住基ネットと個人情報保護法案、によるレッスン

 住基ネット、ってもの言い、最近よく耳にします。正しくは「住民基本台帳ネットワーク」っていうんですか? あたしらひとりひとりに通し番号をつけて、役所が住民票とかを発行する時の手間を合理化できる、っていう新しいシステム。要するに一時期言われた「国民総背番号制」ってやつの現代版らしいんですが。

 例によって、マスメディアはこの件を「問題だ!」「反対しよう!」とお約束の問答無用、「批判」「糾弾」「いかがなものか」モードで報道してくれてます。だからこそ、このもの言いをよく耳にしちまうんですが、あたしゃ正直言って、何が問題なのかがいまひとつピンとこない。っていうか、その「批判」しているシトたちの理屈ってやつがよくわかんない。要約すれば、「国」に「管理」されるのはとにかくイヤ、「個人」の情報がダダ漏れになりそうじゃないの、ってあたりらしいですけど、でもだからって、その対策として一方で取り沙汰されている個人情報保護法案、ってやつにもこのシトたちのたいていが反対、ってんですから謎です。「あたしを番号で呼ばないで」なんて金切り声あげて鼻の穴ふくらませてる向きもあるようですが、あのさ、だったらあんた、携帯電話だってクレジットカードだって使えなくなるだろっての。

 まあ、これらの理屈に合わないところに思い切り目をつぶって斟酌すれば、「国」だの「お役所」だの、つまりは「権力」のやることはまずもってあやしい、というのが、気分として前提になっているんでしょう。それはわからないでもない。なにせ肝心の「民間」にしたところでこの春、みずほ銀行が全国規模でネットワークをオシャカにしちまって、その後始末もロクにできてないくらいですから、さらにガタが来てるのがあからさまな「国」にいきなりこんなデカいネットワークの運営ができるとは、まあ、思いにくい。

 とは言え、そういう不信感がそのまま「反対」にひとくくりにされちまっていいとも、あたしゃ思えないんですよ。まして、個人情報保護法案もやだ、住基ネットにも反対、なんてまるで矛盾した立場を代案もなしに言い募ることが、何やらメディアの舞台の「正義」になってるってのは、これまた別のモンダイなんじゃないか、と。

 この「正義」をさらに煮詰めて蒸留してみれば、残るのは絶対不可侵、神聖なる「個人」ってことだけですよね。つまりは「誰もあたしに触らないで。でもあたしは誰に触ってもオッケーにしといて」という、まるで神サマのような究極のワガママ状態。いや、冗談じゃなくて、ほんとに神サマみたいにあらゆる現実から一歩高みに立ったまま、この世のしがらみもいきさつも何もないところに純粋抽象「個人」たる「あたし」だけがいる、と思っているらしいんです、こういう気分をよしとするシトたちって。

 たとえば、彼ら彼女らって、「国」や「権力」、はたまた「企業」なんかにはガンガン「情報公開」を要求します。どうかすると「オンブズマン」だの「NPO」だのという看板掲げて、裁判まで起こして「知る権利」ってやつを行使し倒そうとしたり。そうやって「監視」しないことには「権力」は何するかわかんない、ってことなんでしょうが、それはまあそれとして、じゃあそうやって「権力」を「監視」したがるあんたって何者よ、という問いに対してはせいぜい、「市民」です、ってのっぺりしたもの言いが返ってくる程度。その「市民」の中身ってのもよくよく聞いてみると、やっぱり具体性のない「個人」でしかなかったり。何より、そこまで他人に平然と要求しておきながら、おのれの情報公開はってえと絶対いや、っていう、そういう了見があたしゃ気色悪くてしょうがない。新聞社やテレビ局のやってることって、実はそういうことじゃないですか。

 こうやって考えてくると、ともすれば自分の「正しさ」を保証するもの言いとしてよく言われる「市民」ってやつは、実はメディアの舞台を介して宿るある種の自意識ときれいにシンクロしたシロモノだ、ってことがよくわかります。でも、それはホログラフィみたいなもんで、現実に根を張った「立場」ってやつから切り離されている、と。メディアの舞台でニュースキャスターたちの演じているような「個人」というのは、つまりはそういう特権的な批判者、超越的な文句言い、ってことに他なりません。それはかつてそれなりに特権的な地位にいた「知識人」「インテリ」の零落した姿なわけで、そんなもの今やもうほぼ役立たずなのは明らかなのですが、悲しいかな、そのありようだけはメディアを介して広く蔓延するようになって、日々の暮らしの中で自信のない「個人」を補強するアリバイとして使い回されてたりする、と。「市民」を標榜するシトたちの身振りやもの言いって、マスコミや学者、文化人なんかとよく似たものになっちまってるのも、そういう意味じゃ、まあ、必然なんでしょうな。

 住基ネット個人情報保護法案のこのパラドクス。いまどきの「公」と「私」を身の丈で考えてみようとする上では、案外いい練習問題のような気がしています。