での回答を求めていました。

「私達は、法人化という案の是非以前に、ばんえい十勝の競馬運営の将来に関わる問題を、我々現場の人間も含めて同じテーブルで議論を積み重ねることを求めます。性急で、現場の知識や経験を踏まえた議論の積み重ねもない今回のようなやり方での運営形態の変更をするのでは無く、当面は今まで通り、帯広市による責任ある公正な競馬運営を続けていただけますよう、タックスペイヤーである帯広市民からの信頼を繋いでゆく上でも強く、お願い申し上げます。」

 ちなみに、記者会見には、地元の主だった新聞社や通信社が参加していましたが、紙面に記事として掲載したのは、翌日の十勝毎日新聞だけ。その後、帯広市の反応も含めて、この「公社化」反対表明についての継続的な報道は、2月8日現在、あらわれていません。 

*1:「草稿」であります。決定稿はまた別途。

*2:その後、帯広市長からの回答もありましたので、そのあたりも含めて加筆、手を入れたものが公開されました。……220227 (´・ω・)つ「 www.bengo4.com

「学者」って、なあに?

 学者の世間離れ、というのは何も今に始まったことではありません。

 一般的なイメージとしても、またある程度具体的な実態を伴った見聞、身の丈の経験値としても、いわゆる「学者」というのは「世間」「浮世」のあれこれからかけ離れた、超然とした存在という風に思われてきましたし、また、そう言われても致し方のない存在でもありました。そしてさらに言えば、そういう程度のわかられ方で片づけられてもとりあえず世の常、日々の営みに実害はない、世間一般その他おおぜいにとってはそんな「余計もの」でもあった、ということでありましょう。

 けれども、時は移り時代も変わり、もはやそういう学者の世間離れを、その当の世間の側も看過してくれなくなっているらしい。

 話せば長く、また情けないことこの上ない、いまどきの本邦の学者世間の恥さらしになるので思いっきり端折ります。いまどきありがちなSNSの、それも鍵を掛けて許された内輪同士にしか見えないようにしていた場所で、好き放題の悪口陰口をやっていたら、それを悪口言われとる本人とその界隈にご注進したのがいた。その内輪にいたのか、それともコピーの受け渡しか、とにかく外へ漏れちまった。まあ、学校の教室などでよくあるトラブルですが、その悪口の内容が「女性差別」にあたるということで話が大きくなり、1,000人以上の名前を連ねた回状までまわされ、その結果、言った当人は国立の研究所の職まで事実上失うような事態が出来しました。最後の失職の段はいくらか新聞その他で報道されましたが、ことがそこに至る経緯については、さすがに「学者」の所業としてみっともないのか、表だって取り沙汰されておらず、例によってSNSその他web環境介した情報流通において多方面に物議を醸し続けています。ことの是非以上に、いずれいまどき本邦の「学者」がたがこのように子どもじみた諍いを、それもおおっぴらにやらかしていることに、世の中の冷ややかな視線がそそがれることになっている次第。

 そもそも、「学者」とはなんでしょうか。「学問」をなりわいとする人間でしょうか。それとももっとゆるく、「学」のある人、という程度のものだったのでしょうか。ならばその「学問」なり「学」というのは、さて、具体的にどのようなものを想定されてのもの言いだったのでしょうか。

 あいつは「かしこい」やっちゃ――こういう言い方もありました。でも、この「かしこい」は「学がある」のとは違う。むしろ対極というか、裏表みたいなニュアンスすらあるような。さらに「学がある」になると、「かしこい」とはうまく両立しなくなる。いや、しないわけではないにせよ、それは相当にレアな例であり、また生身の存在としてはその「かしこい」という属性だけで十分なわけで、それはやはり 「かしこい」が「世間」に内在している価値だからでしょう。一方、「学」や「学問」はそうではないらしい。だから、「学がある」というのも一応ほめ言葉ではあっても、日常生活と紐付いた褒め方とは言い難い。とすれば、その「学」や「学問」を殊とする人が「世間」から遠い存在であるのも、何も不思議ではありませんでした、それこそ、その「世間」のあたりまえからは。

