「学者」って、なあに?

 学者の世間離れ、というのは何も今に始まったことではありません。

 一般的なイメージとしても、またある程度具体的な実態を伴った見聞、身の丈の経験値としても、いわゆる「学者」というのは「世間」「浮世」のあれこれからかけ離れた、超然とした存在という風に思われてきましたし、また、そう言われても致し方のない存在でもありました。そしてさらに言えば、そういう程度のわかられ方で片づけられてもとりあえず世の常、日々の営みに実害はない、世間一般その他おおぜいにとってはそんな「余計もの」でもあった、ということでありましょう。

 けれども、時は移り時代も変わり、もはやそういう学者の世間離れを、その当の世間の側も看過してくれなくなっているらしい。

 話せば長く、また情けないことこの上ない、いまどきの本邦の学者世間の恥さらしになるので思いっきり端折ります。いまどきありがちなSNSの、それも鍵を掛けて許された内輪同士にしか見えないようにしていた場所で、好き放題の悪口陰口をやっていたら、それを悪口言われとる本人とその界隈にご注進したのがいた。その内輪にいたのか、それともコピーの受け渡しか、とにかく外へ漏れちまった。まあ、学校の教室などでよくあるトラブルですが、その悪口の内容が「女性差別」にあたるということで話が大きくなり、1,000人以上の名前を連ねた回状までまわされ、その結果、言った当人は国立の研究所の職まで事実上失うような事態が出来しました。最後の失職の段はいくらか新聞その他で報道されましたが、ことがそこに至る経緯については、さすがに「学者」の所業としてみっともないのか、表だって取り沙汰されておらず、例によってSNSその他web環境介した情報流通において多方面に物議を醸し続けています。ことの是非以上に、いずれいまどき本邦の「学者」がたがこのように子どもじみた諍いを、それもおおっぴらにやらかしていることに、世の中の冷ややかな視線がそそがれることになっている次第。

 そもそも、「学者」とはなんでしょうか。「学問」をなりわいとする人間でしょうか。それとももっとゆるく、「学」のある人、という程度のものだったのでしょうか。ならばその「学問」なり「学」というのは、さて、具体的にどのようなものを想定されてのもの言いだったのでしょうか。

 あいつは「かしこい」やっちゃ――こういう言い方もありました。でも、この「かしこい」は「学がある」のとは違う。むしろ対極というか、裏表みたいなニュアンスすらあるような。さらに「学がある」になると、「かしこい」とはうまく両立しなくなる。いや、しないわけではないにせよ、それは相当にレアな例であり、また生身の存在としてはその「かしこい」という属性だけで十分なわけで、それはやはり 「かしこい」が「世間」に内在している価値だからでしょう。一方、「学」や「学問」はそうではないらしい。だから、「学がある」というのも一応ほめ言葉ではあっても、日常生活と紐付いた褒め方とは言い難い。とすれば、その「学」や「学問」を殊とする人が「世間」から遠い存在であるのも、何も不思議ではありませんでした、それこそ、その「世間」のあたりまえからは。

 なのに昨今、ことさら「学者の世間離れ」が、それも先に触れたような心萎える事例と共に、改めて論われるようになっているのは、世間や浮世のあれこれとは別の、彼らだけの別天地を形成してそこに安住している、「学者」がそんな存在として世の中から許されなくなっていることがあるように思います。近年、「役に立つ」「実利」につながる学術研究がことさらに言われるようになっていることなども含めて、「学者」も「学問」も共に、少し前までのような「世間離れ」のまま、何を言ってもやらかしても「余計もの」としてお目こぼしされているわけにはいかなくなっている。時の流れ、世の転変ということだけでなく、最大の問題は、当の「学者」の人がたが、そのような潮目の変化について、どうやら驚くほど鈍感なままであることだと思うのですが、さて、これをどのようにそれら中の人がたに気づいてもらえるものか。かつてそういう世間に、かたちだけとは言え身を置いていたひとりとしても、これは相当に悩ましいお題ではあります。