「異文化」なんてもの言い、いますぐ忘れちまいなよ

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 「異文化」をどうやって理解するか、って話だよね。

 結論から先に言えば、そんな「異文化」なんてもの言い、さっさと忘れちまいな、ってこと。

 こう言うと、なんだか地球はひとつ、みんな同じ人間だから気持ちひとつでわかりあえる、なんて、まるでFM放送のDJみたいなふぬけたことになりそうなんだけど、意味は全く逆。今、日本人がともすれば「異文化」というもの言いで意識しようとする現実なんて、実は何も「文化」の問題なんかじゃなかったりするかも知れない、ってことだ。

 わからない、って? そう、ならばもう少しわかりやすくほどいてみよう。


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 だいたいさ、「文化」って一体何なの? 説明できる?

 これが「文化」だ、って具体的なものとして眼の前に持ち出してこれる? 誰もそんな人いないよね。何も具体的じゃないし、何も確かなかたちとして存在するものでもないんだよね、「文化」って。

 たとえば、眼の前に日本語の話せない、なんだか知らないけど皮膚の色のまっ黒い人間がいるとする。

 彼、あるいは彼女が人間であることはとりあえず間違いないし、性別くらいはおよその見当がつくかも知れない。それに、まぁ今どきのことだから、きちんと髪は整えてあって、洋服だってきちんと身につけていて、その程度には見た目は〈こっち側〉と変わらなかったりするとして、でも、一体どこの国のどんな言葉をしゃべるどんな人なのか、全くわからない。そんな人とあなたが、たとえば一緒に食事をしなきゃならなくなったとする。料理が運ばれてくる。いきなりその人は手づかみで料理を口に運び出す。

 もちろん、あなたはびっくりするよね。あ、違う、と思う。自分があたりまえにやってきたものを食べる時の作法と、あきらかにそれは違う。そうか、見た目がどうも違うというだけじゃなくて、そういう風に自分と、つまり〈こっち側〉とこの人は違うんだ、とあなたは改めて思う。思って、で、その「違い」をそのままにしておいたら落ち着かないから、「違い」の理由をなんとか自分に対して説明しようとする。きっとそういう習慣の「違い」がこの人の生まれ育った国にはあって、この人にとってはそうやって食べることが当たり前なんだ、とか。で、これってきっと「文化」が違うってことなんだ、とか。

 でもさ、その「違い」って、本当に「文化」の違いなの? だいたい「文化」ってこと自体、うまく説明できないあなたが、どうしてそういう風に「文化の違い」なんてこと、簡単に言えちゃったりするわけ? どう?


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 「違い」は確かにあるよね。現実にどうしようもなく具体的な「違い」はある。

 その人は手づかみで料理を食べちまったんだし、あなたは決してそんなことしようとは思わなかったし、実際しないんだろうし。同じ人間のかたちをしているのに、それにひとまず肌の色とか言葉の違いとかはともかくにしても、〈こっち側〉と同じような服を着て、同じような約束ごとの中には一応収まっている人だったのに、いきなりそんな食べ方するなんて、なるほどちょっとびっくりする。その驚きは当たり前だよね。

 でも、そうやって眼の前に現われてしまった「違い」ってのは、本当に「文化」によるものなのだろうか、って疑問は当然あっていいよね。だって、それはその人が単にそういう性格の人ってだけだったのかも知れないし、あるいは、たまたまその人がその時突然そういう風に食べてみたくなっただけかも知れない。いや、そう考えてゆけば、そこで「文化」って説明を補強する方向に働いていたはずの肌の色のことだってわかったもんじゃなくて、その人がその国ではきわめて珍しい皮膚の色をしていただけかも知れない。言葉だって、たまたまその人の一族がそういう聞いたことのない言葉を使う事情があっただけかも知れない。いや、もっと考えれば、デーブ・スペクターじゃないけど実は日本語がペラペラなのに、あなたの前ではしゃべらないだけなのかも知れない、ってことだって絶対にないとは言えない。

 他にも「違い」を説明するための理由ってのは、ほんとにいろいろ考えられるよ。たとえば、あなたが“貧しい”と思うような恰好をしている「外国人」がいたとしても、それはその国の経済水準が今のところそんなものだったということが理由なのか、それともたまたまその人がそういうラクな恰好するのが好きな人だったからなのか、っていうのは、ひとまず眼の前のその人からはわからないよね。あるいは、少し前までの東西ドイツみたいに、政治の体制が全然違っちゃってたから、同じ民族、同じ言葉を使う者同士でもものの見方や考え方がまるで違ってきているってことだって、現実にはいくらでもある。