 なのに昨今、ことさら「学者の世間離れ」が、それも先に触れたような心萎える事例と共に、改めて論われるようになっているのは、世間や浮世のあれこれとは別の、彼らだけの別天地を形成してそこに安住している、「学者」がそんな存在として世の中から許されなくなっていることがあるように思います。近年、「役に立つ」「実利」につながる学術研究がことさらに言われるようになっていることなども含めて、「学者」も「学問」も共に、少し前までのような「世間離れ」のまま、何を言ってもやらかしても「余計もの」としてお目こぼしされているわけにはいかなくなっている。時の流れ、世の転変ということだけでなく、最大の問題は、当の「学者」の人がたが、そのような潮目の変化について、どうやら驚くほど鈍感なままであることだと思うのですが、さて、これをどのようにそれら中の人がたに気づいてもらえるものか。かつてそういう世間に、かたちだけとは言え身を置いていたひとりとしても、これは相当に悩ましいお題ではあります。

「放送」と「いなか」の耳


 戦前の「盛り場」、それも大正末の関東大震災以降、復興してゆく東京を「尖端」として現出されていったようなあり方は、それ以前の「市」的な、どこか近世以来の歴史・民俗的な色合いに規定された賑わいとは、どこか違う空気をはらむようになっていたようです。それゆえ、その世相風俗的なあらわれの部分でとらえて「モダニズム」と称され、あるいは思想史・精神史的な流れから「リベラリズム」と呼ばれ、またその出自背景から「アメリカニズム」として切り取られることもありました。

 とは言え、呼び方名づけられ方はさまざまでも、いわゆる「都市」的な生活文化のある象徴的なあらわれとして理解されるようになっていったことには変わりない。あるいは、それより少し前、明治末から大正期にかけてすでに芽生え始めていた「郊外生活」「田園生活」といった暮らしぶりにその下地は見られたでしょうが、それらはいずれ「消費」を旨とする生活であり、その頃輪郭を整え始めて現前化していたような、新しい都市生活者に典型的に見られるようになった暮らしぶりとして理解されていました。

 当時、「消費」は未だ悪徳であり、少なくとも望ましいものではなかった。「生産」こそが重要であり、社会を支える営みの中核であり、まただからこそ、それら「生産」のために整備されるさまざまな世の中の仕組みから、そこに働き、動く人たちのための倫理や道徳といったものまで、「あるべきまっとうなもの」として、「社会的に望ましいかたち」として認識されていました。なので、「消費」を前景化したそれら都市生活には、「享楽的」や「退廃的」といったネガティヴな評価がつきまとっていた。そして、「盛り場」にそのような「モダニズム」は横溢していました。必然的に「消費」の様相もまた、「享楽」や「頽廃」の彩りと共に。

 このような「モダニズム」と称されるあらわれを、もう一度ゆっくりほどいてみることもまた、「うた」をめぐるわれわれのココロの来歴を〈いま・ここ〉から自らのぞきこんでみようとする際、どうやら避けて通れない作業のようです。

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 そのようなきらびやかな都市の「盛り場」の「モダニズム」は、しかし生身の人間、日々生きるひとりひとりの実存にどのような影響を陰に陽に、与えるようになっていたのか。そのような都市ではない、〈それ以外〉の「いなか」とひとくくりにされる現実に生きていて、だから都市に出てくれば「いなかもの」と異物、別もの扱いで呼ばれ、時に一方的に嗤われる対象とされていたような生身が、さて、現実にどのようなありようを当時、具体的に示していたのか。いずれ大文字の、抽象化された概念による整理整頓、理解だけでなく、その向こう側、それら抽象に必ずはらまれているはずの個別具体の様相と、そこに根ざした〈リアル〉を諸共に「わかる」に引きずり込もうとするなら、そのような視線もまた、欠かせない。

 ならば、こんな素材はどうでしょう。いまから70年ほど前、敗戦後まだ間もない昭和25年4月、宮城県黒川郡という「奥羽山脈の中腹にある山間部落の小学校分校で、学級数二、児童数五十名、教員二人」という状況で記録された、当時の子どもたちの使うことばの違いについて、ひとりの先生が記したささやかな個別具体の様相。

 「彼等は青年乃至成人に達しても、他の地域に出て自由に自己の意志を表現して、相手の了解を得るということに、一方ならぬ困難を抱いていた。父兄たちもわたくしどもと話しながら大方は震えていたし青年たちが村の中心に出て用をたすばあい等は、その容貌に異様な緊張と劣等感の想が現れていた。村全体の運動会や辯論会等に出た青年たちは「会場に入ったとたんから体がこわばつて手も足も動かなくなる」と述懐していた。また、当地から約六十キロの地方中心町に行くと、道を歩いている総ての若者が恐ろしく見えるとも話していた。」(相馬勇・相馬はちえ「学習効果はこのようにあがった――僻地における放送教育の建設記」『放送教育の実践――学校放送を利用していかに学習効果を高めたか』1953年)

