「団塊の世代」と「全共闘」⑦――全学連から全共闘へ

3.全学連全共闘――成立の時代背景

全学連から全共闘へ――六○年安保の挫折と再建

――さて、団塊の世代批判にお約束のように付随してくるのが、いわゆる学生運動の問題です。


 このところの「団塊」批判でも陰に陽にこのへんは意識されているわけで、さっき呉智英さんが言ったように、あいつら若い頃はカッコいいこと言って革命だ何だってゲバ棒振り回してたくせに、結局日和って普通のオヤジやオバサンになっちまって下の世代を抑圧にまわってるじゃないか、といった気分が、最大公約数として広く蔓延している、と。その気分の当否はともかくとして、少なくともそういう「団塊の世代」というもの言いを介して、上の世代に違和感を感じている層がすでに結構濃厚に存在する、というのは認めなければならないと思うんです。


 で、次にその「学生運動」というもの言いの内実が問題になってくるんですけど、たとえば「全学連」「全共闘」といったもの言いともそれは無媒介に言い換えられてたりする。別に厳密に定義しろとは言いませんが、ちょっと調べりゃそれがあまりにずさんな言い方なことはわかるはずなんですよね。なのに、このへんはまさに足もとからの歴史の盲点にも関わってくるんでしょうけど、「団塊の世代」=「全学連」=「全共闘」=「学生運動」、といった理解が若い世代にあたりまえになっちまってるところがある。それをもの知らずだ、バカだ、と言うのは簡単ですが、でもどうしてそういう図式になっちまってるのか、って問いはやっぱりあるわけで。


 昨今の「右傾化」(笑)で、左翼批判やマルクス主義叩きはもうそれ自体、ひとつのモードになってますけど、でも、左翼思想自体が〈いま・ここ〉の自分たちとどのように連なってきているのか、といったあたりも含めて、その功罪を冷静に考えようとする足場が、今のそれこそ即物的に「全共闘」批判に連なる俗流団塊」批判の枠組みでは、とてもじゃないけど期待できない、そのへんがずっと気になっているところではあるんです。

 じゃあ、ひとまず全共闘全学連の違いから、簡単に解きほぐしておこうか。

 そもそも全学連というのは「全国学自治会総連合」なわけで、終戦直後に貧乏だった学生たちの生活向上の要求闘争からはじまったわけだ。それこそ政府に学食でもっといい飯を食わせろ、とか、そういうレベルの要求から始まってる。だから、まさしく全国学自治会の総連合、なんだよね。で、そこに当時のことだから共産党が浸透してきた、と。当然、組織の雰囲気としては左翼的な流れになってくるわけだ。それがそのまま全学連としてその後もずっと続いていて、ひょっとしたら現在もまだ形式だけは続いているかもしれないんだよね。

 ところが、共産党が中心になったことによって、誰が権力を取るかという問題が全学連の中に出てきた。つまり、権力闘争だな。すると、共産党に対して批判を持っていた当時の一九五○年前後の知識人たち、黒田寛一などが新たな党派をつくる。太田竜(評論家/一九三○│)なんかもそうだけど、それこそ戦前にコミンテルンからパージされた第四インターというトロツキスト系の思想を引く者が何人か残っていて、彼らが、もうこのままの共産党じゃ駄目だ、というので、トロツキー系の運動を別に開始したんだ。

 そういう党レベルの動きが当時の学生にも影響を及ぼし、みんな実はあまりよくわからないまま革命的共産主義革共同とか、さらには共産主義者同盟(ブント)とか、まあ、これは特に六○年安保のときだけど、何にせよそういう分派というかセクトが少しずつ出てきたわけだね。

 思いっきりわかりやすく言えば、学生たちが共産党という「党」、つまり「組織」の統制に従わなくなってきたんだよね。そういう連中(反日共系)が中心になって、全学連という枠組み自体はそのままずっと続くようになる。と同時に、「党」という「組織」を大事にする日共系は日共系で、まだ完全に分裂しないまま全学連の中の反主流派として残っていく、と。

