田口ランディ@万引きババア、に「殺された」ライターがいた――その名は塚原尚人、そいつのことを少し話したい

 そもそも、であります。

 なんであたしがこの万引きババアにこんなにひっかかてるか、ってえと、まず、どうしてこんなデンパ系キチガイ物書きをここまで右へならえでみんなヨイショしちまってるのか、という、しごく素朴な疑問がひとつ。だって、さすがに最近は多少風向きも変わってきましたが、思えばフシギでしたよお、ついこの間までの田口まんせ〜状態ってのは。

「え〜、田口ランディ、一応は直木賞候補作家にして、婦人公論文芸賞受賞作家(笑)でもあらせられます。あらせられますが、しかし、これほど昨今、書いたもの自体はもとより、書き手そのものの世渡りの身じまいまでがまるごと物議を醸し倒してる作家ってのも珍しい。しかも、それだけ物議を醸していながら、その物議ってやつが活字の表舞台ではものの見事になかったことにされている(少なくとも今のところは)、というのも、実にいまどきのプチ芸能界化した活字商売の構造をきれいに反映していて二度おいしいな、と。
 

 だって、「インターネットの女王」なんて煽り文句と共に出てきて、当初はご祝儀相場ってことだったのか、千成り瓢箪ならぬ千成り提灯つけまくるヨイショ書評がこれでもかと並んでましたもん。それも村上龍を始めとして、中条省平だの安原顕だの芹沢俊介だの川本三郎だの、ブンガク系書評界隈のお歴々がみんなバンバンほめてるもんで、あたしなんかも最初は「へえ、そんなにすごいんかいな」と素直に思ってましたがな。


 ところがあなた、いざ手に取って読んだみたらこれが実に……な代物。読み手の好き好きとかそういうモンダイじゃない。こんなあなた、どこからどう読んでも粗製濫造、八〇年代ニューサイエンス系自意識肥大全開垂れ流しな、超特大勘違いジャンク物件を、なんでそんなに右ならえで持ち上げられるのよ、という世にもフシギな現象面コミでのオドロキでありました。案の定、その後は水面下で、それはそれは、なハナシ(オモシロ過ぎるんで詳細略)が山ほど噴き出して、提灯つけた書評界隈のエラいさんたちはほぼ全員即死状態。なのに、誰もケツ拭こうとしないんだもん。いやあ、名のあるシトたちってやっぱりすごいわ。」
 (『本の雑誌』1月号 「書評スイカ割り/ランディ被害の一年」)

 このへん、キチガイの存在自体もさることながら、そのキチガイをかつぎまわって商売しようとするこのへんのブンガクまわり、いまどきのある種の出版界隈をめぐる摩訶不思議な構造自体がモンダイだ、ということは、あたしゃこれまでもずっと一貫しております。百万歩譲って、キチガイってのはビョーキだからしょうがない、とあきらめるにしても、そのキチガイを甘やかせたまんま呑気な世間サマに迷惑をかけるような手合いは、キチガイ扱う商売人、まともじゃない産業廃棄物件に関わってオマンマ食うしかないろくでなしのクロウト連として、こりゃその風上にも置けねえ、と。

 と同時にもうひとつ、白状すれば、いくらかは個人的な事情というやつもあったりする。 そう、この万引きババア、塚原尚人という若いライターを死に追いやった一件と、からんでやがるのでありますよ。



▼▽塚原尚人とあたしの関わりについて……▽▼

 というのも……いいや、もう言ったっていいだろう、あたしゃこの塚原とは知り合いでありましてね。

 一昨年の秋、奴がほとんど自殺みたいな形でくたばるその前の夏、どうも最近やっこさん煮詰まってて精神状態がやばそうだ、ってんで奴の中野のアパートまで出向いて直談判、部屋から引っ張り出してみたら眼が完璧にテンパってたから、あかん、こりゃもう首根っこおさえて病院に放り込むしかないわ、と判断、実はこう見えてもあたしゃ学生時代から都合七年半、キチガイ病院の補助看護士やってたもんで――こんなもん全然自慢にゃならないけど、たからキチガイはかな〜り数見てますぜ、それもあなた、いまどき珍しいような閉鎖病棟で。おかげで、街歩いていても顔つきとかたたずまい一発で、あ、こいつヤバい、ってのは結構わかったりします――その関係で知り合いの病院たどってあいたベッドを探し、そうしたらその間、野郎ときたら生意気にリスカの真似事なんかしやがったんで、夜の夜中に警察沙汰(野田敬生センセもおなじみの某野方署でしたな)になってその後始末に走り回ったり、いやもう、それはそれはすったもんだした経緯があったんでありますよ。

