結核、如何に金儲けになるか

 

 

「肺病それは今日の人類全てが例外なくとりつかれてゐる業病の名だ。都会人が百人よれば百人ともやられてゐる恐しい宿病なのだ。ピルケー反応といふ試験がある。肺病といふよりも結核に侵されてゐるか否かを試みる方法であり、之に陽性反応を示す者は結核患者の極印を押されたことになるのだが、驚くなかれ――清浄無比の子供に之を試みても、六歳の場合百人中五一人、七歳の場合百人中六一人、八歳の場合百人中七三人、九歳の場合百人中七一人、十歳の場合百人中八五人、十一歳の場合百人中九三人、十二歳の場合、百人中、九五人は悉く既に結核に侵されてゐるといふ事実が判ってゐる。そうして、結核に勝ち越す人間もあるが、この結核に堪えられない所謂肺病患者になると、百人中五十七人迄は廿歳台までに死んで行く……。」

 

 「昔」のこと、それも何百年と前のことでなくほんの何十年か前のことを考える時でさえも、ついうっかりと斟酌しないままになってしまうことがいくつかある。たとえば、病気のこと、そしてその結果に控える「死」のことなどはそのひとつだ。

 平均寿命というのが盛んに取りざたされるようになったのはいつ頃からか、とにかく今の日本は世界一、二の「長寿国」ということになっているけれども、ついこの間までは、決してそんなことはなかった。人は平然と病気になるものだったし、病気になればいとも簡単に死んでしまうようなものでもあった。少なくとも、今のわれわれが当たり前のものとして持っている感覚よりもはるかに高い確率で。

 ここで言われている結核などはそのような病気の最たるもの。いつの頃からか知識人特有の病気といったイメージがまつわっていたせいで、同じ死ぬなら粋な肺病で口から絹糸のような血を吐きながら死にたい、といった奇妙な想像力も書生などの間には蔓延していたらしいが、抗生物質が発見されてそれが民生用に普及してゆく戦後はともかく、それ以前の結核は今の癌よりもはるかにこわい確実に「死」に至る病いだった。

 冒頭に引用した文章は、一読すれば誰でもわかるように、そのような結核の怖さを説明したものではある。だが、だからといって公衆衛生知識の普及や、医学技術の進歩を叱咤激励するような代物でもない。この後にはこういう一節が続く。

「子供の中で百人の中の九十五人迄が結核に侵されてゐるのだ! 大人は全部が全部結核患者と云ってもよいではないか――と考へる時、諸君、金儲けはこゝにある!と確信は出来ぬか。」

 見事である。あっぱれである。あきれるより先に笑ってしまう。そして、この笑ってしまうような感覚がどこかに介在しないことには、「金儲け」というもの言いに必然的に伴ってくる切実さは現実のものとして立ち上がってこない。

 中川六盃という名前からしてあやしげな人物の手による『売薬の通信販売法』(昭和八年 誠光堂)という本の一節である。ごていねいにも「素人に出来る金儲けの近道」という冠までついている。『新職業』という月間雑誌に連載されていた記事をもとにまとめたものだというが、どうもこの雑誌自体この中川氏の経営していたものらしく、以前は『副業雑誌』とも称していた由。残念ながらこの雑誌の現物をまだ見たことがないのだが、昭和初期、金融恐慌から発した不景気のどん底にあった頃のこと、このような雑誌の需要もまたあったということだろう。

「我国に於ける治療を必要とする結核患者の総数は百萬人を超すと云はれてゐて、年々肺結核などでの志望者は十八萬人以上とされて居るのである。(…)その百萬人の患者が例へば一日に一圓の治療費を費して居るとすれば、一日百萬圓、一ヶ月三千萬圓、一ヶ年三十六億五千萬圓といふ巨費が實に此の忌はしい病気のために費消せられることになるではないか。(…)薬九層倍といふではないか。肺病薬の原価がその十分の一としやう。この薬の売上により利益といふものは實に三十二億八千五百萬圓になる――といふ計算は早計すぎやう。この内の大半は病院がとるが、残りの十億圓でもよい。五億圓でもよい、それが肺病薬を発売する者の手にはいる儲け高なのだ。日本に一萬人の肺病薬の発売元があらふとは思へないが、よしんば一萬人あったとせよ、一人当りの頭割は年十萬圓であり五萬圓である。皆が皆発売元から患者の手へ直接売れるものではあるまいが、問屋小売屋に其三分の一をやってもよい。五割を分けてやるのもよからふ。それでも五萬圓だ! 三萬圓だ! 二萬五千圓だ! しかも、よく聞いて貰ひたい。肺病薬の発売元の数が日本中に一萬人もあった場合に於いて、且つ肺病患者で咳が出たり熱があったり、貧血したりして、どうしても治療を必要とする人間が、治療費の七割近くを医者と病院に持ちこんだとしても、尚、この商売をする者には年何萬圓といふ利益を与へてくれるといふのだ。もちろん、これは平均しての話だから、一人でうまい汁を腹いっぱい吸ふ男も居やうし、ほんの残糟をしか嘗められない奴も居やう。が、ともあれ、これだけの畑がある!といふ事実を目の前にして、一体、種子蒔きを躊躇してゐる人間は誰か?」

