国会での憲法調査会の設置。「日の丸」「君が代」の法制化。若者たちを襲う苛酷な競争社会の到来と、世界を再び細分化するナショナリズムの隆盛。21世紀を目前にして、「平和」という言葉の権威は明らかに揺らぎ始めたように見える。民俗学者大月隆寛氏と哲学者中西新太郎氏により、“戦争と平和”の問題を再吟味してみた。*1
「平和」というのは、戦後無条件に輝かしいものになったもの言いの一つでした。それは「民主主義」などと共に、戦後のわれわれの価値観の中心に否応なく居座ることになった、ある特別な響きをまつわらせたもの言いでした。
国鉄の特急列車が「平和」と名づけられ、戦災から復興した都市の新しい大通に「平和通り」がいくつも出現した。たばこでさえ「ピース」と耳慣れない横文字の「平和」になった。戦争が終わり、それまでのように国民規模で死を滅びを思い詰めていたところから一転、確かに自分は生きているという〈いま・ここ〉の手ざわりを確認するために、誰もがこの「平和」というもの言いを使いました。
おかげで男も女も、子供も老人も、“あの時代”を生き抜いた日本人ならば誰もが、自ら体験していた暮らしの手ざわりを一律に「戦争」と結びつけて意味づけ、そしてそれを戦後の「平和」の輝かしさと対置して語れるようになった。それはひとまつず、同時代表現の解放だったと言っていいでしょう。
かくて、「平和」や「民主主義」は、日本人にとっての「戦後」の〈いま・ここ〉を肯定するための呪文になりました。それはすでにことば以前の自明の要素として、まるで空気のように同時代の気分に漂っています。
平和を維持するためには実は絶え間ない努力が必要だし、ミもフタもない「力」の行使による均衡状態を希求するリアリズムに立つしかない――そういう理解は、いわば密教として一部の官僚や実務派知識人たちの間に共有されてきただけで、顕教としての「平和」と「民主主義」は学校やメディアの舞台を介して世間に華々しく流布され、そして絶え間なく書き換えられてゆきました。
けれども、今やそんな戦後もすでに半世紀以上。どんな生き生きしたもの言いでも時代の移ろいと共に風化し、その本来とはまるでかけ離れた頽廃の姿さえ見せることは、ことばと人間の生態学としてあたりまえのことです。
誰もが否定できない正義であるかのように思えてきた「平和」や「民主主義」でさえも、その生理から逃れられるものではない。それはそのもの言いの責任ではなく、それが大切なものであればあるほど、そのメインテナンスを細心の注意と共にやっておかねばならなかったはずの、われわれの側の責任です。
「護憲派」「リベラル」「戦後民主主義者」「サヨク」……いずれ呼び方は異なっていても、それら顕教としての「平和」や「民主主義」を自らの存在証明にしてきた伝道師たちの錯乱が、冷戦崩壊以降、あらわになってきています。*2
「平和」や「民主主義」が役立たずならば、別のものに代えることだってもはやあっていい。ただ、その場合でも、干からびたり錆びついたり、余計なフリルやこけおどしの化粧などがしがらんでしまった今の「平和」や「民主主義」をまずメインテナンスしてみて、本当にまだ使いものになるかどうかを確かめることから始める必要があります。
戦後50年以上もの間、〈いま・ここ〉を便利に自己肯定するためのもの言いであり続けてきたものが、そう簡単に別のものに置き換えられるはずもない。何より、自分たちの来歴を語る生きたもの言い、確かに〈いま・ここ〉に根ざしたことばを回復することからこそ、望ましい〈われわれ〉の姿もまた、その像を正しく未来に結ぶことができるはずだからです。
いま、「日本」を考えることとは、きっとそういう手もと足もとの作業から始められるべきだと、僕は思っています。