 塚原ってのは当時、まだ二十代半ば、『別冊宝島』なんかで一緒に仕事をしたりもした年下の仕事仲間、てなところでありました。

 東海地方の生まれで、高校時代から『別冊宝島』の200番台(一番勢いあった頃ですな)を愛読していたとかで、呉智英夫子やその自称高弟であたしの大学時代の級友でもあった浅羽通明とか、はたまたあたしごときの書いたものまでマメに読み込んでいて、まあ、資質としては80年代的な「知のおたく」(by浅羽通明)の、まだしも良質な部分って感じでした。大学を中退してもの書き志してる、って言ってて、どうやって食ってるかと思えば、エロ小説を書き飛ばして稼いでたような次第。それでも、フランス書院から単行本を何冊も出したりで、まあ、そういうところで一本立ちのもの書きとしてのプライドは、若いながらも持っていた奴でしたわ。

 で、そういう奴が、なんでそこまで煮詰まっちまってたのか、ってのを後でいろいろまわりに聞いてみると、個人的な事情がベースになっていたのは当たり前としても、それ以外に、出入りしていたニフティの会議室で田口ランディというババアにケンカを売ってたこと、そこでババアの取り巻きに相当にいや〜な仕打ちをうけて、それが心身共に調子を崩してゆくひとつの引き金になっていた、ってことがわかってきた。



▼▽FWRITE時代の万引き田口とその信者たち▽▼

 すでに知られてきているように、ニフティサーブのFWRITEというのが、田口がシスオペやって独裁体制を引いていた、「あたしゃなんでもできる女王サマよ、おほほほほ」という勘違いを発酵・増幅させていった場所なわけであります。早いハナシが、田口を教祖とするプチカルト集団みたいなものだったようですな。

 これがどういうシロモノだったか、ってえと、つまりは電脳空間でのレンタルスペース。シスオペと呼ばれる企画者&主催者がニフティに企画を提出して、20くらいの会議室を設置したのがフォーラム、田口の仕切っていたFWRITEは、その中のFBOOKというフォーラムのサブ・フォーラムだった、ということのようです。

 ところが、それが膨れ上がっていって容量その他のモンダイなども出てきて分家が必要になり、FBOOK全体の総括者からFWRITEをまかされたのが田口だった、と。シスオペとしては、だから、田口は五代目だか六代目だったようですな。そしたらそこが、どんどんプチカルトになってった、と。

 このへんの事情をよく知ってて、レクチュアしてくれたシトのひとりによれば、「まあ、主婦とかにありがちな自己表現欲求だの自己実現欲求だのを抱えた、『あたし』を主語にしないと文章を書けないような人種が寄り集まってましたね。金井美恵子の『文章教室』って小説に、文章教室にかよう頭の悪い主婦が主役で登場しますけど、ああいう手合いがひと山いくらでいる感じ。男だとニューエイジ入ったタイプが多かったように覚えてます」なんだそうで、ああああ、もう何をか言わんや……(泣)。

 田口の仕切っていた会議室の当時の雰囲気については、こんな証言もあります。こちらはまだ、田口と距離を置こうとしているシトですが。

 当時の会議室は、参加者の服をどんどんぬがそうとする実験室でもあったのでした。基本的に「創作禁止」だったしね。素人の創作ほどつまんないもんはない、ってのが彼女の持論でしたから。危険といえば、野外露出教唆に伴うような危険は確かにあるかもしれない。それから、大道芸でいうと「あなたの好きな形にしてください」っていう、あれにも似てるかもしれない。レスをつける人たちは、彼女に対していかにアクロバティックな格好を振り付けするかを競ってたようなところもあったように思います。(某氏の発言 ログより)