 この先生、農閑期の冬を利用して、その分校の地区だけでなく、周辺の部落も含めた地域の青年男女を集めて青年学級も開いていました。以下は、旧正月の新年宴会でのひとコマ。

 「わたくしどもの分校学区内の青年たちが、専ら山唄、田植唄等の素朴な俗曲のみを歌うのに対して、他の学区の青年たちは、専ら流行歌謡曲のみに終始するという、明らかに対照的な事実であった。この相異は、ラジオによって条件付けられた結果に外ならなかつた。当学区の青年たちは、電灯もラジオもないため、知っている歌といえば、いきおい民謡に限られるが、他学区の青年たちの家庭は、点灯地区にあるため、日頃ラジオを聴くことが出来て、流行歌を知る機会に恵まれていたのである。」

 ラジオが入った地区の青年たちは「流行歌謡曲・流行歌」を歌うのに、そうでない地区の者は地元に伝承されているらしい山唄や田植唄など「俗曲・民謡」しか歌わない、というこの違い。情報環境の違いによって「うた」のありかたも別のものになっていることが、くっきりと記されています。これは単に歌うレパートリーの違いというだけではない。そのもうひとつ先、「うた」を「うたう」という行為とそれに伴う「場」のありようからすでに別のものになっている、ということでもあります。

 このような違いは、この分校にラジオを持ち込んで子どもたちに聴かせようとした過程にも、あからさまに反映されていました。とにかく電気も通っていない部落なので、乾電池式の出力の貧弱な直流ラジオを自腹で何とか設置したこの先生、最初の二ヶ月間、とにかくラジオの前に全員集めて、さまざまな方向を聴かせてみた。最初は珍しく放送に聴き入っていた子どもたちが、一週間もすると「やがて理解できるもののみに耳を傾け、他のものには全く耳を貸さなくなってきた。」

 「この選択の結果、彼等に採用されたものは「幼児の時間」と「浪曲の放送」だけであった。しかも幼児の時間を熱心に聴く者は、三、四年生の極く優秀な児童と、五、六年生の児童に限られていた。しかし奇妙なことには、浪曲の放送にだけは、全児童が水を打ったようになつて聞き入った。「幼児の時間」しか理解できない彼等が、浪曲の内容を理解できるはずがない。全く奇妙だ。」

 戦後のNHKのラジオ放送、それも子ども向けの教育番組に対して、中学年以上のそれなりに耳の社会化された者がようやく対応できる程度の「耳のリテラシー」しか備わっていなかった彼ら子どもたちが、しかし浪曲にだけは全学年「水を打ったようになって聞き入った。」「いなかもの」にとっては、ことばもまた「うた」でしかなかったことの、おそらくは期せずしてのこの貴重な証言。「全く奇妙」でも何でもない、「うた」とはかつてそういうものだった、ただそれだけのことなのですが。

 これに対してこの先生、「ときおりやってくる田舎廻りの浪曲師」によって部落の老若男女全てが「浪曲のメロディーにだけは理解できるように準備されていた」からだろう、と推測して納得しています。是非もない。しかし、それだけでは、浪曲が彼ら子どもたちの「耳のリテラシー」にとってどうしてそのようになじめるものだったのか、という問いに対する十分な答えにはならない。

 彼らにとって浪曲は、山唄や田植唄と同じような、彼らとって自明に身についた切実な「うた」の範疇として聴かれていたのではないか、という補助線をひとつ引いてみましょう。そしてその先、そのような「うた」は、ラジオにすでになじんだ部落の若い衆らの「流行歌・歌謡曲」とどう違っていたのか、その間の「うた」の理解にどのような不連続が当時、見えないところですでに走っていたのか、ということにまで考えを及ばせてみましょう。でないと、このような「うた」の内実は、豊かに開かれてこない。

 浪曲は語りものであり、それに「フシ」がついている芸能、と一般的に理解されています。ことばによって語られる「文句」の流れに「フシ」が伴うことで初めて、彼らにとっては「うた」として、山唄や田植唄と同じように耳に届き、だから「理解」できるものになっていたらしい――この部分、このようにほどかれるべきでしょう。

