三木鶏郎にとっての「うた」の戦後

f:id:king-biscuit:20220210231945j:plain


 「広告・宣伝」に使われる音楽と、「流行歌」として半ば自然発生的な過程も含めて作られてくる音楽との間には、当時の同時代気分として大きな違いが、それなりに感知されてはいたようです。そしてまた、それらと「歌謡曲」として作られる音楽との間にも、また。

 戦後初めて「CMソング」として、ラジオの民放開始当初に一般に向けて募集されたのが「童謡」と「歌謡曲」であり、「流行歌」というくくりではなかったことをもう一度、思い出しておきましょう。敢えて線引きがされていたとしか思えない、その間の「違い」とは、さて、何だったのか。

 世間一般その他おおぜいの気分や嗜好に向かって働きかけてキモチやココロ――つまり「情動」を喚起してゆくような属性を、それまでの媒体と情報環境のありようから比べても必然的に強く伴わざるを得ないラジオのような新しいマス・メディアが登場した新たな情報環境。そこでは、同じ「流行ること」をめがけた創作であっても、そこに至るメカニズムやからくりには、それまでの「流行歌」とくくられて片づけられていたものとは少し異なる要素があったはずです。少なくとも、CMソング以下、戦後の民間放送を規定する「広告・宣伝」を目的のひとつに設定されていた音楽には、そのような性格を示す何ものかが重要な隠し味としてまつわっていたらしい。そして、どうやらその配合の匙加減にこそ、その頃の「盛り場」に戦前以来、未だ当時はそれなりに野放図に流れてはいられたはずの「流行歌」とは微妙に異なる何ものかが、当時の同時代気分には察知されていたようなのです。

 それは具体的な音としては、たとえば、このようなものでもあったらしい。

「その時である!三越の階下の中央から天来の妙音が湧き上ってボクの運命のサイコロをゆすぶったのは!あの元気のいいスーザのマーチをブラスバンドが始めたのである。ボクは復職願をかきかけたまま、飛び出して廊下の手すりによって下をのぞいて見た。キラキラとスーザホンや銀メッキしたサキソホンが光り輝いて、何年ぶりかの明るいアメリカの音楽なのである。この音楽を聞いている内に、今まで頭の中にもやもやしていた敗戦ボケがふっ切れて、光がさし始めたのである。それは直覚的といおうか衝動的といおうか、理性では判らない或る力にひっぱられて、ふり向きもしないで階段を下りて行った――フランクキャプラ的転向であり「我が道を行く」であった――気分としては。」


www.youtube.com


 三木鶏郎です。敗戦後の一時期、ラジオと共に広告・宣伝も股にかけ、民間放送の黎明期にそれまでとは違う経路での新たなかたちの「流行歌」を多数作り出して、当時の同時代気分を煽り、ブーストをかけてもいった戦後大衆社会状況に対する意識せざる工作者となったひとり。彼は、自身の内なる「音楽」の意味が敗戦によって一大転回した体験をこのように語っています。

「ボクは再び焼跡に立った。音楽家になると云う決心が決まっていた訳ではない。只、自分の足の上に立って、自分の主人公になって次の時代が要求する何ものかを創造しようという決心だけであった。それは何ものであるか――どういう形を取るのか――何ンにもはっきりしてはいなかった。」(三木鶏郎「冗談半生記」『モダン日本』1948年11月号、『冗談党宣言』実業之日本社、1949年所収)

f:id:king-biscuit:20220210231017j:plain
f:id:king-biscuit:20220210230914j:plain

 この天啓とも言い得るような、ある種の感動と回心の告白。少し前に触れた、電通の吉田秀雄が奇しくも同じ1948年(昭和23年)に草していた「広告」に憑依したかのような高調子のマニフェスト、「常に到る所で我々の身辺を、我々の生活を囲繞する処のもの、政治も、文化も、経済も、それなしには成長と、発展を、否その存在をすら脅かされる所のもの、謂って見れば社会の紐帯とも称せらるべきもの、宣伝とは、広告とはこうしたものであろう」というくだりと同じ気分、よく似たある種の高揚感が、ここにも横溢していることが感じられないでしょうか。

 もちろん、ここでの三木鶏郎の意識は、吉田のように「広告・宣伝」自体に直接に合焦しているわけではない。けれども、自分自身も含めた戦後の新たな、生まれ変わらなければならないと深く感じた日本の国民に対して、彼らが要求する、彼らに必要な音楽をつくるべき使命を明確に察知している限りにおいて、それら国民一般に働きかける創作――彼にとっての「音楽」の、その後とるべき方向性を自覚していることがよくわかります。敗戦後3年、1948年(昭和23年)の〈いま・ここ〉の〈リアル〉とは、このような側面もはらんでいたらしい。