 いずれにしても、そういう眼の前の具体的な「違い」の由来や理由を説明するのに、なんでもかんでもいきなり早上がりに「文化」の方に帳尻を預けてしまって本当にいいのかどうか、っていうのは大いに問題ありなんだよね。だって、今の日本語の枠組みじゃ、「文化」って言った瞬間から、人間の社会を規定するそれ以外の水準、たとえば政治や経済や歴史なんて水準の現実がなかったことになってしまうのが常なんだから。


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 人間ってのは妙なもので、確かに人間のかたちはしているけれども、その人間のかたちに人間の内実が必ずうまく重なっているのかどうか、ってのはわからないんだよね。つまりさ、人間っていう生物としてのかたちと、人間っていう意識のかたちは必ずしも必然的に結びついているわけではないってこと。

 人間はこの世の中に二度生まれるわけさ。一度は生きものとして、二度目は人間としてね。で、この二度目の方の生まれる過程っていうのが、「文化」を獲得するってこと。で、その「文化」ってのは、思いっきりわかりやすく言っちゃえば、言葉を獲得したことによって生じるものの見方や感じ方のあるフィルターみたいなもののことなんだよね。

 人間ってのは、言葉によって生きている動物なわけ。言葉によって生きているってのはどういうことかというと、言葉によって作られる意味の世界というものの中で生きているってことなわけ。人間の棲む世界っていうのは、意味の世界でもあるわけさ。

 言葉を持つことによって人間は意味の世界に棲むことになる。その言葉を獲得してゆく過程ってのが、人間が「文化」の中の生きものになってゆく過程なわけで、「大人になる」ってのは一般的にはひとつそういうことなんだよね。

 もちろん、そこでの「大人」っていう基準も、それこそ「文化」によって違うし、時代によっても違うわけで一律にこうだってわけじゃないんだけど、まず言えるのは、他の人間とうまくやってゆく技術や約束ごとってのを共有してゆくことは、どんな「文化」においても普遍的に要求されることではあるよね。

 でも、生きものとしてひとまず同じ人間でも、ものの見方や感じ方の違いを根本的に規定してくるのが、そういう意味の世界を作り出す仕掛け、つまり言葉なわけで、突き詰めればそういう言葉の違いに由来するものの見方や感じ方の独自性みたいなものを、ひとまず「文化」って呼んでいるわけさ。

 「異文化」ってのは実はとっても便利なもの言いでさ。そういう「違い」についての背景をとにかく「文化のせいだ」っていう風に解釈してそれで納得させてしまうためには、これ以上役に立つもの言いはないわけ。でも、それってそうやって解釈される方に取ってみれば、「そんなの、文化でもなんでもなくて、単にあなたたちがカネ持ちだっただけのことによる「違い」じゃないの」ということだってある。本当にその「違い」が「文化」の違いかどうかは、かなりていねいな手続きの果てじゃないと言えないことなんだよね。

 だから、「異文化」ってもの言いを前提にして、「異文化理解が日本人には必要です」なんてことを言うのは、その人に悪気がないことは別にしても、実はとっても厚かましいことかも知れなくてさ。眼の前の具体的な「違い」はひとまず「違い」でいいんだよね。その「違い」をちゃんと具体的な「違い」として具体的な言葉にしようとすること。それが必要なんであって、いきなりその「違い」を「異文化」なんて抽象的なもの言いに置き換えちゃったら、じゃあその「違い」ってどういう種類の「違い」でどういう原因に由来する「違い」なの、ってことすらわからないままになっちゃう。

 だからやめなよ、「異文化」なんて言葉覚えるのは。そりゃ大学受験の小論文あたりで学校の大人をやりすごす方便としては未だにかなり便利なもの言いだけどさ、でも、そんな「異文化」なんてもの言いでもっともらしくまとめた小論文の答案なんて、今どきひと山いくらでこっちの眼の前を通り過ぎてくんだし。それに、人間情けないことに、方便だと思って使ってても、ついついその方便のはずのもの言いに自分のものの見方や感じ方を縛られちゃってるってことは往々にしてあるしね。眼の前の「違い」もきちんと見つめることができない人間が、いきなり「国際化」なんて言い出すのが今のこの国なんだからさ。

*1:初出誌紙、例によって失念……分量からしても、何か若い衆向けの啓蒙系w雑誌だったように思う。『あたしの民主主義』か『全身民俗学者』あたりに拾って収録していたような気もするが……機会を見つけて再度まとめて確認せにゃならぬ、か。………221125

  

*2:まあ、でも、大学でもほぼほぼ似たようなことを、もうずっとこの頃から、そしてその後も性懲りも無く、手を替え品を替え説き続けてきてたような気はしなくもない。初年次教育や概論系の機会だとなおのこと。