 「フシ」と「文句」という区別によって、「うた」というもの言いの裡に生身と共に融合されていたはずのものが音楽・楽曲的な要素と「ことば」とに分解されてゆき、生身に宿っていた「うた」のまるごとから乖離していった。そのことによって、言わば「こころ」や「情」といったもの言いで指し示されるような領域が改めて前景化して意識されるようになり、それまでと異なる輪郭で生身の側に再度、投げ返されてもいった――「歌詞」と「曲」とに分業されて制作されるようになってゆく「流行歌・歌謡曲」、つまり商品音楽の近代とは、言わばそのようなものでもありました。そして、「作詞」が「作詩」と理解もされ、そのように過剰に前景化されて再認識されるようになった「こころ」や「情」を表現することこそが「流行歌・歌謡曲」的商品音楽の最も重要な役割とされるようになってゆくことで、のちの「演歌的なるもの」の定型化へ連なってゆく下地にもなっていったのですが、しかし、それ以前の「うた」はというと、それら「文句」も「フシ」も共に渾然一体、上演の「場」に生身を介して現前し、臨場するまるごととして立ち現れるもの、というのが言うまでもなく、その本来のありかたでした。何らかの感情が動かされる、心のある部分が揺らがされること、それが何らかの表現を求めて外側に出てゆく――「うた」とはそのようなものでしたし、「こころ」や「情」もまた、それらまるごとの裡に抱かれて初めて「身にしみる」ものになっていました。

 何も浪曲だけでもない、それこそあの坊主の概ねわけのわからない読経にしても、あの「文句」を言葉として理解し、文字のように意味を受けとる聴き方を多くの人びとがしていたとは思えない。文字の読み書きのリテラシーのない、あるいは薄い人がたにとって、楽曲的な商品音楽の「文句」である「歌詞」はどのように聞こえていたのか。それとて、文字の歌詞を読むように意味を受けとっていたはずはないでしょう。だとしたら、そこで彼らの耳を介して響いていた話し言葉としての「文句」は、その音楽のその他の要素、たとえば楽器の音色や節、調子などと同じ水準、同じ文脈で彼らの耳に届き、彼らの「耳のリテラシ-」を介して響いていたのではないか。

 浪曲の本質は「フシ」であり「声」であり、だからこそ「文句」は何でもいい、あの「何が何して何とやら」という文句を延々と繰り返しながら「ノド」だけを鍛えて「フシ」を整えてゆくのが稽古の基本だったという、挿話としてよく語られているような浪曲の入門当初の修業の定型も、その「フシ」に「乗る」ことばも同時に「音声」として、生身を介して上演されることを自明の前提にしていたからこそ、成り立っていた修業のプロセスだったはずです。

 そのように「うた」があり得た「いなか」の情報環境に、ひとつラジオが入り、「放送」の間尺に沿って整形された「流行歌・歌謡曲」が流れ込むことで、そこに生きていた者たちの生活文化の裡にあった「うた」のありようが変わる。ことばもフシも、共にまるごととして生身の上演でしかあり得なかった、だからことばも「音声」として理解する「耳のリテラシー」が実用性と共に実装されていたものが、みるみるうちに「流行歌・歌謡曲」の「歌詞」になじんで、それらをあらかじめ定められたメロディをなぞって歌うようになる。でも、それはそれまでの「うた」のありようとは、すでに別のものでした。

 「その後は、専ら浪曲と幼児の時間のみを聴取させた。学習の時間割もそのように編成した。こうして二か月程経た頃、優秀な児童たちの間に、ラジオに対するより高次の適応性が培われて来た。それは、休憩時間中に放送されるニュース等のところどころを、理解していたという二、三の例によって認められた。そのことを発見したわたくしどもは、浪曲などは一切なくして、専ら「幼児の時間」「低学年の時間」及び「中学年の時間」を聴取させることにした。」

 かくて一年半、このようなラジオを使った教育を施した結果、分校の子どもたちの作文や朗読が「極めて巧みで豊かなもの」になった、と、この先生は誇らしげに成果を報告しています。一年から六年まで、全学年がそれぞれの学年に対応した教育番組に対して、「傾聴から的確な理解をする」ようになった。「彼等は、ラジオを通して多くの社会を知り、多くの技術を身につけた。歌謡曲も覚えた。今年の芸能会からは、やくざ演劇から脱皮して、かなり良くこなせた歌舞伎等を演じた。胸を張って歩くようになった。話すことや眼色まで変つた。」