 うう〜む、「野外露出教唆」かあ。わかりやすいなあ、この証言。

 そんな田口におのれの体験を吸い出されるような「ワタシ」語りを煽られまくって瞳孔の開いちまった気色の悪いプチキチガイが増殖してゆき、本来の隔離収容所であるFWRITE以外にもぼちぼち環境汚染を始めていたらしく、そういう田口まんせ〜の信者vs.ありゃキチガイでしょ、のまっとうなアンチ派との小競り合いが周辺でも起こってきていたようであります。

 たとえば、こんなの。一見「プロ」のライターという立場をとってますけど、まあ、典型的な信者の信仰告白ですな。

 おれはランディの文章を読むと、けっこう深い敗北感に陥るのよな。もとより文章力では勝負にならんのだけど、彼女の観察眼にはさ、何度も「負けた」と思ってしまう。最近では、ほん・まるに収録された短編のなかで、「そうまで完璧に避妊されると、なんだか傷ついてしまう」なんて文がサラリと述べてあったんだが、これなんかも「負けた」と思ってしまったな。おれが感じるランディのパワーってね、すごく醒めた部分・他人を突き放した部分にこそあるんだね。そのあたりがお仲間主義の笠原軍団との決定的な違いだな。「醒めた」っつーか、シラケというのは、新人類世代と団塊世代の中間に位置するわしら「谷間の世代」のキーワード的なもんだね。そういう世代論にのみ還元できることではないと思うが。(某アホの発言 ログより)

 もうアホか、馬鹿か、と……。

 このアホなカキコをやらかしたのは、田口をニフに引きずり込んだ張本人のひとり。いきなり実名さらすのは今日のところはまだカンベンしといてやるが、去年あたりからはいけしゃあしゃあと某四流大学のセン公におさまってらっしゃることはさらしておこう(笑)。ああ、東大出たってだけで、田口まんせ〜なゆるい脳味噌でもセンセやってられるのね、そういう大学って。まあ、あたしだってやってたんだからそんなもんか。

 ちなみにこの、笠原軍団、ってのは、「かさたん」こと笠原真澄とその信者ね。こいつもニフ周辺から湧き出たゴミで、そう言えば、なに間違ったのか田口にヘンな賞くれてやった『婦人公論』なんかでも書いてたよなあ。どうして最近、こういうゴミ物件ばっかり厚かましく横行するようになってるんでしょうねえ。



▼▽塚原、田口まんせ〜、の信者どもに正面からアヤつける!▽▼

 で、塚原はそんな当時の小競り合いのひとつに、果敢に首を突っ込んでた、と。

 ランディまんせ〜、になって舞い上がったカキコを繰り返す信者方面に、おいおい、偉そうに言ったってランディってのはどう見ても単なるデンパだろ、あいつが書くぐらいのものならばオレだってほれ、こうやってちょちょいのちょいでそれっぽく書けるんだよ、てな調子で、持ち前の才気で、まさにランディ調のうすっぺらいデンパ文章をでっちあげて挑発したらしく、また事実、そのログをあたしとそのまわりにメイルで送ってきたりもしていた。無自覚なバカと厚かましキチガイがキライな奴のこと、よっぽど腹にすえかねていたんだろう、ということはよくわかる。こんな具合に、だ。

00298/00306 STF00080 塚原 尚人 RE^7:
99/06/26 12:37 00296へのコメント コメント数:2


 ものすごく率直に言うけど、おれはランディさんの凄さってのがさっぱりわからない。なんであんなに心酔者がいるんだろう? っていつも不思議に思う。パワーがあるっていうのはなんとなくわかるんだけど、そのパワーってなんか笠原軍団のパワーに似ている気がして、どうも嫌悪感を催すするんだよな。気持ち悪いっていうか。


 だいたい、編集者を自分のファンにしてどうするんだろ。編集者って、書き手のことをクールな視点で眺めててくれなくちゃ困るじゃん。書き手に惚れ込むのはアリだろうけど、編集者が書き手に対していい意味での批判的な視点を見失ったら終わりだと思うな。そんなの編集者やめたほうがいいとすら思う。ただの一読者と違うんだから、編集者は。


