いまさら言うのも気が引けるくらい当たり前の認識になりつつあるけれども、昨今、文科系は、ほんとにグダグダ。何の信頼も得られないものになっている。とりわけ「批評」「評論」系の言説が顕著。コメンテーター以上の敬意はまず払われなくなっている。
自業自得ではある。まず、眼前の事実、〈いま・ここ〉の現実を穏当にことばにしてゆくことができない。いや、これは贔屓めに見ても「戦後」このかた、ニッポンの人文/社会科学におおむね共有されている病いであり、もっと言えば、明治維新このかたのガクモン状況そのものに骨がらみになっている習い性、何も昨日今日始まったことでもない。要は、ことばにしようという気概すらなくなっている、それがあからさまなブツがメディアの舞台をヘラヘラ歩き回っている、そんな現在自体がまず信用されていないのだ。
知性とは、ひとまず愛嬌である。少なくとも、世のため人のため、てなでっかい能書きを嘘でもにっこり笑って口にしてみせることができる、そんな種類の人の良さ、まさに愛嬌が最低限、必要である。
でないと、どうなるか。ただでさえ、日々を生きる世間サマから見りゃ何の役に立つかわからないよしなしごとをゴソゴソ考えたりいじくったりしている手合いのこと、わざわざ耳傾けてもらうことなどできないまま。とりわけ、基本的に口舌の徒、「文弱」の典型と見られ、と言って日々の暮らしで具体的な「用」を見せつけることもしにくい文科系ならなおのこと。好きな仕事ができりゃそれでよし、というのは一見わかりやすいが、しかし、それを言う当人が世間サマから見て不人情丸出し、「公」に身体張る覚悟もなく、人としてまず信を得られぬような人格ありありなら、その仕事についての評価も当然それに見合ったリスクを負うことになる。世の中ってのは今も昔も、まずはそんなもん、だ。
内輪の学界、なれあう業界だけのことならいざ知らず、多少は外へと眼を向けて、同時代の世間に何か伝えるべきものがあると信じ、事実そうしようとするなら、そんな配慮や自省もまた当然あるべき。まして、昨今のように情報環境が激変、ネットを介して誰もがうっかり専門家と同じ水準でものを読み/書きすることが可能になった状況では、われこそはインテリ/知識人、衆愚からどう見られているかなど関係なし、ひたすら文庫にこもり、机に向って仕事をするが使命、などと唯我独尊におさまっていられる状況ではとっくになくなっている。少なくとも、普通のカタギの神経を持ち、恥を知っているならば。
活字で“だけ”世間と対峙できていれた頃ならまだしも、今のようなメディア状況では書かれた活字の背後の人となりまでが良くも悪くも察知されてしまう、そんな環境になっている。それが等身大の生身とズレていようがいまいが知ったこっちゃない。まさに「キャラ」としてメディアの舞台を流通しているおのれと合わせ技で、おのが活字や発言も読まれ、受け取られてしまう現在。そんな情報環境を生きているということについて自覚できないままのインテリ/知識人沙汰など、世間から一顧だにされなくなるのは理の当然。
というわけで、今や従来の自意識のまんまのインテリ/知識人ぶりを制御できない文科系物件は、何を書こうが言おうが世間サマにまともにとりあってもらえない。消費者である読み手との関係性を考慮した商品生産ができない生産者は市場から退場せざるを得なくなる、というミもフタもない経済原則。その程度にインテリ/知識人市場にもまた、「構造改革」(笑)が押し寄せてきたのだからして。
紙幅も限られている。まずは論より証拠、いまどきそれなりの名前で流通している文科系文化人の標本をざっと陳列してみるから、虚心坦懐にお目通しあれ。
大塚英志。1958年(昭和33年)生まれ。東京都下の田無の生まれ。高校は都立のどこかだろうが、そこから筑波の人文へ。民俗学専攻で「自称」宮田登の弟子(笑)。卒業後、「本当は大学院に残れるはずだったのがエロ漫画誌の編集者に」という自家製“伝説”が、いかにもその時代。インテリ/知識人コンプレックス顕著で、鶴見俊輔から吉本隆明まで庇護者を求めて右往左往、一時は「戦後民主主義の擁護」を掲げて一瞬、サヨク/リベラル界隈公認になりかかったが賞味期限は短かった。それでも漫画原作者として居場所は確保して安定したのか、近年は本業でそれなりの成果を積んではいるらしい。
