いま、敢えて「学生」である意味とは?

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「今何やってるの?」

「学生やってます」

 たとえば、親戚のオジさんとかに聞かれたらそう答えるでしょ。でも、その「学生」の内実ってただ学生証を持ってるってことだけで、考えてみりゃみんな案外他人ごとなんだよね。雑誌や新聞、テレビなんかのメディアの舞台でいろいろに語られる「学生」ってもの言いはあるけど、でも、そんな定番の語りには「ふぅん、俺たちってそういう風に見られてるんだ」程度の感想しか持たないし、持てない。それでも、社会的にはやっぱり「学生」としか呼ばれようがないし、自分たちでもそれ以上のほどき方はできない。

 でも、二十年、三十年前に「学生」というもの言いに込められた内実ってのは、今の「学生」のそれとめちゃくちゃかけ離れてるかも知れなくてね。なのに、それがどのようにかけ離れてきたのかっていうのは、社会のどの部分であれあまり自覚されてなかったりする。「学生」をめぐる現在って、基本的にそこらへんが大きな不幸なんだと思うんです。 かつてどうだったか、ということを、たとえばその「かつて」を実際に経験してきた人に尋ねりゃいいんだけど、人間都合のいいことしか記憶残らないってこともあるしね。まぁ、そのへんは斟酌しなきゃならないんだけど、ただ言えるのは、六十年代いっぱいくらいまでの「学生」ってのは、良くも悪くも今の学生に比べて違う内実を持ったものだった。その「違い」にこそ、僕は歴史の堆積を感じるんですけどね。

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 たとえば、『朝日ジャーナル』というついこの間まであった雑誌の話をしましょうか。あの雑誌は、ちょうど僕が生まれた昭和三十四年の三月に創刊されてて、僕と同い年だったんです。もちろん、雑誌なんて寿命があるものだから未来永劫続くなんて思ってる方が厚かましいわけで、どんどんつぶれて構わないと思うんだけど、ただあの雑誌は何らかの神話・伝説というか、社会的思い入れを良くも悪くもその身にまつわらされざるを得ないような性格のメディアではあった。その意味ではやっぱりあの休刊は象徴的だったんだよね。

 ただ、あの『朝日ジャーナル』という雑誌が無条件に身にまとってた雰囲気をひと口で表現するのは実は難しくてね。文春や新潮風に言えば「左翼」ってことになるんだろうけど、ことはそう簡単じゃなくて。でも、ここでは話を進める上で一応「左翼」としてくくりましょう。

 そういう「左翼」の雰囲気がある時期までは「学生」にとっての当たり前の教養だったってことがまずある。学生で多少本を読みかじったり、何かものを言いたがったり、あるいは勉強の方だけじゃなくてサブカルチュア方面でもいいんだけど、音楽であれ芝居であれ映画であれ、たとえ勘違いでもそういう何か表現しようという欲とエネルギーを持った連中は、ある程度この「左翼」のフィルターから逃れるのが難しかった状況ってのがどうもあるらしい。

 この一般教養としての「左翼」がわからなくなっていったのが八〇年代だったと僕は思っています。もっとも、僕自身大学にいた七〇年代末の状況を思い返しても、すでに『朝日ジャーナル』的な自明の教養としての「左翼」を前提とした言葉にめちゃくちゃ嘘臭いものを感じてたから、それがその後まだ生き延びていたこと自体驚きなんですけどね。僕と同世代の連中の鋭敏な部分ってのは、すでに当時そういう「左翼」的なもの言いを当たり前にしている上の世代に対して、へぇ、そんなもの言いだけで現実切り取っててリアリティあんのかなぁ、楽しいのかなぁ、って素朴な疑問を抱えてた。すでに亀裂はあったんです。