 それらが六○年安保の総括をめぐって入り乱れて、全学連は決定的に崩壊してしまう。そのとき、①ブント系は挫折感で何もしなくなる。②革マル系は、そのまま残って全学連を守る。③日共は、組織が崩壊したからいずれ再建しなければならなくなる。というわけで、三つのグループに分かれた。で、日共は六六年、新たな組織を立ち上げて、全学連を再建したと勝手に自己主張するわけ(笑)。一方、革マルも、六○年の後の総括をめぐる大会以来、私たちは権力を正当に保持している、と主張して堂々と全学連を名乗ってた。つまりここで全学連が、二つできたんだよね。その後、今度は、のちの全共闘の流れの中で、ほかの党派(おもに三派と言われている)、これが府学連、都学連などを各地区として、全学連を再建させ、三派全学連となる。ということはつまり、全学連は六○年代を通じて三つもできたことになるわけだ。

 こうして結局は三通りの全学連ができたんだけど、でも、それらはすべて、政党的には終戦直後からの左翼の流れをくんでいる、と。そして形式的には、それは全員参加の組織であり運動だから、建前としてはすべての大学の自治会を押さえているはず……なんだけど、実際のところはその全学連のどの部分がどこを押さえているのか、運動の中にいる者でも実際よくわからなくなってきてた、っていうのが、おおよそ六十年代半ばくらいまでの流れかな。

●東大&日大闘争の原動力となった全共闘

――流れとしてはあたしなどはもちろんよくわかるんですが(苦笑)、でも、今の若い衆にしたら、もっとそもそもの前提というか、どうして共産党がそんなに学生を中心とした若い衆に人気があったの? っていうところからもうわかんなくなってるところがあると思いますよ。「革命」が来る、っていう気分の〈リアル〉さ、とか、そのへんになると戦後だけじゃなくて、それこそ明治末期から大正、昭和にかけての同時代気分みたいなものをもう一度追体験するようなことをしなきゃいけなくなる。まあ、それはそれで大変としても、まず学生ってのが社会の中で圧倒的に少数派で、だからこそエリートで、そのエリートたる学生のたしなみとして思想だの教養ってのがあって、その中の大きな柱のひとつとしてマルクス主義、というのもあった、と。そういう再前提からおさえておく必要があるかと。

――エリートで恵まれているんだから世のため人のために考えて行動する、ってのは基本的にデフォだったわけで。それは立場が官僚だろうが政治家だろうが、財界人だろうが軍人だろうが、学者だろうが弁護士だろうが、世渡りの立ち位置は何であれ、原則的に同じだった、と。そういうエリートのソリダリティ(連帯感)みたいなものがあったから、思想的にはアカだろうと何かのはずみで一気に転向しちまったところはあるはずですよね。それは決して悪いことでもなくて、「世のための人のため」という思考回路が稼働してしまえば、アカにも軍国主義にもなり得たんだろうな、と。岸信介にしても吉田茂(まあ、彼は戦時中は親英米派で冷や飯食わされてたわけですが)にしても、敗戦後にあれだけアクティヴに動けたのは、何も無神経だったからでもなくて、エリートとしての世界観が根本的にあったから、ってところはあると思いますね。

 じゃあ、六十年代の後半あたりから続けるけどさ。

 そうしているうちに、今度は六八年に東大の医学部の学生処分問題が、実は冤罪だといわれて騒ぎ出した。また一方じゃ日大で、一億円だか三億円だかの使途不明金がある、と、これまた騒ぎ出す。それまでは何となく自治会寄りだった一般の学生たちが、テーマとしてわかりやすいものがあったから、あちこちでワッ、と騒ぎ出しちゃうんだな。これは、全学連自治会といった正式な学生組織を通さずに、言わば勝手に騒ぎ出しちゃった、って形だった。となると、自治会としては放っておくわけにいかないからとりあえず一緒にやろうとするんだけど、でも、その騒いでいる連中の力の方が大きくなるから統制はしない。というか、できれば統制したいんだけど、できない。すると、騒ぎ出した一般学生が今度は、勝手に全共闘をつくってその看板の下にもっと騒ぎ出す、ということになる。