宮台真司。1959年(昭和34年)生まれ。キリンビールの転勤族の息子にして、中高はこれまた中高一貫、古くからトーキョーの遊び人の巣窟として有名なボンボン進学校の麻布学園。東大から社会学で大学院へ、とこれは王道。在学中からフィールドワーク(笑)にいそしんで「テレクラ1000人斬り」(自称)を研究の名の下に達成、「東大」と「テレクラ」の意外なコンボで一躍、勇名を馳せるが、このテの底上げ具合からしてなんともはや、時代の刻印。以後、状況に応じて場当たりに発言、言挙げを繰り返し、元いた場所も見失った迷走状態。その「恥ずかしさ」は現在、ほぼ天下御免の公認済み。
福田和也。1960年(昭和35年)生まれ。東京は田端の製麺屋の息子。業界大手の大会社だそうだが、下町育ちのボンボンというこの出自はひとまず評価していい(笑)。が、身のほど知らずに慶応塾高へ。背伸びしたおフランス留学で近代ブンガク系お定まりの大屈折、以後一念発起で「保守」キャラを立てて江藤淳の後ろ盾で文壇/論壇へ殴り込み、「パンク保守」を標榜しつつ相手を選んで凄んで回ってめでたく市場制覇(自分でそう言っているそうだから間違いない)。骨董、ワイン、音楽その他、小林秀雄以来の「よろずもの言い」なブンガク系高踏セレブなインテリ/知識人を懸命に「演じている」、ということになっている。このへんの「わかってやっている」キャラがまた、時代の申し子。一応「無頼」キャラもまだ握って放していないらしい。
小熊英二。1962年(昭和37年)生まれ。こやつも都下三多摩の昭島出身。でもって東大から岩波書店へ。編集者やりながらインテリ/編集者自意識持て余していたのは当時ありがちなパターンだが、その屈折の甲斐あって電話帳みたいな無駄に分厚い『民主と憂国』に結実。それを掲げて見事、慶応SFCのセンセに成り上がったのは、これまた時代ならではのサクセスストーリー(笑)。だからこそ、いまどきどうよ、というくらいサヨク/リベラル方向に偏った、あのキャラ設定になっているのも無理はない。
宮崎哲弥。1962年(昭和37年)生まれ。中高時代はかなり屈折してたようだけれども、そのコンプレックスの分だろう、結局は早稲田から再受験して慶応へ、てな具合に健気に学歴ロンダにいそしむ。「十年にひとりの逸材」(by西部邁)のキャッチコピーで「保守」キャラで論壇デヴューも、その後右に左にスラローム、結局、テレビやラジオのコメンテーター文化人として勝谷誠彦とセットで語られる位置に落ち着く。もちろん、「登校拒否児で無頼な高校生活」「資本論は中学時代に読破」「天皇陛下以外なら誰でも会える」「オレは売れっ子CMタレントだぞ」といった素敵な“伝説”は佃煮にするほど転がっている。
勝谷誠彦。1960年(昭和35年)生まれ。実家は開業医で中高も何とか灘にもぐりこんでるのに(!)早稲田にしか入れず、ましてや少女マンガに血道をあげちまうような自分を隠すこともないくらい馬鹿正直というか内面シラカバ派だった分、文藝春秋なんぞに入ってきれいに屈折。おそらくブンガク(それも直木賞系らしい)にまだ信心があったからか、独立してもの書き兼(自称)カメラマンで世渡りし、吉本興業所属のコメンテーター芸人文化人の椅子をめでたくゲット。
東浩紀。1971年(昭和46年)生まれ。東京は三鷹の出。筑駒から東大文一、大学院と、これも首都圏私立中高一貫校偏差値勝者の王道。90年代初め、「法政で講義していた柄谷行人に自ら原稿を渡して認められた」という、いかにもな“伝説”がここでもまた、だが、世代的に一周遅れの劣化コピーの感は否めず、「東大以外は就職しない」宣言などなかなかいい“伝説”もあったものの、結局は年上の「恥ずかしい」文科系の十把ひとくくりにめでたくおさまっているのが情けない。