 でも、その亀裂が改めて言葉にされて、各自の肥やしになるような経過をたどらないまま、ただ時間だけが流れていってしまった。あげくの果てに、ほとんど身につかない空虚な自分を超えた大きさの現実を語る時のフォーマットという意味だけで、その「左翼」のもの言いはよどんじゃった。ただ、いかによどんでいようと、何か社会的な発言をしようとすると、その「左翼」のもの言い以外にはなかった、という現実はあったし、今なおないではない。学生のレポートとか小論文とか読むとよくわかる。で、そのよどんでいることを当人たちが自覚しないまま「朝日」っていうデカい資本力を背景に、言わば同人誌やってたのが最後十年くらいの『朝日ジャーナル』だったんですね。

 その七〇年代までの「左翼」のもの言いからその切実さとか自分の身にしみる部分をスコーンと抜いて、それこそ言葉ではなく内実のない記号としてだけうまく組み替えたのが、八〇年代の新人類の言語空間だったんですよ。で、今やそれもちょっと、ってわけで何の力もない。嘘だと思ったら、八〇年代始め頃の中森明夫とかいとうせいこうの書いたもの読んでみなよ、全く読めないから(笑)。

 僕の友人で、これはニューアカ全盛時にはきっちりハマッてたという男なんですが、彼が最近、当時よく読んだ法政大学出版会だのみすず書房だのの「シロ難」の本を引っ張り出してめくってみたら、これがほんとに読めなくなってた(笑)。「本には赤線まで引いてあるし、当時は俺、これが全部わかったんだけどなぁ。俺、バカになったのかなぁ」って苦笑してたけど、笑えないよね。ほとんど敗戦と共に読めなくなった日本浪漫派みたいな話。でも、ああいうテキストってある厖大な同時代的勘違いがないと「読めない」んだよ。その前の世代にとっての吉本隆明なんてのも、ある部分そうだったんだと思うよ。あんな造語だらけの悪文、みんながみんなスラスラ読めて理解できたってこと自体、どう考えたっておかしいもん。これって、言葉が「量」を獲得してく時の普遍的な難儀でもあるんですけど。そう考えれば、今どきの「学生」ってもの言いもそういう難儀に遭遇してるよね。

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 もうちょっと別の角度から話しましょうか。

 ここ一、二年の間に大学を退官される先生方とお話しする機会があるんですが、何かが違う。少なくとも四十代あたりの、それこそ『朝日ジャーナル』的思考のまま社会化して固まったような先生方とは違う。この人たちはちょうど旧制高校最後の世代なんですね。

 一番顕著なのは、「学生」について語るもの言いが違うのね。「学生」って言う時の背景に「知性」の側に立つ自分たちの直接の後輩たち、という信心がある。教室で毎年毎年眼の前にやってくる「学生」とひとくくりにされる人間たちが、やっぱり自分たちと同じ「知性」へ向かう社会化の過程を踏んできていて、その中できっちり主体形成をしている、ということを当たり前の前提にしている。

 おそらく、その先生方が考えているのは、「自分たちがかつてそうだったように、こいつらも同じように「知性」になってゆくんだろう」ということなのね。彼らの同時代的真実としては、旧制高校から大学へとエントリーすること自体、好むと好まざるとに関わらず「知性」の側に立ち、そのことに責任持たなきゃならない社会的立場に立つってことだったはずなんですよ。大学以前、高校の段階からもうそういう自負と責任感がある。「学生」ってことに対して、良くも悪くもプライドがあるのね。

 だから、アカの他人であっても同時代を生きて、旧制高校出身とかそういう高等教育を受けてきたってことだけで、すごく自分たちと同じ立場の人間なんだってことを了解しちゃう。「おまえもそうか、そこまでやってくる立場の人間だったし、結果として試験をパスしてんだから、この先キャリアを担った上で社会の中にある責任を果たしてゆかねばならない立場なんだな」みたいな共有の感覚が、眼には見えなくてもものすごく強い。

 そういう世代性ってのは急になくなるもんでもなくて、徐々にグラデーションになってわからなくなってったんだろうって気はするんですが、でも、かつての「学生」ってのはそういう立場に確実につながるものだったんだな、ってことが、彼らの話を聞いてると今でもわかるんです。