 ランディさんの本、立ち読みしたことあるんだけど、どーにもこーにもつまらんと思ったのは、そのあたりに原因があるのかなあ。文章下手だとは思わないんだけど、書いてることはなんかニューエイジくさいし、やってることは今時珍しいくらいに恥ずかしげもなく80年代してるし。おまけに、周りにいるのはファンや心酔者ばかりでしょ。あれじゃいつかダメになると思うんだけどねえ。って、余計なお世話か。


 とにかく、おれがあの人とは絶対に相容れないことだけは確かだな。これまでの経験からしても(笑)。                          
(塚原尚人の発言 ログより)

 このあたりのログ、どこから手に入れたか、って言いますと、うほほほほほ、あたしゃこう見えても民俗学者でありますからして、何かの時のために巫女や拝み屋、妖術師に陰陽師の五匹や十匹、自前で飼っておりますがな、

 だもんで、そいつらの一匹に因果を含めてちょちょいと頼めば何のその、あの世の塚原呼び出してめでたく配信してもらったものなんでありますよ。まあ、かの万引きババアを「さん」づけで呼んでいるのが気に入らないにせよ、それでも、当時の田口に信者がまつわり寄ってくる秘密を、「ランディ・マジック」(笑)と称して解析しようとしてみせるあたりなどは、今読んでもなかなか読みごたえがある。頑張ってるのだ、ほんと。

 試しに、おれがどうしてランディさんをスゴイと思わないのか、実際のランディさんのテキストに沿って解説してみようか。てきすとくりてぃーく!(笑)


 ……とその前に、ランディさんのことをスゴイと思っている人が本当にいるのかという疑問に答えるために、一つ引用しておきましょう。

》 今、世界で最も尊敬する人を3人挙げろ、と言われたら、即座に僕》はジェームス・ラブロック、河合隼雄田口ランディーと躊躇なく答え》ます。そのくらい尊敬してます。たんなる主観的意見ではあります》が、最近、最も刺激的かつ示唆に富んだ読み物を僕に提供してくれ》たのが、この3人という事なのです。          (FWRITE MES(11) #167 *****さんの発言)

 ははあ、それほどランディさんはスゴイんですか(笑)。 てな話はさておき、ランディさんのテキスト。

》 人間の魂の本質は「ひかり」なのだそうだ。
》 本当かどうか私は知らないけど、チベット密教もそう言っているし、
アボリジニもそんなことを言っているし、その他多くの有象無象の宗
》教やらニューエイジやらの人々も似たような事を言っている。
(FWRITE MES(4)《田口ランディのスカートの中の秘密の生活》 #141)

 この後でランディさんは、

》深い意味はないけど、わたしはひかりなんだと思うと気持ちがいい。

 なんて書いてるんだけど、やっぱりただのニューエイジじゃん、という感想を持たざるをえない。「人間の魂は『ひかり』だ」という洞察など、別に目新しくも何ともない。陳腐で凡庸なだけ。切り口としても視点としてもちっとも斬新でなければ面白くもない。いったいこれのどこが「凄い」というのか?どこがどう「直感的説得力」に優れてるというのか?

 もう一つ、ランディさんを発言を引用してみよう。これは神戸の小学生連続殺人事件について書かれた文章の中からの引用。

》よくマスコミで議論になるテーマがある。
》「なぜ援助交際してはいけないの?」
》という高校生の問いかけに、明快な答えを大人はもっているか。
》「なぜ殺人はいけないんだ?いけないならなぜ戦争するの?」
》という小学生の問いかけに、明快な答えを大人はもっているか。
》日本の社会がはっきりとこれらの問いに答えられないことが問題な
》のではないかと。
ユング心理学者の河合隼雄氏がこれらの問いにさらりとこう答えた。
》「なぜいけないのか。それは魂によくないからだ」
》魂という言葉を出されて、私は「はっ」とした。
       (FWRITE MES(4) 書き言葉のシェルパ(ランディ) #863)

「なぜ援助交際してはいけないの?」という問いに対して「それは魂によくないからだ」と答えたのに「はっ」としてしまう神経、その感覚。これがおれには理解できない。いや、正確に言うなら、理解できないわけではない。こんな陳腐で凡庸でトンチンカンなことを言う人を「凄い」だの「直感力に優れてる」だのと崇め奉る人の神経が理解できない。お前ら、正気かよ、とすら思う。

