TBS「サブリミナル」映像騒動

 TBSの「サブリミナル」映像騒動は、事態の細部も責任の所在もよくわからないような「謝罪」のみで、例によってうやむやのまま収束してゆきそうである。

 これは全くの当て推量で言うのだから、もしも違っていたらTBS関係者に本当のところをぜひご教示いただきたい。あれは現場の編集マンがほぼ独断でやってのけたしわざで、その意味では単なる“いたずら”に過ぎないのではないか。少なくとも、「謝罪」の経緯でちらほら出てきたような、映像報道の可能性ウンヌンといった高邁かつ深遠な理念のもとに行われたもののわけがない。小子はそう考えている。

 テレビの現場での編集マンの立場を少しでも知っていれば、そう考えるのが自然だ。とりわけ報道の場合、決まりごとになった映像の撮り方作り方をどれだけ効率良くこなしてゆけるか、というところが生命線になっている。個々のディレクターの意図や制作モティーフなどでなく、そのようなシステムで動いている側面が強いのだ。もっとも、活字報道にしたところで現場は同じようなもので、そのような没個性的な情報生産のルーティンが強固にできあがっている分、新聞記者の憂欝も深いのだが、それ以上に、どう言い訳しても“絵”を撮らねば話にならないテレビの場合、そのような慣習化して自覚もされにくい技術のシステムに依拠せざるを得ない度合いはより高くなる。それは責任意識の持ちにくい構造であり、その意味では最近の理科系技術者の抱え込んでいる問題にも共通してくる。 TBSの編集マンが会社とどのような雇用関係にあるのか、本社社員なのか、それとも外部の契約社員なのか、小子は知らない。にしても、自分でも意識しにくいような、しかし間違いなく高度に練り上げられた映像についての技術を行使することだけで過ぎてゆくあわただしい日々がどこかでこういうバグを生むことは、実感としてよくわかる。(渚)