マンガ評・唐沢なをき『電脳なをさん』(アスペクト)


 唐沢なをきの新刊『電脳なをさん』(アスペクト 一六〇〇円)がいい。

 もとはコンピュータ雑誌『EYE−COM』(アスキー)に連載されていた作品だが、担当編集者による巻末の解説(よくまとまっている)に「20年前の四月馬鹿に、高校の同級生ふたりが作った会社、アップルコンピュータ。後年、極東2バイト文字の国で、ギャグマンガのネタにされるとは、このふたりとて夢にも思わなかっただろう」とある通り、俗に「マック」と呼ばれて熱狂的なファン層を持つアップル社のコンピュータを徹底的に仇役にしたもの。未だにコンピュータをロクに使えないあまり「コンピュータと英語に簡単にハマるような手合いは亡国の輩」と宣言して恥じない居直り強盗のような僕が言うのも何だが、今どきのコンピュータユーザー、とりわけ少し前までの高飛車な勢いはどこへやら、今や買収の噂まで出る落ち目の三度笠のマックを使う破目になってしまったマックユーザーたちの愛憎半ばする泣き笑いを下敷きにしているあたりが実に大笑いなのだ。

 こう言うと、コンピュータの門外漢にはよくわからないマニアックな漫画のように思えるかも知れないがそうでもない。マニアックであることは間違いないが、表現として開かれているからまず漫画として楽しめる。それは、自身もマックユーザーらしい(機種はクアドラ800のようだ。気の毒に)作者の、自分に対してさえも情け容赦しない健康なツッコミ精神ゆえだ。マックユーザーにありがちな鼻持ちならない独善や昨今巷に氾濫する過剰な電脳幻想など、ここでは全て茶化され、笑い飛ばされるネタでしかない。なんだかんだ言っても現実のコンピューターなんて今のところエッチなCD−ROMに胸ときめかせ、インターネットで金髪女性の陰部を眺め、スキャナーで取り込んだアイドルのグラビアの首から上をAV女優のグラマーな身体にすげかえて喜び、無責任なメーカーの次々と繰り出す新製品をぶつくさ言いながらも買い続けるしかない、そんな情けない道具じゃないの、という認識の明快さ。そして、読み進むうちに読み手の側にそこはかとなく宿ってくる、そんな情けない機械にここまで振り回されてるわれわれもほんとに情けないよね、という「トホホ」感覚こそが命だ。

  これまでの漫画の技法そのものも情け容赦なくパロディにされている。田村信から川崎ゆきお横山まさみち日野日出志林静一やなせたかしに、果ては飯沢匡の『ブーフーウー』(これは実に抱腹絶倒モン)までが俎板に上げられ、ギャグのため存分に料理される。これは「模写」という手法を武器に、漫画の描線や背景、コマ割りなど、これまでほとんど言語化して論じられてこなかった具体的な技法の問題に斬り込み始めた近年の夏目房之介竹熊健太郎の仕事にも通じる力量だ。中でも、少し前まで朝日新聞の夕刊に連載され、おそらくわが国の新聞四コマ漫画史上これほど愚劣な作品はなかっただろう『サミット学園』のパロディなどは、完璧に本家を呑み込んでしまってどちらがオリジナルか判断のつきかねるほどの凄味がある。具体的な技法を伴った健康なツッコミ精神というのは、いかに装いや舞台装置が間抜けなものであっても、表現そのものが最もヤバい批判力を持っていたりするのだ。

 漫画にとどまらず、SFや落語やさまざまなお笑い芸や、その他文芸批評や現代思想などまで含めた何でもありの雑学的な情報蓄積を背景に縦横に芸を繰り出してゆくこういうマニアックな、ある意味では“おたく”的な手口は、古くはみなもと太郎あたりから、その後はいしかわじゅんとり・みきなどの描き手に受け継がれてきている。その意味では、大量生産大量消費のメジャー娯楽商品としての側面とは少しずれた、言葉本来の意味でのサブカルチュアとしての漫画の伝統の中に位置づけられる芸風だと思う。活字の文学ではかつての筒井康隆や最近の清水義範などの知的なエンターテインメントに、似たような“匂い”があるかも知れない。もちろん、それらは決して万人向けのものではなく「読み手を選ぶ」性格を持つテキストであることは否定できないのだが、しかしその一方で、今やそうやって選ばれるべき読み手がすでに相当な広がりを持って存在してしまっている現状もあるらしいから、今のこの日本の高度大衆社会はけったいで面白い。敢えて大風呂敷を広げれば、これはかつて江戸の町人たちが寄席の講談や落語を聴いて蓄積していった教養を前提にパロディを展開した戯作の文化にも通じる、広義の大衆社会状況においてこそ初めて宿り得る本質的で強靱な批判力の気配を、僕はひしひしと感じている。