 元の河合隼雄の発言は、以下の通り。

援助交際は、心にも体にも悪くないが、たましいを著しく傷つける」
                           (『世界』97年3月号)

 では、トンチンカンでない発言もお見せしよう。この河合隼雄の発言について、評論家の小浜逸郎はこう書いている。

「「なぜ援助交際をしてはいけないのか」──こうした問いそれ自体の的確さが疑われないために、たとえば河合隼雄のように、「援助交際は、心にも体にも悪くないが、たましいを著しく傷つける」(『世界』97年3月号)などという苦しまぎれの珍説がひき出されてくる。ナルホドと大向こうをうならせたかもしれないが、これには正直言って
笑わされる。実体だかそうでないのか定かならぬ「たましい」なる神秘的な存在が私のたちの深層にあって、それが「心」や「体」を深く規定づけているのならば、「心にも体にも悪くない」はずがないではないか」
別冊宝島『超コギャル読本』収録「「コギャル・ブルセラ援助交際」論を読む」)

 「たましいを著しく傷つける」に「はっ」とする輩など、この小浜の論の前では形無しだろう。少なくとも、おれはそう思う。「はっ」とするなら、おれはこの小浜の的確な指摘のほうに「はっ」としたい。「たましいを著しく傷つける」に「はっ」とする輩よりも、おれは小浜の直感力のほうを信頼する。切り口も着眼点も直感力も小浜のほう
が断然「凄い」。こう感じるのが普通というものではないのか? こう感じるのが真っ当な感覚というものではないのか? たましいを著しく傷つける」に「はっ」とする輩の、いったいどこがどう「凄い」というのか。どこがどう「直感的説得力」に優れてるというのか。どこがどう「物語る」能力に優れてるというのか。誰か説明してくれ。

 余談だけど、このランディさんの発言を探すためにFWRITEの全会議室に対して「魂」で検索をかけたところ、うんざりするくらいの数のヒットがあった。どうやらFWRITEの人はよほど「魂」好きと見える。やれやれ。みんなスピリチュアルなのねえ。ああ、仕事しよっと。  (塚原尚人の発言 ログより)

▼▽塚原尚人は「ランディ・マジック」(笑)を解析していた!▽▼つまり、それって万引きや詐欺の手口の病理解剖手術なんだけど▽▼

 このへんの「ランディ・マジック」解析、言い換えれば、万引きババアの犯罪手口の病理解剖手術は、全部紹介するとめっちゃ長くてかったるいやりとりになるんで、要点だけを思いっきりはしょって言えば――

「なんと言えばいいのかな」
「なぜか」
「うまく言えないけど」
「なんだか」
「妙に」
「なんとなく」
「なんだかよくわからないけど」
「なんかこう」
「もしかしたら」

……てないい回しを多用することで、読み手が勝手な思い込みや妄想や勘違いを仮託しやすいハッタリを作り出す、ってこってすな。つまり、田口のスカなつづり方は、そのスカさ加減のゆえに、ココロにスキのあるシトたちが読めば、そのココロのスキのありように従っておのれの願望をそのまま「読み取る」ためのツールになっちまう、と。

 まあ、塚原自身は、80年代ニューアカ小僧だった(その後大反省して転向)出自もあるんで、「シニフィエの希薄化により文章全体の意味を浮遊させ、それとはわからないように読み手にシニフィエの代入を強制させることによって読み手を共感させるというお馴染みのランディ・マジック」なあんて、青臭くもしちめんどくさいこと言ってるんだけどさ(笑)。でもさあ、あんたの次のような指摘は、塚原よぉ、死んじまった奴に言ってもしょうがないんだけど、今、こういう状況になってくると、ほんっとにシャレにならないよなあ……