 そのような「国民一般」といった大文字の訴求対象を明確に設定した以上、それはまさに「大衆」と二重写しになり、眼前の同時代に生きる彼らに確実に届くための技法に求められるものとして、「広告・宣伝」は必然的に入り込んでくるべき属性になる。ゆえに、彼にとっての「音楽」は、それら「広告・宣伝」属性と切り離すことのできないものとして戦後の情報環境に、にわかに「民主主義」に沸き立つ同時代気分の公会堂に朗々と、おそらく彼自身が考えていた以上に広く、力強く響き渡ることになりました。それは確かに、それまでになかった味わいの音楽として、当時のわれら同胞その他おおぜいのキモチやココロを、それまでと違う興奮に誘ったものらしい。


f:id:king-biscuit:20220210232024j:plain

●●
 その三木鶏郎、岩波文化と講談社文化の分断を糸口に、当時の本邦「大衆」のありようについて、このように語ってもいます。

「日本には二つの種がいるのである。その人種は、言葉も、食物も、住宅も、衣服も、讀む本も、歌う歌も全部異なる。かたや直譯的なレトリックをもち、かたやべらんめェの論理の飛躍がある。かたや毎日コーヒーをのみ、かたや茶漬けにたくあんをつける。かたや四畳半に長火鉢を備えつければ、かたやイスと机にスタンドを用意する。長火鉢の前に『講談倶楽部』がよみさしで伏せられ、スタンドの前の岩波文庫にはリボンのしおりがはさまれる。(…)一言で片づければインテリと俗衆である。この差がはなはだしいだけではない。この兩者が壓倒的多數で、中間が空白な事である。理論と実践が――精神と肉體が平均に発達した人間がいないのである。」

 図式的と言えば図式的ですが、しかし、当時の大衆社会状況に対する理解の水準としては悪くない。いや、杓子定規な概念や理論で説明されるのでなく、的確な比喩で「分断」を語ってみせるあたり、「冗談音楽」の始祖であり、『日曜娯楽版』『ユーモア劇場』などの番組で、ラジオを足場に占領下の同時代を一気に駆け抜けた早すぎた異才、三木鶏郎の面目躍如でしょう。

 そして、こう続けている。

「この兩極端の間に中間文化を作るということ、指導性あり價値ある大衆文化を作るということは、理論的にはインテリに了解され唱導されていたが、例によつてアタマでつかちで實践を伴なわないものであつた。その證據にはいつまでたつても試作品さえできない。たまに、「これが價値ある」大衆文化であると料理臺に出されたものをかんじんの大衆が食いつかなかつた例がいくつもある。」

 「中間文化」という言葉が出てきます。だが、これを過去の雑誌記事索引類を集大成した『明治・大正・昭和前期 雑誌記事索引集成』(120巻)を基に作成されたデータベース「ざっさくプラス」に放り込んでも、1955年以降のものしかヒットしない。おそらく、1957年(昭和32年)に刊行された加藤秀俊出世作『中間文化』(へいぼんぶっくす 平凡社)あたりを介して、インテリ知識人世間におおっぴらに流行するようになった形跡なのだろうと推測されますが、それ以前の1949年(昭和24年)の段階で三木鶏郎が、それもこのような的確な文脈で「中間文化」という語彙を持っていたことが、自分には興味深い。

f:id:king-biscuit:20220210232115j:plain

 もちろん、当時としては間違いなくインテリ知識人としての知的形成過程をくぐってきていた彼のこと、まして、NHKに草鞋を脱ぐきっかけを作ったのが丸山真男の兄、丸山鐵男だったことなどを得手勝手に結びつけるならなおさら、これは丸山真男的な脈絡での社会科学的な術語だったのでは、と憶測されるのも、まあ、いまどきならば致し方ないのでしょうが、しかし、何もしちめんどくさい考証沙汰などせずとも、そういう社会科学的な術語としてこの場の彼がこの「中間文化」を使っていたとは、自分にはちょっと思いにくい。岩波文化と講談社文化、本邦の大衆社会状況の「分断」を象徴するふたつの文化的ありようの「中間」の、質的にも穏当な中庸さを身につけた新たな文化を創り出すことがこれからの日本を支える主体の創出につながってゆくはずだ――彼の内心を斟酌しながらほどくならば、およそこのような内実が込められた、ごく素朴なもの言いだったのだろうと思います。