 どこかテキヤさんの口上めいた、あるいは安物の街頭演説めいた文体になっているのは、この時期のこのような“ハウ・ツー本”につきものの傾向ではあるが、それ以上にこの筆者の体質に関わっているところもあるのだろう。不特定多数の人間に向かって何かを説得してゆく語りの作法というのは、明治期このかたのいわゆる雄弁術の伝統の上にレコードや映画、ラジオといったさまざまな新しいメディアに乗った語りの型を融合させてゆきながら、この時期、普通選挙の実施と共により一層身近なもの、応用可能でしかもそれが時代の正義すら背負えるようなものとして滲透していったはずだ。

 結核がこれだけ広まっている現実は、それだけ結核薬の市場も広がっていることだと見よ、というこの中川氏、ならば製薬会社でもやれというのかというと、決してそうではない。そんな資本も技術も知識もなければコネもない、徒手空拳の食い詰め者たちが起死回生の思いで仕掛けるからこそ「金儲け」なのだ。専門の医者を雇い、薬剤師を組織して製薬会社を作るような仕事は初手から「事業」だ。われらの「金儲け」としての結核薬の活路は、天然の免疫力のせいで放っておいても直ってしまう患者というのが何割か必ずいることにある、と正々堂々言ってのけてこの中川氏、何ら恥じるところはない。そして、そのような患者がいる以上、日々の悩みや苦しみを救う民間療法的な薬というのも立派に存在意義がある、と続ける。

「今日肺病薬として大いに宣伝されてゐるものは、石油とヨードとである。この石油が肺病に利くといふ話は、内務省発行の雑誌「産業福利」とかいふのに紹介されてこともあるといふのだが、一番の始めは山梨県石和町の馬車屋の娘が肺病を苦にして石油を飲んで死なふとしたら却って病気が治ったとかいふやうな話からはじまり、数年前には東京の深川か本所あたりの方面委員が之を大いに推賞して、肺病患者に飲用させ、人を殺したり生かしたりして大いに問題になったことを皮切りとする。(…)こういふ療法が宣伝競られるのに目をつけて、医学博士山田寿一といふ人が早くも此の石油を主剤とするチセキミンとやらいふ薬を発売してゐる。石油九四・五%クレオソート五%沃度肝油〇・五%といふ割合の膠嚢薬だが、〇・五ccの石油入りの膠球一個が二銭五厘で売れる世の中だ。甘いといふかセチ辛いといふか、諸君もって如何となす可。」

 石油を飲むなんて、と顔をしかめ、当時の人々の「無知」を嘲うことはたやすい。しかし、「薬」として意味づけられるものは時代によって、そして文化によって異なってくる。その限りで「薬」というのは化学的に説明される薬効の水準に存在していると共に、高度に“意味”の産物なのだ。そして、その領域で「宗教」や「不思議」や、それらを前向きに操ろうとする技術といったところに根をおろしている。あやしげなところのない「薬」などないのだ。たとえば、少し前騒がれた「野菜スープ療法」にせよ、あるいはまた今もある「青汁療法」にせよ、この時期の民間療法のレシピの中にその原形は登場しているのだし、それらは往々にしてその語りによって「宗教」めいた「信心」の領域にいざなったりもする。そして、裸一貫徒手空拳、何ひとつ頼るもののない立場の人間にとって、それはある腹のくくり方さえすれば一気に「金儲け」につながり得るようなものでもあった。同じように、今ある「健康食品」や「自然食品」などの領域もまた、「宗教」と同じように、そのような立場にあらざるを得ない人々にとっての福音になっているはずなのだ。