 ランディさんは「私は自分の信者を増やすために書いている」というようなことを言ったと聞いたことがある。記憶が曖昧なので、あまりいい加減なことは言えないが、これは怖い。さらに、#375で詳述したようなランディ・マジックを意識的に駆使しているとしたら、さらに怖い。今のところ、結論が無害で凡庸なものなので問題はないと思うが(にしても、ニューエイジっぽいのはマズイんじゃないかと思う)、ここに反社会的な結論や、政治的アジテーションを持ってきたらどうなることだろう。一種の麻原のようになってしまうのではないかと想像する。それでなくとも、ランディさんの文章技術は、読者がランディさんにアイデンティティを預けるために使われている、つまりは自身のカリスマを演出するために使われていると言ってもいいのだから。

 聞いたところによると、今度、ランディさんは小説を出版するという。どんな内容なのかは知らない。しかし、これがランディ・マジックがどこまで通用するかの試金石となることは間違いないだろう。そしてそれが売れるかどうかによって、「魂」「光」「癒し」といったソフトな装いを纏った胡散臭いもの言いに対する日本人の免疫がどの程度あるのかもわかることだろう。(塚原尚人の発言 ログより)

 この後、このあたりの信者と塚原(および、その他何人かはいたまっとうなシトたち)とのやりとりが田口の眼に触れることになり、それがきっかけで田口はFWRITEを辞める、と言い出すことになったらしい。その際、フォーラムのスタッフ会議室で、田口と塚原との間に少しばかりやりとりがあったようだが、そこでは特にいざこざはなかったようだ。

 「時間的には、この一件のせい(ということになっている)でニフを辞める(99年末)→幻冬舎から「コンセント」を出す(00年6月)で、幻冬舎から本を出す話はすでにまとまっていたはず。ということは、ニフとニフにいる信者との腐れ縁を切るのに、このパティオの件が利用されたんではないかという気がしないでもないです」(ある関係者)

 ふむ、信者を集めてプチカルトこさえて、メルマガ十万部(しかしこの数字、どこまで実体だったんだか)のハッタリひっさげて版元騙しがほぼ完成、だからもうニフはいらないわ、てなことだったんだろうな、おそらく。



▼▽塚原クンったら、あたしのこと好きだったのね……だとおぉぉぉ??!▽▼

 それをだ。そんな塚原が睡眠薬だの精神薬だのを山ほどかっくらって、ほとんど自殺みたいな形で死んでまったのを人から聞いたこのオバハン、果たして何とぬかしてたのかというとあなた、「塚原クンがあんなにあたしにつっかかってきてたのって、きっとあたしのことを好きだったからなのだ。だからあんなに悪態をついていたんだ。ああ、あたしってやっぱり愛されてたのね」(大意&勝手に要約)なんてことを、いけしゃあしゃあと書き飛ばしてやがった。

 去年の夏、2ちゃんねるの一般書籍板にどこかの無名子が、例によって義憤にかられんでしょうな、敢えて紹介してくれたこのログを見て、さすがにあたしゃ、プチッと切れたね。安全ピン抜けましたね。許さん、と。

12月14日(木)

*わたしを/そっと/しておいて

(略)
 今朝、メールをチェックしたら「塚原さんが亡くなりました」というメールが来ていた。びっくりした。まだ27歳だった。塚原さんは私がニフティのフォーラムを辞める直接的なきっかけを作った人だ。ちょうど1年前の去年の12月、私はパソコン通信のクローズドの会議室で、彼が私の文章を「この文章はレトリックさえ把握すれば誰でも書ける」と言って、真似して書いてみせたというのを聞いた。
(略)
 その塚原さんが亡くなったっていう。なんだよなんだよ、あんなに生意気なこと言ってたくせになんで死ぬんだよ、って思った。それからふと、もしかして塚原さんって、私の文章がけっこう好きだったのかもしれない、と思った。気になるから突っかかって来たんじゃないのか。そうでなければ無視するハズだ。突っかかり方が小憎らしいので、私は遊びで売られた喧嘩を買ったのだ。
(略)
 中学生の頃、そういう男の子がクラスに居たな。なんか私にケチばっかりつける奴。でも、2人っきりになるとけっこう中が良かったりするんだ。
(略)
 塚原さんは、ネットの中で発言するときは強烈な攻撃的自己主張をする人だった。それもまた何か不自然なほどだった。彼は実はネットの人間関係がものすごく嫌いだったんじゃないかな、って思う時があった。感受性の強い人だった。嫌いなのに、そこに存在する。否、嫌うためにそこに存在する。人はそういうことをするのだ。それが依存の究極の形だと思う。

http://www.chikumashobo.co.jp/web/taguchi/t001214.html
(↑現在、リンクは切られてるようです……筆者註)

