たまたま、の東京――出郷者三代目の屈託


中村あゆみ (Ayumi Nakamura) Tokyo City Serenade

 一応、東京生まれである。だが、東京生まれでいッ、と胸張って言うことはまずない。自覚もない。

 生まれただけで育ったのは別の土地だ。たまたまそのころ東京で勤めていた会社員の家に生まれただけだもんね、という感覚が抜き難くある。たまたま、の東京。出郷者三代目はその程度には恩知らずだ。

 それでも記憶はある。住んでいたのは東京オリンピックの前、まだ中央線が高架になっていないころ。西荻窪の駅前には幌(ほろ)をかけた輪タクがたむろしていたし、アサリ売りのオヤジもいた。団地アパートの三階から見晴らす東京は、ビルもマンションもなく、小さな屋根がいくつも重なる街だった。空が広かった。秋には銀杏(いちょう)が黄色く茂った。やたらと道を舗装していて、ロードローラーがそこら中にいた。あの一枚歯をむいたような顔した機械がこわかった。下敷きにされると思った。だから、親に連れられていても、舗装工事をしている近くにくるといつも必死の抵抗を試みた。

 週に一度はロバのパンがやってきた。ロバの引く小さな馬車のパン屋。そこでクマの手の形をしたクリームパンを買ってもらうのがイベントだった。オヤジが二日酔いでなく、なおかつ機嫌もいい日曜日には、荻窪まで散歩がてらにぶらぶら歩き、『わんわん忠臣蔵』だの『安寿と厨子王』だの、五十円三本立ての漫画映画を見せてもらえた。

 「アニメ」という無礼なもの言いはまだなかった。だからそれは正しく“子供のもの”だった。そして、その“子供のもの”につきあった後、オヤジの機嫌がまだ良ければ、「さかいや」という喫茶店で、さくらんぼの付いたアイスクリームを銀の器と匙(さじ)とで食わせてもらう豪華な昼下がりだって稀にはあった。

 思えば、あのころのオヤジってのは会社員でも七時過ぎには帰ってきて、夕飯は家族一緒に食った。子供につきあう休日を、そんなもんだ、でやっていた。

 十四年後の春、大学に入るためにまた東京へ出てきた。そしてさらにそれから十六年。今や生活の場は都外にある「埼玉都民」だ。東京都のキャンペーンソングだったか、今どきのFM放送独特の国籍不明のしらじらしさの中、「アイ・ラブ・トウキョウ」などとR&B調に歌い上げられた日にはこっぱずかしさに逆上する。そんな出郷者三代目の屈託に寄り添う“東京”は表現としてまだ少ない。

 いや、少しはあるか。たとえば、中村あゆみの「東京シティセレナーデ」だ。横文字混じりは当世風だが、歌の内実は出郷者の距離感で描き出されるまごうかたなく八〇年代の“東京”だった。とは言え、彼らはすでに昔ながらの「田舎者」ではない。かつてこの国の小さな暮らしの場から引きはがされ、流れ、今やその記憶すら薄れてゆく中、それでも前向きに、たまたまの東京を「愛してるよ」と言う心意気。歴史がないならこの先こうして作るしかないよな、と、僕はやおら腰を上げる。