 今はもう「学生」イコール「若者」みたいなところがあるでしょ。でも、かつての「学生」、それは別に旧制高校なんて頃にまで遡らなくてもたとえば三十年前でもいい、その頃の「学生」はまだ「若者」の少数派なわけですよ。もっとはっきり言いましょうか。基本的にカネとヒマのある家の子供でないと、なかなか「学生」にはなりにくかった。だから「学生」イコール「知性」の側に立つ者、であり、インテリ・知識人の予備軍であり、その卵である、という系列がはっきりしてた。だからこそ、「ああそうか、おまえも大学生なの」というのは、文字によって主体化してきた知性という立場に依って社会の中である責任を果たすべき人間なんだろう、っていう共同性があった。それはある時期まで見えていたんだろうけど、今はもう完全にぼやけてしまった。

 逆に、今は大学進学ってのが大衆化してるから、ある程度みんな普遍的過程としての受験をくぐらざるを得ない。その中で、機械的に配分されてゆく大学はいくらでもあるから、みんな学生証持ってりゃ「学生」になれちゃって、その気にもなれるんですけど、まぁその分偏差値ってやつがある。偏差値が人間の能力に関係ない、っていうのはもちろん一面の真実だけど、それはことの半分であって、やっぱり馬鹿にしちゃいけないのは何らかの現実を反映しているかも知れない、ってことね。偏差値教育批判をやるのはいいんだけど、その程度の謙虚さは残しておかなきゃいけないはずです。能力のある人間がどう「自分」ってものを自覚してゆくか、って装置がこの国にはもう少し必要だと思う。だから、僕なんか学生をアジる時には、偏差値六〇以上の奴はもっと社会的責任を自覚せよ、ってわざと言うのね。

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 高偏差値の顔ってのがあるんですよ。首都圏で言うと、私立名門進学校を出てきた奴の顔つきとか、あるいは予備校で言うと駿台や河合の本当の上のクラスにいて、しかも堂々としてる奴。受験をゲームとして楽しめるほどの余力がある奴。アメリカ横断ウルトラクイズでうっかり最終ラウンドまで残っちゃう奴の顔(笑)。ああいう顔だよね、わかるでしょ。

 これは男と女で微妙に違うんだけど、女だとひとつパターンとしてあるのは宮崎緑の顔。これはこれでストレートだからわかりやすい。テレビの女性ニュースキャスターの顔つきって基本的にこのパターンだよね。世間のオヤジの考える「いい娘さん」のひとつの型でもあるんだけど。これをもっとほどくと、オヤジにとってのセクシュアリティってなんなの、って大問題になって収拾つかなくなるからここでは深入りしません。 ただ、それとは別にもうひとつあって、これがちょっと難儀なパターン。たとえば小林聡美とか室井滋の顔ね。「やっぱり猫が好き」ってテレビ番組があったでしょ。あそこに出てきた三人姉妹の顔って、あんまり世間は気づいてないかも知れないけど、みんなそういうある種の女の高偏差値の顔ではあるんですよ。あれは絶対に余力のある連中でね。余力あるまま二十代半ばまで放ったらかされると、ある部分はああいう顔つきのまま固まっちゃう。それはそれでそういう自我になってるわけだからいいんだけど、ただ、一般的に言ってそうなる前にジタバタするんだよね。たとえば漠然と不倫に走る、うっかり留学しちゃう、なんかわけわかんないアートに凝る、いいかげんな宗教にハマッて桜田淳子になる(笑)。案外気づかない人多いんだけど、みんな症状としては同じなんです、これ。

 彼女たち、間違いなく能力あるんですよ。ということは、人が十やらなきゃできないことを五か六でやれて、ラクしてついてけるんです。でも、その残りの部分を持て余してるんですね。やればもっとできる、といういい意味でのプレッシャーをまわりからうまく与えてもらってないから、大学来ててもすごくラクしてて、でも、基本的に偏差値勝者だから自信がある。