 だから塚原よ、言わんこっちゃねえ、ついうっかりくたばっちまったばっかりに、おまえはこういうキチガイに「ああ、あなたもホントはアタシのことを好きだったのねえ」と、勝手にうっとりされて、あまつさえ「究極の依存の形」とまでバカにされなきゃならない羽目になっちまうだろうが。

 ああああ、こういう時こそオトーサンは言うよ、ちんちんが音を立ててちぎれるほど、悲しくて辛くて情けないぜ!

 こういう類いのキチガイおよびキチガイの取り巻きのなれあい風呂のゆるゆるがおまえはどうにも許せず、向こう意気一発でアホな正面戦やってた、と。やってそれで、ただでさえ身辺にいろいろあったおのれの精神状態までバランス崩しちまって、とうとう最期は自爆しちまった、と。なのに、その当の相手はこんなにもいけずうずうしい、死人を鼻先でせせら笑うようなことぬかして、なおかつ、見城徹だの松田なんたらだのの出版業界のハイエナオヤジたちのかつぐ破れ神輿にそのまんま祭り上げられて作家よ、文化人よ、有名人よ、さあ、妬みなさい、そねみなさい、と小汚い鼻の穴ふくらませてブヒブヒ言ってやがる、と。湯河原のプール付きの豪邸とやらで取り巻きの自称作家志望のバブル高偏差値バカの阿川大樹とかってのを呼び寄せて仲良くピンクシャンパンか、糸井@コピー乞食に誘われて関わったインパクではこの不景気に血税かっぱらって低脳丸出しな海外取材旅行か、と。なんでカンボジアでとっとと地雷踏んで吹っ飛んじまわなかったんだ、このヴォケが!

 こりゃあね、やっぱり、何とかせんといかんな、と。

 はっきり言えばね、半ば自殺みたいな形でくたばっちまったのはこりゃ塚原自身のモンダイで、どう理屈つけても生きててなんぼ、死んだ方がひとまず負け、ってのはあたしにはあります。第一、生きていてくれりゃあこの塚原、いまどきこのところの反田口キチガイ闘争(笑)でも、もんのすごく頼りになる友軍になっててくれたはずなのに……と、あたしゃそのへんじゃかなり怒ってたりもするのだよ、おい塚原! でもな、あの万引きデンパババアだけは、このまんま許すわけにはいかねえ。

 フランス書院ペンネームのエロ小説書き飛ばし、またそれが『週刊朝日』だかで高橋源一郎に絶賛されるくらいのいいデキで、いずれビンボにあえぐ同世代の若いもの書き仲間に、「ボクは、こう見えても一冊書けば百万円くらい、印税が入るんです」とうそぶきながら、それでも、こっちが手伝って欲しいと回した『別冊宝島』の原稿用紙一枚5,000円のやたら手のかかるルポや評論仕事を、「こういうのがほんとはやりたいんです」と嬉々としてやらかしていた、そんな塚原だってこのままじゃ成仏でけんだろう、と。このままこの万引きババアほったらかしちゃあ、お天道サマに申し訳ない。いくら蛆虫化したとはいえ、これでも活字に信心ある身のはしくれ、こんな外道をのうのうとのさばらせといちゃあ、こっぱずかしくってもの書きですなんてツラ、とてもこの先できゃしないってもんですわ。

 てなわけで、うぉ〜い、同じように以前から田口はパチモンだ、キチガイだと言い張っていた数少ない同志の山形浩生斉藤美奈子〜、別にこちとら蛆虫と手を組めとは言わんから、そっちはそっちできっちりあのキチガイを追い込んでくれ〜い。

ただ、おれと「人間観」が合わないってのは確かでしょう。どっちがより正しいか、どっちがより真っ当か、どっちより普遍性を持つかは、いずれ時代が証明してくれるとおれは信じてますよ(笑)。(塚原尚人の発言 ログより)