実は不詳わたくし、パソコンだけでなくファミコンというやつも、これまでいじったのは後にも先にもたったの一回。もう何年も前、知り合いの家で初期のシムシティにひと晩ハマったきり。その後何の興味もございませぬ。街のゲーセンもほぼ同様。とにかくRPG系がまるでダメで、シューティングっつーんですか、敵を撃ったり倒したりというのじゃないと燃えられない。といってストリートファイターのような擬似格闘技系もダメ。飽きちまうのだ。
ただ、ゲームの制作現場には相当優秀な奴がいるはず、とは常々思ってはいた。活字方面にあまりにトロいのしかいないもので、同時代の才能の総量が同じだとしたらこりゃビジュアル系に流れてるんだろう、まずはゲームかいな、と目星をつけていた次第。というわけで、今回はそのゲーム制作の若手第一人者として期待されるという飯野賢治さんの登場であります。
――なにせゲーム音痴なもんで中身も何も全然わからなくて申し訳ないんですが、評判になった『Dの食卓』というのはどれくらい売れたんですか。
飯野 あれはもう一年半も前のことなんでね、言うのは恥ずかしいんだけど、国内でたぶん今、実数で四十万本台前半ってところなんじゃないですか。
――ゲームソフトってのは、だいたいどれくらい売れたら一人前なんですか。
飯野 (即座に)五万本。五万セールスするとゲーム業界で名前が知られる。だけど一般の人は知らない。二十万本超えると一般の人も知ってる。だけどゲームやらない人は知らない。五十万本超えるとゲームやらない人も知ってる。百万本いくと誰でも知ってる。そういう感じの世界です。
――例の『スーパーマリオ』なんてのになると、どれくらい売れたんですか。飯野 三百何十万ですか。そうなると全国の子供はみんな知ってるという状態。ただ、今は上限も百五十万くらいじゃないですか。
――そりゃまたどうして。
飯野 ほら、今はハードの世代交代の時期なんで、ハードを買い替えないと新しいゲームも出ない。来年の夏ぐらいから年末にかけてぐらいが32ビットのソフトのピークじゃないですか。
――ゲーム関係の業界がそういう規模になってきたのは、だいたいいつ頃からなんですか。
飯野 ゲーム業界ってのは昔からあったんですけど、これが今みたいにゲーム産業になったのはせいぜいここ十年ちょっとと見ていいんじゃないですか。ファミコンの初期は僕はまだ産業とは見たくないですね。で、作家性も含めてアーティスティックなものが出てきて、文化と呼べるようなものができてきたのはここ一、二年なんですよ。
――ごく最近なんですね。それは何が違ってそうなってきたんですか。
飯野 ひとつはハードの問題ですね。たとえばファミコンが8ビット、スーパーファミコンが16ビット、サターンが32ビット、他に64ビット機もありますが、これは簡単に言うとクリエイターの使えるコマの数が増えたってことですね。ファミコンってのはたとえて言えば弦一本の楽器みたいなものなんですよ。誰が弾いてもあんまり変わらない。そこではリズムを正確にキープできるとか早く弾けるとかが大事なのね。それがギターになると弦が6本だから自由度が生まれて人によって能力の違いが出てくる。これがピアノみたいに88鍵盤とかになるとさらに違いが出る。そういうハードの能力も幅も出てきたのでやっと僕らクリエイターの側もようやく自由に遊べるようになってきたということですね。
――前後しますが、今おいくつですか。
飯野 二十六です。東京の荒川生まれで、育ったのが埼玉の越谷。でも僕ね、みんなの予想と違ってあんまりゲームやってないんですよ。よくそういう取材に来られてがっかりされることがあるんですけど(笑)。
――そりゃ確かに意外だ。じゃあ、小さい頃は何してたんですか。
飯野 小学校の低学年はビートルズばっか。おじさんが引っ越しの時に残してったステレオがあって、それをオヤジと引き取りに行ったらビートルズのレコードもあった。それから聴くようになったんですけど、まわりの小学生が何とバカに見えたことか。君たちは『アクロス・ザ・ユニバース』を知らないのか、とか(笑)。だからイギリスにコンプレックスを持つ小学生で、日本人ってカッコ悪いと思ってたんですよ。イギリスはカウンターカルチャーがあっていいなあ、と。それを救ってくれたのがYMOだったんです。小学校四年生の時かな。おまえも生きる価値がある、と言われてびっくりした。そうか、日本の工業生産もひとつの作品で、これはこれで大したものなんだ、と見直したんですね。
容貌魁偉でなおかつ巨体。さらに長髪。見てくれだけならプロレスラーと言っても通用しそうだ。声も大きく頭の回転も早い。と言って、こっちの間抜けな質問に対してもありがちな高飛車にもならず、いい意味でビジネスライクに答えてくれる。経営者の貫禄だ。すでに崇拝者もいると聞くこの飯野さんの立志伝、次回に続きます。