 ただ、〈その先〉がないのね。男だとまだ会社や仕事を選ぶ時に能力相応の配分が働いて、その余力ある分たとえば商社あたりでメチャクチャ働かされるとか、そんな中で自意識を作ってゆく制度ってのが、ことの良し悪しは別として厳然とある。まあ最近はかなり危うくなってはきてるけど、それでも未だにあるでしょ。 その点、女はまだそういう制度が未完成でね。特殊な技術職ならともかく、事務屋の総合職で採った四大卒の女の子をどう扱っていいか、日本の企業はまだわかってない。“小林聡美”ってのは間違いなく仕事はできるんですよ。だから、上司も文句言えない。でも、彼らオヤジたちは何か不安ではあるんですよね。能力もあって仕事もできるんなら実はそれで充分で、それ以外は別に職場じゃ関係ないんだけど、なんだか自分のことを基本的に馬鹿にされてるかも知れない、と彼らは思う。でも、それを乗り越えてなお積極的に意見するだけの確かなものなんてのは、もうオヤジの中にはない。それでも無理に何か言おう、説教しようと思うと「世の中そんなもんじゃないよ」てな言い方しか出てこない。“小林聡美”の方にすりゃ、「あ、そう、ならあんたたちの気に入るくらいの態度取りゃいいのね、やってやるわよ」てなもんです。ますますこじれるばかりだよね。

 高偏差値になってしまった自分がどういう立場にあるのか、これを計測してゆく道具がもう少し必要なんじゃないか、って思います。もっと言えば、それは自分で選択して選べる立場というだけでもないような気もする。

 ただ、今はそういう立場を思い知る機会がないから、あたしには可能性があるかも知れない、やりたいこともあるしそういう夢を追っかけていいんだ、ってことに一律になる。これって実は大問題ですよ。二十歳過ぎても自分で自覚できないような可能性なんか、それは存在しないんです。自分で発見できないものを他人に発見してもらおうと思うから、この間の『anan』みたいに素人の女の子がいきなり裸になったりする。才能はないけど裸ならある(笑)、こんな厚かましい話ってない。「自分ではわからないけど、他人が見たら自分の中にはダイヤモンドの原石があるかも知れない」てなもの言いは、一見耳ざわりいいもの言いだけど、でもそれってタチの悪い商売人とか占い師とかの専売特許でもあるでしょ。そういう理性だって一方で働くべきであって、あれ、篠山紀信でマガジンハウスだからまだよかったものの、アラーキー白夜書房だったらどうすんだ、って(笑)。

 「ああ、あんたらそんなに自分で自分のこと持てあましてんのね」って感じだよね。自分の可能性なんて充分に限られてきてる、って思い知るのは辛いことだけど、でも、そういう狭まった選択肢の中で現実的に生きるってことも人間あるでしょ。

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 問題は、自分がこれだけ貧しく、何もできない状態にあるということを、どういう風に思い知ることができるか、そのための仕掛けを作ることができるか、ということなんだよね。それができると、ひとくくりに「学生」って呼ばれる中でも自分は一体どういう種類の学生なのか、どういう立場にあるのか、ってことが単に偏差値的序列に依るだけじゃなくてわかってくる。 それには、まず身近な関係を具体的に作ってくしかないんです。その中で自分の足場というか、逃げられない場所を追い込みながら作ってくしかない。

 ただ、これが難しくてね。というのは、今の社会、逃げられない関係ってなかなかない。血縁だとか地縁だとかが本来はそういう逃げられない一次的紐帯っていうことだったんだけど、それすら希薄になってる。もちろん、今でも親を選ぶことはできないけど、でも個室入って鍵かけちゃえぱそれから逃避してなかったことにすることはできる。血縁や地縁ですら逃げられるような装置を簡単に手に入れる社会を、この国の近代は作っちまった。

 でも、ここでもういっぺん、「選ぶ」ということはできるんだ、と言うべきなんです。自分は誰に責任持つのか。自分にとってこの先逃げないで引き受けなきゃならない関係って何か。それはもちろん親でもいいし彼氏や彼女であってもいいんだけど、何にせよそういう遠近法の距離感を自前で身につけようとしないことには、自分がどういう位置にいるのかわからなくなっちゃう。

