「ジャーナリスト」という自意識のスカ

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 自分が実際にどれだけの仕事をしてきているか、冷静に測定しようとしないままもの言いの次元だけで自意識を吹け上がらせる病いが根を張り始めている。自称「作家」に始まり、自称「ジャーナリスト」、自称「ルポライター」、自称「アーティスト」……うっかり眺めていれば肩書だけはなんでもありで並び、だが、それに見合った内実は何もない。

 ああ、みっともねぇ。ああ、こっぱずかしい。こいつら「旅」を云々するのが好きで、「現場」をうっとりと称揚し、人によっちゃクルマやパソコン通信も大好きで、あと何かってェと「メディア」を持ち出して絵説きを始めて、で、じゃあどうすりゃいいんだよ、って段になるととたんに過剰な相対主義の本性現わして、「終末」やら「シミュレーション」やらの破れ傘の下にやわな自意識を囲い込む。それらのもの言いがいけないというのではない。それらのもの言いにどれだけの内実を込めることができるか、それだけの背骨を獲得した「自分」と拮抗させられるかどうか、その部分の問いかけこそが“思想”本来の勝負のはずなのだが、それがないままの上滑り。誰か忠告してやる人間はいねェのかよ。

 「書かれたもの」の向こう側に自意識のかたちを透かし見るってのは、文芸評論や思想史なんて分野のひとつの課題だったりするんだろうが、その言葉の水準で表出される自意識に不用意によりかかることのできる無自覚な軽薄さや骨抜きの純朴さが、情報の生産・流通・消費の過程の濃密化に伴って現われてきていることは、この先静かに考えてみるべき足もとの問いのひとつだろう。主体のありかすら漂白するほどの過剰な相対主義というのは八〇年代の病いのひとつだったが、たとえ例外にせよ、そこにはまだ「なんちゃって」と照れながらおのれを茶化す精神が宿る余地もないではなかった。俳優修業じゃないけれど、メディアの舞台に登るにも自意識を統制する技術ってのは最低限必要なはずだぜ。
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*1:図書新聞』連載原稿

*2:一般論みたいに書いているが、もちろんそうじゃない。具体的な固有名詞を想定して書いていた。