「基地」というもの言いが本当に久し振りにメディアの舞台を横行している。
言うまでもなく、沖縄の米兵による幼女「暴行」(はっきり「レイプ」「強姦」って言わんかい!)事件がきっかけで地元の反対運動が盛り上がり、その後基地の土地使用許可をめぐって沖縄県知事が国に対して強硬な態度に出ていたり、さらに追い討ちをかけるように米軍戦闘機の墜落事故がおこったり、そんなここ一連の流れが関係している。 ただ、新聞報道などを見る限り、沖縄県知事も「基地」の前提である日米安保条約を今すぐどうこうしろとは言っていない。安保を守るなら守るでいいけど、どうしてうちだけがそのリスクを負わないといけないんですか、てなところがおおよその主張だ。
個人の実感としては、ひとまず圧倒的に正論である。でも、これって「原発」の語られ方とよく似てないか。ほら、そんなに原発が必要だって言うなら東京に造りゃいいじゃねえか、というやつ。
もちろん、かつて「基地」の問題が論じられる時も、こういう地元の「迷惑」や「危険」は重要な論点だった。だが、それら極めて実感的な訴え方と共に、当時はまだ独立国としての尊厳うんぬんといった派手な原則論もあったし、その一方では「反米」というお題目もあり、さらにその後ろに「反帝」てなもっと大文字のスローガンだって控えてたりした。しかし、時代はめぐり、それら大文字のイデオロギーは力を失い、そういう「反米」「反帝」のもの言いもひとまず意味ないものになっちまったところで、「基地」を否定する根拠として残ったのは、結局、地元の「危険」だけだったってことらしい。
でもさ、それって確かに素朴な正論だけど、「基地」ってただ「危険」だからってだけで、一律に“いけないもの”にしちまっていいのか? 「基地」に限らず「軍事」にからむ現実それ自体があってはならないという、いつの間にかわれわれの意識に刷り込まれている“戦後の常識”を前提にするより他に「基地」を語るもの言いが立ち上がらなくなっちまってるのだとしたら、それはそれでまた別の問題だってあるように思うんだけど。
だって、よく知らないけど、中国は台湾の庭先にミサイルぶち込むわ、北朝鮮はまだ武装ゲリラなんてやらかすわ、わがニッポンの隣近所はかなり物騒なことになりつつあるかも知れないわけでござんしょ? そんなこんなを考えると、「基地」や「軍事」の問題を語る場合に、いかに素朴な正論とは言え、こういう「危険」「迷惑」系のもの言いしか発動できなくなってるってのは、あまりいいことでもないかも知れない。「基地」は「原発」とは違うと、僕はやっぱり思ってしまうぞ。