 そのあげく、「私も地球に責任を持たなければ」的な妄想につながるわけだよね。地球の裏側でペンギンが何万匹死のうが、チェルノブイリでいくら原発がはじけようが、天安門で学生が何百人轢き殺されようが、とりあえず知ったこっちゃない、それはこの場所にいるこの自分が一次的に責任を持たなきゃいけない現実じゃない、とまずきっちり言えなきゃまずい。でもそれは、そんな現実に対して目を閉じ耳ふさげっていうんじゃなくてね。ただ、自分とどれだけ距離があることなんだろ、って自覚してみようってことなんだよ。

 ただ、そう言える根拠って、今どんどん希薄になってってるみたいで、僕はすごく気持ち悪いのね。とにかく「みんな」で地球のことを考えよう、とかってことになるでしょ。そんなの、おまえごときに考えてもらったって地球は迷惑だぞ、って思う。たかだかおまえらごときに地球が救えるか、一体何ができるんだ、って言うと、学生に嫌われるんですが。地球レベルのことを考えなきゃいけない立場の人たちももちろんこの世にはいるだろう。でも、そういう立場の人たちですら、僕らと同じようにファーストハンドで責任持たなきゃならない関係ってのが同時にあるはずで、そこの遠近法を慮る想像力もグシャグシャになってる。この「みんな」という妄想をこのままふくらませ続けるアブなさってのは、もっときっちり言葉にしなきゃいけないと思いますよ。最近の「国連」妄想なんてのも、ほとんどこれと同じ構造だもん。

 僕は理系のことはよくわからないけど、少なくとも文系の自分の経験から言えば、筑波大ってところは、地方の公立高校の優等生が来てしまう大学だと思ってます(笑)。それもうっかり来てしまう(笑)。僕も関西の公立高校出身ですが、筑波に来るような奴はそこそこ優等生で、ある種真面目でね。と言って、京大受けるような奴でもない。にしても、偏差値的世界観の勝者であることは間違いない。だったら、この先その立場を責任持って引き受けなよ、って話です。

 つくづく思うのはね、いい古本屋と落ち着ける喫茶店と安くてうまい定食屋とを近くに作れない大学って、ダメなんだよね。しかも、それらが歩いて行ける範囲、せいぜい自転車で行ける程度のところにないとダメ。でも、郊外に移転した私大なんかでも、軒並みダメになるのはそういう「学生」のための装置をもう一度作ることがもうできなくなっちまってるのね。筑波だってそれは同じでしょ。筑波に来るのは実は五年ぶりくらいなんですけど、この索漠とした感じってほんと、なんだろうって思う。確かにアメリカの大学なんかでも器としてはこんなもんだけど、それを使いこなす生身の側が違うんだろうね。ひとつの場の密度みたいなものを感じない。いくら装置ばかりそれっぽくしても、それを使いこなす身体ってのは絶対あるもんだからさ。 でも、そういう悪条件でもほんとうに自分の先行き考えることができるかどうか。それこそが「学問」でしょ。大学入って学んだ知識がそのまま社会に出て役に立つなんて信じてる人はさすがにいない。で、これだけみんながみんな「大卒」の肩書つけてるけど、どう良き市民、良き選挙民になるか、っていうことに腹くくる、そのための「学問」をする、それが学生の最大の社会的責任だと僕は思います。

 それやらないと日本は変わらない。日本が変わるっていうと大層に聞こえるけど、それはまず身近な自分のまわりの関係が変わる、ってことでね。ここは民俗学者として言うんだけど、そういう構築を十年、二十年かけてやってく層があるまとまりを持って出てくるならば、時代ってのは充分に変わります。そういう時代の変わり方、歴史の変わり方こそ、僕は一番信じたい。制度や器だけ変えても、人間の関係が変わらないことにはしょうがないんだよね。制度を変える責任を仕事として担う奴も出てくるわけで、それは官僚だったり政治家だったりするわけだけど、それとは別に、日常の中でどう自分の関係を引き受けてく場を作るかってことをそれぞれでやる。そこから本当に「変わる」ってリアリズムも出てくるはずなんですよ。

*1:初出『筑波学生新聞』。彼らに呼ばれての学祭だったか新歓企画だったかの講演記録、だったはず。http://d.hatena.ne.jp/king-biscuit/19930218/p1