……きりがないので以下略、ということで、さて、何か共通する“匂い”を感じないだろうか。
彼らの多くが昭和30年代生まれ。ということは、およそ1950年代後半から1960年代前半にあたる。昭和40年代半ばからの70年代に中高生時代を送り、80年前後に大学に、そしてその後のポストモダン状況で一気にターボがかかる、という生活史的背景。高度経済成長というニッポン社会自体の未曾有の自我拡大期に、その「豊かさ」を子どもとして享受していった世代。「おたく」第一世代のあの過剰さも、この世代特有のものだ。
「学校」的環境が全域化してゆくのに伴ったある種の全能感、明るさに裏打ちされた妙な自信と、あらゆる既成価値を笑い飛ばす根拠なさの傲慢さが基本的な属性。言わば「こわいものなし」だったのだ。なにせ団塊の世代が兄貴分、大学生ってのはムチャやって好きに暴れていいのだ、という雛型を見せてくれていたし、あそこまでやるのはバカにせよ、まあ、そんなものだろう、という程度にナメてもいた。未来はまだおおむね明るかったし、いろいろあってもいい方向に向うのだろう、とどこかで思っていた。これまた何の根拠もなく。成長するにつれ「テレビっ子」と呼ばれ、「シラケ世代」と言われ、「モラトリアム世代」ともレッテルを貼られた。永遠の執行猶予、というのは、ずっと子どものままでいたい、ということで、しかしそれは当時、まだそんな「オトナ」の側が厳然とあったからこそのレッテル貼りだった。
みんなかなりの学歴をお持ちである。いわゆる進学校にお進みあそばしているブツも多い。進学校イコール左翼的、とまで言わずとも、まあ、戦後民主主義的な公式主義が当たり前だったわけで、程度の違いはあれど当時はそれがほぼデフォルト。その中で、おおむね優等生としてそんな空気を必要以上にうっかり読んじまったような素直な連中、というのがおよそのくくりだ。
大学に入るのが1980年前後。80年代初頭の、どう考えても学生運動的な左翼思想ってのはもうアウト、最低限自分たちの気分としてはなんだかなあ、という空気が蔓延し始めていた時代。けれども、と同時にまた、何かアタマのいい自分、社会や人のことを考えられるワタシ、というのを意識した時には、左翼モードはまだ十分「効き」があったが、それはあくまで教室の中、ないしはその延長線上の局面でのこと。だからこそそれは、友だちづきあいの中ではあまりおおっぴらにしない、できないくらいの「ココロのヒミツ」としてくぐもったものになっていった。
かくて、サヨク/リベラルは潜伏しちまったのだ、要するに。でも、ウイルスは完治していない。何かココロが弱ったり、条件が整えば不意に発症する、そんなもの。で、経緯は異なれど、どこかで発症しちまったのがこいつら、という次第。こいつらの立ち居振る舞い、世渡り作法にどうしようもなくまつわっちまっている「恥ずかしさ」の正体というか本質というのは、案外そんなものらしいのだ。
だから、いまや文科系が「恥ずかしい」ものであり、信用ならねえ、という気分は正しい。正しいが、しかしその「恥ずかしさ」は文科系自体の問題というより、ある世代の生活史的背景にからんだ時代のありよう、そしてそんな時代に自意識肥大のおのれの制御も忘れたまま、「好きなこと」だけで考えなしにメディアサーフィンしてきた手合いが濃厚に発散しているある属性、だったりする。対世間の身のこなしが欠落したまま、「キャラ」でだけ自分を埋めようとしている「恥ずかしさ」。言ってることはよくわからんし、人となりもヘンだけど、でもこいつ、何か大事なこと言おうとしてるらしい――そう感じさせる人のよさ、純朴さを自分のものにしてゆくような経験の蓄積、時間の積み重ねをないがしろにしてきた同時代のツケは、たとえばこういう形で回ってきている。この先、どうやって回復してゆけるか、おぼつかないけれども、でも、まず個々にその道行きを歩もうとしないことには、この国に「教養」(リベラルアーツ)など、ついに宿らないままだろう。