太地の鯨とり……(上)


 国際捕鯨会議(IWC)が開催されている京都駅駅頭。小雨混じりの天候の中、工事中のフェンスが複雑に張りめぐらされた駅前の広場に、男たちが並んでたたずんでいる。一様に小柄だが、ちょっといかつい身体つきが観光のコードでまとめられた街並みと微妙にずれる。羽織ったハッピの背中に染め抜かれた「太地」の文字。手にした垂れ幕に鯨の絵。たどたどしい横文字で混じりのスローガン。
 Tシャツ、ジーパンにウォーキングシューズ、それにバックパックを背負った若い白人旅行者たちが通り過ぎる。垂れ幕にちらりと眼をやってなんでもないように通り過ぎながら、しかしその一瞬後に「えっ?」という感じでもう一度立ち止まって確認する。仲間に耳打ちをしてひそひそ話をしていたが、と、信じられないという表情で首振りながら、横顔に苦笑とも侮蔑ともなんとも判断のつかない笑いをかすかに浮かべて去ってゆく。
 今、この国際捕鯨会議が開催されているこの京都の街に、鯨の絵を描いた垂れ幕でもあればそれは当然、何の疑いもなく捕鯨反対についてのものだ、というのが彼らの発想だったのだろうか。あの立ち止まり方に垣間見えたある種の衝撃のさまは、どう静かに考えようとも捕鯨反対国からのスジの通らないゴリ押しの様相を呈するIWCの惨状を支える“気分”とは果たしてどのようなものかを照らし出しているようだった。

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 社会問題というのが、誰もが感心の持てるようなものでなくなって久しい。「みんなで考えなければいけない問題です」と言われても、それがどこまで自分に直接関わってくる問題なのか。だから、社会問題というのは今では「自分に関係なくても構わないような大文字のもの言いで語っておけばすむもの」と相場が決まっている。
 だが、いかに当事者性の実感の薄いものだとしても、八九年以降、湾岸戦争の一件にせよ、コメ自由化の問題にせよ、はたまたPKOの問題にせよ、この国を巻き込んださまざななそれら社会問題の系列は、ざっとひとわたり並べてみればどれもみなナショナリズムの問題に他ならない。ナショナリズムというもの言いがなじめないなら、「日本人って何?」という問題と言い換えてもいい。
 で、鯨もその流れに巻き込まれた。「地球環境保護」という誰もが正面切って反対できない絶対正義のお題目の前に、それまで当たり前のように鯨をとり、そのことを仕事として暮してきた人々の現実はもみくちゃに押し流されようとしていた。鯨に関する当事者であるはずの彼らの立場は明確に説明されることもないまま、雰囲気としての「捕鯨反対やむなし」がこの国をも覆い始めていた。
 日本がホスト国となった今回のIWC総会。当事者は黙っていなかった。古式捕鯨以来の鯨獲りの伝統を持つ和歌山県太地の漁師たちが大挙してバスで押しかけ、街頭でのアピールを展開した。良く言えば我が道を行く、悪く言えば協調性に欠ける気質の漁師たちにしてはきわめて珍しいことと言っていい。これに海員組合も加わり、さらには右翼の街宣車までが登場して、ひとまず数の上だけでも京都の街は捕鯨賛成派が優勢ということになった。反対派との衝突らしい衝突はなかったが、Tシャツ姿の反対派を取り囲んで、「ネエちゃん、沖で鯨のくの字でも見たことあるんか」「おまえらそれでも日本人か」と罵声を浴びせる場面くらいはあった。ひきつったように顔をこわばらせる反対派の若者たちに比べれば、なるほど何も論理的なもの言いはしていずとも、現場の漁師たちのよって立つ立場の確かさは圧倒的だった。
 だが、その立場の確かさだけで世界は律せなくなっている。そのことが漁師たちをなおのこと苛立たせる。

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 かつて南氷洋に出漁し、捕鯨産業の最前線で働いた腕ききの砲手として知られる小浜渉さんは、彼ら漁師の中では「理論派」として知られている。この「理論派」というもの言い、もう少しほどいて言えば、「外の連中に向かって彼らに通じるような言葉を操りながら自分たちのことを説明することのできる人」ということになるのだろう。
 確かに、実際会ってみた小浜さんは落ち着いた人だった。いわゆる「活動家」というイメージからはちょっとずれる。彫りの深い顔。もの静かな口調。だが、話す中味はやはり仕事としての鯨獲りの現場を踏んできた人のものだ。