 「文句」は「フシ」であり、「フシ」が「文句」でもあるような「うた」、そしてそれを支えた「いなかもの」の「耳のリテラシー」は、ラジオひとつ持ち込まれることで「放送」が介入してきた情報環境の変貌によって、わずか一年半で上書きされるようなはかないものでした。「放送」もまた「文字」と同じく、言わば「音声化された文字」とでも言うような強制力と規範性を伴いながら、それでもなお「うた」の習い性に最適化されていた「耳のリテラシー」を上書きしながら、「学校」を介しての情報環境の変貌を、彼ら「いなか」と「いなかもの」の上にあまねく施していったらしい。

 「モダニズム」の実相は、このようなめんどくさい経緯を伴いながら、われら同胞の生身の「うた」の習い性をも、知らぬ間に書き換えてゆきました。

さまざまな「いなか」が――石原苑子『祖母から聞いた不思議な話』

twitter.com

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 主人公というか主な語り手、主な素材供給元であるおばあちゃんは、昭和7年の生まれ。主な舞台は、岡山県北西部とおぼしき土地、おそらくは今の新見市編入されたムラでしょうが、そういう具体的な地名もまた、まず意味がない。というか、関係ないんですね、こういう「おはなし」には。だって、「おはなし」だもの。

 おばあちゃんがこれまで見聞きしてきたことや体験したことを孫が聞いて、それをもとに描いた漫画――それがこのような「おはなし」という形になって、そしてwebを介して多くの人たちがそれを眼にして、興味深く読み、耳傾けるようになっている、そのこと自体、いまどきの情報環境における、これまでとは少し違った「民間伝承」のありかたを示しているように見えます。

 「不思議な話」や「こわい話」といったくくり方で、この「おはなし」は仕上げられています。描き手の作者がそのような話に関心があったのはもちろんでしょうが、でも、当のおばあちゃん自身は、もしかしたらそのような意識はあまりないかもしれません。これまでの見聞や体験の裡に、そのような「不思議」はあたりまえに含まれている、自分のこれまでを話し、語ること自体が、ごく自然に「不思議」と地続きになっている、そんな印象すらある。そしてそれは、何も彼女だけのことでもなく、どうやら世間一般、普通に人生を送ってきた人たちの〈リアル〉にあたりまえに含まれている特質だったようなのです。

 おばあちゃんの生い立ちの場所はいわゆるムラ、「いなか」です。ただ、その同じ「いなか」であっても、西南日本の山間部、それも環瀬戸内海文化圏とでも呼びたいような、ある独特の雰囲気が、実によく伝わってきます。縁あって墓が岡山にある自分には、中のもの言いの調子や響きまでもが耳もとで再現されるかのように感じる。それは単なるムラ、そういう「いなか」というだけでなく、わかりやすく言うなら、マチとの関係で早くから暮らしが成り立っていた、そういう「いなか」であるということでしょう。人もモノも、さまざまな意味や価値と共にあたりまえに日々、行き交うようになっていた、そういう歴史が背後にしっかりすでにある土地柄と風土。だから、いろんな「不思議な話」や「こわい話」も多彩に、多様に宿っていた、つまりそういうことなのです。

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 けれども、そんな「いなか」の裡にも、また、さまざまな現実がはらまれてもいた。

 たとえば、昭和20年代半ば、まさにおばあちゃんが井戸掘り職人のおじいちゃんと出会って、そろそろ大阪に出てこようとしていた頃、宮城県の山奥の、まだ電気も通じていなかった、とあるムラの分教場に赴任した小学校の先生は、言葉の発音が不正確で、語彙も少なく表現も拙く、何より自ら進んで何か発言したり、表現するという意欲自体乏しい、感情表現の見えにくいそのムラの子どもたちの姿に驚いています。

「この部落の青年たちは、男も女も余興に田植唄や山唄しか歌わないのに、他の部落の連中は流行歌をうたい浪曲をうなる。(…)考えてみれば歌に限らず、宴会の前の学習の時でも話題の選び方、話の筋だて、表現能力、どれをとりあげてもラジオのある部落の青年たちの方がずっとまさっていた。」*2