――なんかほとんど暴走族の祭りみたいな、とか言うと、また叱られるんだろうけど(笑)。でも、六十年安保と七十年安保の間の大きな違い、ってのはひとつそのへんですよね。組織に依らない、自治会とか全学連とかそういう「党」なり「組織」なりの脈絡で政治に関与しない、そんなのかったるい、っていう、ある意味わがまま勝手な気分。それがいきなりふくれあがってひとり歩きし始めた、そういう状況が可能になった、ってのが、六十年代の「豊かさ」の帰結なんだろう、という理解です、少なくともあたしなどは。

 ある意味、そこでもう権力構造が二重になってたんだよね。つまり、その勝手に騒ぎ始めた連中が名乗った全共闘の権力構造もあるし、同時に、タテマエとしての全学連自治会というのも存在する、と。形式的には自治会が全部押さえているはずなのに、全共闘は一人一人だから、そんなもの実はなんにも押さえていないわけでさ。参加するという意味じゃ、全員が全共闘だったわけ。

――ですよね。まさに「個人主義」。俺が気に入らないからやるんだ、ってところが、ほぼ全てというか。

 そう。だからここでもあの時代の「個人主義」というキーワードが、生きているわけだよ。それが全共闘。ただし、そうはいっても個々のつながりもあるから、党派の連中は全共闘を言わば大きな海、プールだと考えていて、そこから自分たち既成の組織の側に釣れる人間をどんどん釣ろうとしていったんだけどね。

――既存の政治の側に投企した者と、そうじゃない同時代の気分に忠実であろうとしたものと、互いに食い合うような関係ですね。でも、それはそのちょっと前までみたいな、前衛と大衆、といった関係性にはもうならなかったってあたりが、時代性かなあ。

 でもまあ、同時に、全共闘の方にも一種の甘えがあって、何かのときには自治会なり党派を頼りにしてたんだよ。たとえば、ヘルメットをいくつ調達するとか、そういうときには組織に属している連中が頼りになるから、持ちつ持たれつの関係で両者がいる、っていうところはあった。

 ただし、全共闘は党派に支配されることを本来は嫌がっていたはずだよね。なにしろ個人主義、なんだから。だから、一緒にやるけどおまえらの指図は受けねえぞ、という気分が、もしかしたら彼らの唯一の紐帯だったんだと思う。それまでは、職場での組合にしろ何にしろ、民主性というのは組織であって、だから票を集めて決を採って、それでまさに権力闘争のステージに登ってゆく、というのが、一応約束として守られていたんだけど、そういう手続きというか「政治」の約束ごとがあの段階で一端外れたんだよ。政治ったってそれ以外、ってのも十分ありなんだぞ、と。


――そこでもまた、その前提となる「政治」と、それを保証する民主主義の手続き、みたいなものへの信心が、ある世代以降はもうぼやけちゃっててわかんなくなってるんですよ。「党」なり「組織」を動かすための手続きってのがあって、それはとりあえず民主的なものでなくてはいけないらしくて、ただ、それを律儀にやることがそんなに大切なことなのか、ってあたりでもう立ち止まっちゃう。自治会だのに首突っ込もうとする奴、政治家になろうと思う奴、なんてのは少なくとも七〇年代半ば以降は「ヘンな奴」にどんどんなってゆきましたからねえ。

 それが、よく言えばその時代の活力だった。

 だけど、たとえば全共闘とは、自分が全共闘だと言えば全共闘なんだから、今いるこの全共闘はちょっと嫌だな、という者は、自分プラス何人かを集めて新たに「○○闘争委員会」をつくってしまえばいい。もうそのへんはまさに何でもありで、自由というか好き勝手なわけ。それで自分の好きな旗を立て、仲間を集めて、好きな色のヘルメットを被ればそれでもうひとつ成立してしまう。そういう団体が全国にいっぱいできたんだよね。それら有象無象のグループの結合体としての全国全共闘というのも一応、存在してはいたんだけど、でも、それが結合体が組織として機能しているかというと、それはまたそうじゃないわけでさ。だからコントロールはきかない、ほんとにアナーキーな現象として全共闘というのはあったんだと思うよ。