 そのような意味でなら、「三木鶏郎が音楽家として台頭する経緯が示しているのは、平時ならば社会において支配的な地位につくことによって後退(少なくとも個人のうちに潜在)してゆく文学青年的な芸術趣味に基づく音楽活動が、敗戦にともなう価値転倒のなかで特異な形でオーヴァーグラウンドに浮上し、一躍メディアの寵児になってしまった、という事態ではないだろうか」(輪島祐介「戦後放送音楽の「ホームソング」志向と三木鶏郎」、2011年)といった、一見きれいに整理されたように見え、そして総論的な意味での一般性の水準においては合格点かもしれない彼に対する近年の評価のもの言いについてもまた、異なる「読み」の足場を構築しながら相対化してゆけるはずです。


www.youtube.com


 たとえば、こういうところ。レコード会社におけるそれら「分断」の実際を引き合いに出しながら、彼はこんな言い方もしています。

浪花節や講談が邦楽部に属するのは當然だが、和製洋楽のたぐいである流行歌や歌曲もこの部分に入る。」

 この「歌曲」というのは、「歌謡曲」の誤植ではないかと思われますが、ここでの「流行歌」とは、先に触れてきたような、マス・メディア以前の情報環境から民俗的な経緯で「うた」として「流行」してくる経緯までも包摂し、さらに加えて新たにレコードやラジオを介した商品音楽までもが等しく同時代の眼前の「うた」として渾然一体、茫漠としたまるごととして現前している総体といった意味ではなく、レコード会社が生産する商品音楽として「流行」してきた楽曲、という限定的な意味においてでしょう。

 この場で注意しておきたいのは、当時の「流行歌」や「歌謡曲」は、先の構図で言えば岩波文化的なものではない講談社文化的なものに属する通俗「大衆」の嗜好に投ずる「邦楽」の受持ちになってはいるけれども、しかしそれは「和製洋楽」である、と、さらりと言っていることです。マス・メディアに乗じてゆくことを属性として生産される商品音楽は「和製洋楽」、つまり「洋楽」のたてつけをとってはいるけれども、それはあくまでも「大衆」の嗜好に投ずることに役立つ言わば味つけ、隠し味としてのものであり、正真正銘生一本の洋楽ではない、という認識に立っての言い方らしい。ならば、自分はそこにもうひとつ、レコード会社の生産する商品音楽である以上、否応なしにまつわらせられてくる「広告・宣伝」の属性を加えることで、このなにげないもの言いのはらむ可能性を拓いてみたい。


www.youtube.com


 彼が天啓を受けた、三越でスーザのマーチを奏でていたブラスバンドは、アメリカ軍の軍楽隊だったかもしれません。その響きは、「音」としてはそれまでにも帝国陸海軍の軍楽隊が演奏していたものと、そう変わらなかったでしょうし、昭和初年あたりまでなら、軍楽隊ならずとも民間の吹奏楽団が同じスーザのスコアを使って演奏することもあり得たかもしれない。何より、彼自身がスーザの名前と楽曲を聴き知っていた程度に、戦前、昭和初年の情報環境で「マーチ王スーザ」とそのマーチは、「モダニズム」「アメリカニズム」の一環として知られるようになっていたのでしょう。けれども、それは単に物理的な「音」だけでなく、それを聴いた敗戦後の三木鶏郎の耳にとって、それはある種の「うた」として、ココロやキモチを深いところで動かしてゆくような質を伴い響いていたはずです。そう、「音」もまた「うた」のかけがえのない要素であり、〈いま・ここ〉に現前してゆくために欠かすことの出来ない構成部品でした。

「ラジオというマス・コミュニケーションは、政府とか、与党とか、資本家とか、さては労組とか、特定の階層の代弁であった時、聴取者はそっぽを向く。それが国民全体の問題を取り上げた時に、大衆は絶対的にラジオを支持するのである。」(吉本明光「思い出の放送」、毎日ライブラリー『ラジオ・テレビ』月報、1954年)

 彼の事務所には、のちに若き日の永六輔野坂昭如らが集うようになっていったことも、すでに戦後史の挿話として知られています。その野坂自身、トリロー流の「広告・宣伝」流儀のCMソングをかたっぱしから引き受け、それらの歌詞を書き飛ばしていた頃のことを、こう言っています。

「芸術的衝動にかられたり、苦しい胸のうちを託したりして作詞しません。このことを忘れると、あなたはたちどころに栄光あるCMソング作詞者の座から堕ちて単なる詩人と化します。」

 「詩人」ではない、いや、むしろ「詩人」ではいけないのだ、CMソング作詞者は――これは当時のそれまで自明だっただろう「文学」一般、それらを雛型にした「芸術的」創作の作法自体を否定するマニフェストです。ある程度韜晦もあってのこととは言え、敗戦後一気に現前化したそれまでと異なる大衆社会化状況と、そこに確かに立ち現れている世間一般その他おおぜいのキモチやココロを真正面から相手取り、それらの意を迎えることを稼業とする立場にとって、従来の「芸術的」創作に規定された自意識は鈍重で、ものの役に立たないものに見えていたのでしょう。「うた」もまた、そのような情報環境の転変の裡に、水が器に沿うように姿を変えてゆきます。