 すでに電気が通じてラジオもあり、蓄音器も入っていたようなムラは、同じ「いなか」でも人々の意識や感覚がはっきり違っていて、人づきあいの技術も社会性も、マチの衆と地続きのものが備わり始めていたらしい。そのようなマチとの距離感のグラデーションが、同じ時代のマチの側から「いなか」とひとくくりにされてしまうムラの裡に、そのような「違い」もまたあった。まして、今のわれわれの眼からはなおのこと。それは何も戦後に限ったことでもなく、少なくとも維新このかた、近代化の過程でこの国のどこにでも、いつもあり得た現実だったのでしょう。

 でも、そんなことはいちいち記録されることはありませんし、またわざわざ記録しようとするものでもない。ただ、「そういうもの」として人々の記憶の裡にいい加減に残って、そして知らぬ間に忘れられ、「なかったこと」として消えてゆくばかりです。

 ただ、それが「おはなし」というたてつけの中には、ひょい、と宿ってうっかり顔を出す。そういう意味で、お気づきになったでしょうか。おばあちゃん本人もさることながら、その見聞や体験の中に要所要所で登場する人たちが、実にいい味なのを。

 まず「カナヤのおっさん」、大阪に出てきてからの「ヤタイのおっさん」「山伏の大森さん」……住む場所はムラやマチ、異なっていても、何か「不思議」との縁が深いような人という意味で、これらの人たちはどこか共通していないでしょうか。これらのまわりの人たち自体が「この世のものではない」側、時には「人間でも動物でもないあかんもん」も混じる、そんな世間に半分くらい身を置いているようなたたずまい。それもまた、先に触れたような西南日本の、マチとの関係で早くから暮らしが成り立っていた「いなか」に生きることの根を持っていた人たちのしるし、のように思えます。

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 そういう「この世のものではない」存在、が平然と日常にあらわれる。顔を出す。そっとこちらをうかがっている。それをこういう人たちが、教えてくれる。

 その「この世のものではない」と判断するのはこちら側、この世に生きているわれわれであり、「おはなし」もそのような話者の一人称でつむがれるわけですが、その「この世のものではない」ものが見えたりあらわれたりする感覚というのが、その人ひとりに宿っている特別な「能力」「才能」としてみるのが、まあ、いまどきの普通の考え方でしょう。

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 でも、ほんとのことを言うと、実は案外、そうでもない。それはたまたまその人を媒介にしてあらわれる、そして具体的な「おはなし」として形になっているだけのこと。ひとりの個人はたまたまの媒体、メディアでしかなく、その「この世のものではない」世界、異なる世間は、誰のうしろにもいつも平然とある――そんな感覚がどうも、われわれの親や祖父母や、それ以前を生きてきた人がたの間には、割とあたりまえにあったらしい。そして、いまでもこういうタチの人というのは間違いなくいて、それこそ「実はまだ、そこにいるのです」のはずなのですが、悲しいかな、今の多くのわれわれの日常感覚では、なかなかそう気づけるものでもなくなっている。

 けれども、こういう「不思議なはなし」を「おはなし」として接した時に、「ああ、あるある、あり得るかも」とつい思ってしまう、そういうココロの習い性は、そんなわれらの裡にもどうやらまだあるらしい。あって、だからこそ初めて、その「見える」人もわれわれの中にうっかり出現してくれるものらしい。このおばあちゃんも、そういう経緯でこの21世紀、令和の御代に、web上に姿を現わしてくれたんだ、と。

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 時代が変わり、人々の日々暮らす環境もそれまでとはまるで別ものになってきています。けれども、でもだからこそ、そのような「この世のものではない」ものは、その時代、それぞれの情報環境に即したかたちでうっかりとあらわれる。「こわい話」「不思議な話」などと呼ばれて、それらを足場に〈そういうもの〉としての自分たちの生きる現実の成り立ちを改めて確認するよすがとして。ああ、もう立派に「民俗学」の仕事ですね、これは。

 たまたま Twitter のTLに流れてきたご縁で見知るようなったのですが、単によく整えられた「おはなし」としてだけでなく、そういう意味も含めて「現代民俗学」のひとつの良いテキストとしても、自分は楽しませてもらっています。ありがとう。

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*1:Twitter介して知った『祖母から聞いた不思議な話』というマンガの、紙媒体の「分冊版・少女編①」に縁あって書かせてもらったもの。解説というか書評というか、そんな感じのつもりだったのだが、組まれた版では「特別寄稿」などと大層な扱いをしていただいているようで、いたく恐縮した次第。

*2:この事案というか素材、こちらに少し詳しく言及しております……|ω・`) つ king-biscuit.hatenablog.com