あなたの「立場」って何?――宗教学者だけが「無責任」なのではない

 宗教学者が火だるまになっている。事態への対処があきれるほどナイーブで馬鹿正直な分、何やら島田裕巳だけが矢面に立ってしまっている観があるが、かつてオウムを持ち上げていたか否かなどとは全く別に、宗教学という看板を掲げて世渡りしてきた者全てが今、厳しく問われていることは間違いない。

 だが、これは何も宗教学者だけの問題ではない。ここで示されているより本質的な問題とは、人が敢えて他人と関わってゆこうとする時の「立場」とは何か、ということだ。その限りでは、ここぞとばかりに彼らを「糾弾」する弁護士や評論家、ジャーナリストの側にしても、それは全く同等に突きつけられているのだ゜し、さらに一般化して言えば、自分ノ理解できない内実を持っているらしい「他人」と関わろうとする「自分」って何、という自省的問いにまで連なってゆくものでもある。それはうっかり深めれば、日常での私的な人づきあいから、「全てがワイドショーになった」と評される昨今のメディアのありようにまで関わってくる広汎で難儀な問いでもある。

 坂本弁護士失踪事件に端を発してオウムの被害者弁護団の獲得していった「調査」力は、少なくとも昨年末までの時点では警察の捜査力を上回るリアリティを獲得するまでになっていた。そのことに僕はひとまず敬意を表する。ならば、同じく別の角度からオウムに関わっていた宗教学者としては、すでに眼の前に存在していたはずのその「調査」力の水準の違いを律儀に自らの方法と突き合わせ、フィードバックすることが必要だった。それは何も弁護団に同調せよというのではない。信者でなく宗教学者だというのなら、そのような「違い」がなぜあり得たのか、そしてその「違い」のバランスシートはどのようなものか、ということも含めて方法的に考え、自分の「立場」を言葉にして示そうとするべきだったと言っているのだ。オウムの犯罪がなぜ見抜けなかったのか、などどうでもいい。宗教学者の「無責任」が問われるとしたら、まさにそのおのが「立場」を言語化できなかったという一点においてのはずだ。

 なるほど、法律を背負っているだけあって弁護団の「立場」は明快である。オウムは犯罪に関わっていることがきわめて疑わしいし、そのことを示す自前のデータを自分たちは持っている。さらに、他でもない自分たちの仕事仲間とその家族とが巻き込まれている、という当事者意識が補強する。それに対して、私は「学者」としてオウムと関わっている、という「立場」の提示だけではあまりにも弱い。「学者」もまた法律の裁量する現実に生きているのだし、それを踏まえた上でなお、弁護団のリアリティを超え得る価値を提示し、説得できないことには話にならない。何より、それでは「フィールドワークとしてオウムに入信した」といけしゃあしゃあと言ってのける東大の大学院生あたりの無自覚な権威主義と全く同じ。あんな人をナメた発言をされてオウム側もよく怒らないものだと思うが、結局は同じ意識構造ということなのだろう。

 繰り返す。「学者」や「フィールドワーク」といった物言いを持ち出すことによって無条件に自分の「立場」を確保できると思う、その脳天気さこそが問われている、となぜ考えられなかったのか。それを今になって「だまされた」と釈明し、またそれに対して法の正義を背負って一方的に糾弾するというだけでは、いずれ他人の現実に関わって世渡りする稼業の身でありながら、どちらもあまりに貧しい。

 眼の前に何かを「信じている」人間がいるとする。その信じているという中身についてはどのように考えてみても納得できるものではない。しかし、そのようなこちらから見れば不条理な、納得できない信じ方をしているものだとしても、その「信じている」という現象そのものについて考察の対象にしようとすれば、どのように不条理なものであっても、「信じている」ことについてはひとまず価値判断を留保することが宗教学者には求められる。とりわけ、貧・病・争が宗教に入る最大の要因、というイデオロギーが生きていた段階では、いかに奇妙な信心に見えてもその背後には貧・病・争という理由があるのだ、という前提において研究者個人の価値判断は棚上げできた。その事情も一応わかる。

 だが、高度経済成長以降の「豊かさ」は貧・病・争でもなく宗教へ向かうことを可能にした。眼の前にいるのは貧・病・争にさいなまれた同情すべき「民衆」という他人などでなく、自分と全く同じ大衆に過ぎないという構造を方法的にフィードバックしてこなかった。宗教学だけではない。社会学文化人類学民俗学などといった「フィールドワーク」を金科玉条にしてきた学問全て同じ問題を抱えているし、もっと言えば、ジャーナリストも弁護士もそれは同じはずだ。宗教学者の無責任を威勢よく糾弾している側が、個々の信者がオウムに入信した動機を問われれば「みんな家庭に問題がありますからね」とひとくくりに片づけて平然としているずさんさを示すのは、そのような意味で必然なのだ。

 「調査」する立場、そのように知りたいと思う身分の自覚について、「学問」や「報道」「法の正義」といった物言いに無条件にあずけてしまう態度だけではすまされない状況は拡大している。おまえはどういう「立場」で眼の前の他人と関わるのだ、という問いに対して、大文字のイデオロギーや図式でなく、言葉本来の意味での「個人」として言葉にし、表明しようとする腹のくくり方を学んでゆくことがこれから先、必要なのだ。

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*1:掲載紙面。『東京新聞』であることにいろいろと隔世の感。大学に拉致されていた研究室まわりの整理をしているうちに発掘されたので、ここに再掲も含めて。……240223