「イギリスの船団なんかともね、南氷洋ではよく競争で獲ったもんですよ。こっちがまだ石炭焚くようなキャッチャーボートでやってる頃ね、あっちは大きな母船でそれこそいい設備を持った船団なんですよ。すぐ隣で操業してるからやってることがよく見える。見てるとね、一頭まるごと頭から脂を絞るような機械を使ってたりするしね。それで身ィをこう片身を三枚におろしたようにしといて、それをクレーンみたいなんでガーッと海の上に持ってくる。で、ボチャーン(笑)。はあー、もったいないなあ、あれくれんかなあ、なんてこっちは指くわえてた。そんなことやってた連中にね、今頃なんやかんや言われても、そんなん、はいそうですか、と聞けるわけないやないですか」

 口惜しかった、という。蛋白源として日本の食卓をにぎわしてきた鯨。その利用の度合いから言えば、アメリカやイギリスのかつての捕鯨のやり方など、もったいないとしか言いようがないのだという。

「日本がノルウェー式の近代捕鯨をとりいれたのが昭和の始めですからね。まぁ、それまでも伝統的な捕鯨いうのはわたしらのとこみたいにやってるんですが、船団を組んで捕鯨砲を使ってというのはそれ以降のことです。だからね、わたしら太地の子供たちは、幼稚園の頃でも自由画描かせたら、みなキャッチャーボートの絵を描いたもんです。右向いたのがカッコええ、とか、いや左向いとる方がええ、とかいろんなこと言うてね(笑)。そら自然に鯨獲りになって、できれば砲手になる、いうのが夢になってました」

 鯨を獲る、そのことで日々が過ぎていった頃ならば、世の中がどうなってるか知らなくても自分の仕事とその仕事の場の関係だけに向かい合っていればそれでよかった。だが、鯨をめぐる大きなうねりはそんな幸せな日々から遠いところに、彼ら太地の人々を連れていった。とりわけ八八年に捕鯨の全面禁止を受け入れてからは、小浜さんもそれまで会ったことのないような人々とも会って話をしなければならなくなった。

「グリンピースの連中なんかもう顔なじみですよ。こっちがいろんなとこ行くとあっちもやっぱり来とるでしょ。まあ、いろんな立場があるしいろんな事情もあるんやろうけど、最近は資金が切れてきたんかちょっと元気ないような気もするね。けど、日本の企業なんかでも彼らにはようけカネ出してますよ。そら、なんかあった時にいろいろうるさいこと言われること思ったら、少しぐらいカネ出しといて損なことはないでしょう。彼らもそこらへんはよう計算してます」

 若いのにメシも食わんと座りこみやったりして、何か信じるもんがあるんやろうけど、と小浜さんは眉くもらせる。まなじり決して唇の端に泡をためて速射砲のように言葉を浴びせてくる彼ら捕鯨反対派の活動家たちの方が鯨よりよっぽどこわい、と苦笑いする。

ノルウェーあたりは、もうIWC脱退する、それで商業捕鯨を再開する、言うてたりするでしょ。日本もそれくらいの根性あればと思いますけど、外務省やらの関係なんか、そこまではようせんらしい。鯨がうまいこといったらあいつら次はマグロなんかに的絞ってきよるやろ、ということで今回の会議については水産庁の連中あたりも結構我々の後押ししてくれてますけど、もとはと言えば200カイリの問題が出た時にアメリカの200カイリ内の漁業権と交換条件みたいにして鯨をあきらめたのは彼らですからね。そら水揚げ高から言えば額が違うからしょうがないのかも知れんけど、そこらへんはまあ納得でけんところではありますわね」

 向かい合って話を聞いていて、ずっと気になるのはその眼の印象だった。なんと言えばいいのだろう、焦点が遠くに合ったまま固定されたような、虹彩の作り出す瞳の部分がちょっと特別なのだ。砲手さん独特の眼、ということも聞いた。南氷洋で遠くの鯨にずっと焦点を合わせ続けているうちに、あんな眼なのだろうか。

「種類にもよりますけど、普段の状態やなしに本気で飛び(逃げ)始めたら鯨というのは呼吸の時でも大体1・5秒くらいしか水面に背中を出さんのです。その1・5秒を狙って撃ってもこれは捕鯨砲の銛の速度というのがありますから当たるもんじゃない。その1・5秒の次にどこへ鯨が動くか、それを予測して撃たなければいけないんです。それはもう勘としか言いようがないんですが、そういう意味で言うたら見えんものを狙って撃つ、みたいな部分はありますね」