嫌韓流とメディアの手さばき

 『マンガ嫌韓流』(以下、『嫌韓流』)については、作品そのものもさることながら、作品をめぐる現象自体が興味深いと言えます。それは、大きく言って今のニッポンの情報環境が「戦後」六十年、新たな形を求めて変貌し続けている現状をあぶり出す格好の事象となっています。日韓関係における政治・外交的なマターとしてのみ『嫌韓流』をとらえるのでなく、「戦後」の終焉と新たなステージへと移行しつつある中でのニッポン社会のありようを計測しようとする観測点として、これらの現象はとらえられるべきでしょう。

 ここ数年、いわゆるマスコミに対する国民の不信感は、戦後六十年を通じてこれまでにないほどまでに高まっています。メディアは嘘をつく、というのが、もうかなりの程度、国民的常識になっている。それはこれまであった大衆的メディア批判の気分のように、ワイドショーやバラエティがくだらない、電波のムダ遣いだ、週刊誌の下世話なスキャンダリズムが許せない、といったものではなく、これまで「せめてこのへんだけはマジメで正しそうなことを伝えてくれる」ということになっていた“硬派”メディアの周辺、特に朝日新聞、NHKやTBSといったあたりの、いわゆる“ジャーナリズム”という脈絡のコンテンツから、その棚落ちぶりが甚だしいのが特徴と言えます。中にはくだらないコンテンツもある、というのでなく、マスコミそのもの、メディア自体がそもそもその程度にくだらないものだ、という認識の一般化。そういう状況だからこそなおのこと、今回、この『嫌韓流』をどう扱ったらいいのか、というのは、彼らいわゆるマスコミにとっては、結構微妙な問題だったりしたようです。

 発売後二カ月以上たった現在でも、正面からの書評の類がほとんど出ていない、ということもさることながら、発売前からネット主体で予約殺到、みるみるうち数十万部単位で売れている、という現象自体、これまでのマスコミならば喜んでとりあげたがるようなものだったはず、なのですが、どういうわけかそれすら避けているようなフシさえある。普通の人から見れば、なんなんだ、この異様なスルーされ具合は、と素朴にいぶかるのも、まあ、無理はありません。

 これらのスルーされ具合に対しては、まず、マスコミの現場に韓国タブーがあるからでは? といった理解が一般的になっています。大枠、間違いでもないでしょう。韓国や朝鮮、さらに中国などの「アジア」――最近では「特定アジア」というもの言いも広まりつつあるようですが、その方面に対して何かはっきりものを言うのはいけないことだ、という「良識」「マナー」といったものがマスコミの現場に何となくあるらしい、それは経験的にもわかります。

 けれども、その「タブー」がどのような成り立ちでどういう理由でそうなってきたか、については、実はまだあまりよくわかっていなかったりする。だからこその「タブー」でもあるのですが、と同時にまた、そういう「タブー」であるからこそ、朝鮮総連統一協会、パチンコ利権などの単語が持ち出されてはいずれ陰謀史観に収斂してゆき、つまり何か目に見えないところで圧力が、といった解釈が自動的に発動されてゆく傾きもある。現在までのところ、『嫌韓流』が普通に書籍市場に流通することを積極的にさまたげたり、一般読者が入手しにくくするような工作というのは、いろいろ言われてはいるものの、これという証拠があげられたものは正直、ほとんどないと言っていい。

 たとえば、大手日刊紙から広告掲載を拒否されたらしい、という話も当初、ネットで流れました。後にいくつか新聞広告が掲載されたのでこの話も立ち消えになりましたが、これも敢えて斟酌すれば、これまであまり出稿したことのない版元だから営業が様子を見た、といった事情もありそうだったり、また、マンガ本だし著者も無名だし、といったありがちで権威主義的な配慮などもあったかも知れない。実際にそういう理由で新聞広告への出稿が消極的に回避されることがあるのかどうか、寡聞にして知りませんが、常識的な推測の範囲ではそういうこともありそうではある。陰謀史観的な方向にになだれがちな解釈の傾きに対して、その程度の常識もまた、やっぱり発動されるものではあります。

 けれども、ネット書店での書籍売り上げランキングになかなか載らない、それも朝日新聞直系のアサヒコムのネット記事だけが、ということになると、そういうオトナの斟酌もちと苦しくなってくる。実際、この件はネットでもかなり盛り上がって追跡や検証がなされて、いわゆる「祭り」状態になっていました。

~朝日のアマゾンランキング捏造の過程~

http://book.asahi.com/ranking/TKY200507160111.html 7/4~10

ここまでは普通

http://book.asahi.com/ranking/TKY200507230145.html 7/11~17

嫌韓流が登場するやいなや

「※ランキングの対象書籍にコミックは含まれていません。」との注釈が突然登場!!

http://book.asahi.com/ranking/TKY200507300200.html 7/18~24

嫌韓流を買った人が同時に『民間防衛』を買ったからなのに

「『民間防衛』が英国同時多発テロ地震などの影響で3位に。」などと、苦しい釈明

http://book.asahi.com/ranking/TKY200508060133.html 7/25~31

『民間防衛』が防災対策???の書籍だそうです。嫌韓流買った人が一緒に買ったんですよ

ちなみに5位のマンガ中国入門も完全無視!

http://book.asahi.com/ranking/TKY200508130115.html 8/1~7

「6位 新ゴーマニズム宣言SPECIAL靖國論」

「※ランキングの対象書籍にコミックは含まれていません。」との注釈はそのままw

 そして、アサヒコム側が持ち出した釈明が、ああ、なんとこんな情けないシロモノ。

Amazon.co.jpからのおことわり:これまで漫画のタイトルにつき除外しておりました『マンガ嫌韓流』と『マンガ中国入門 やっかいな隣人の研究』を今回よりランキングに含めております。

http://book.asahi.com/ranking/TKY200508260242.html

 つまり、自分たちの判断で『嫌韓流』をランキングに載せてなかったんじゃないんですよ、アマゾンの側であらかじめはずしたデータをもらっていただけで、うちはそれを転載しただけですよ、という、見事なまでに官僚的な釈明ではあります。おそらく、事実としてはおおむねそういうもの、だったのだろうと思いますが、しかし、あの朝日がこういう釈明をしてそのまま信用されるものかどうか、しかもネット空間で、という問題はもちろん残ります。

 アサヒコム側の誰かが何らかの理由や配慮で、『嫌韓流』をはずせ、と指示してこうなったのならば、それはわかりやすいですが、そうなるとほんとにミもフタもないデータの改竄、捏造ですから、いくらなんでもそれはちょっとないのではないか。

 おそらく、なのですが、アサヒコムの側で何らかの配慮が働いたという可能性と共に、アマゾンの側でアサヒコムに流すデータだから、という先回りした斟酌――自主規制、と言ってもいいでしょうが、そういう思惑が働いたということもありそうに思っています。そういう配慮をさせるようなやりとりやつきあい、力関係がふだんからアサヒコムとの間にあった、とか。まあ、そういう差別語と自主規制の関係と同じような現場の空気の成り立ちもあったんだろう、と推測してはいます。

 それに比べれば、テレビの書評番組や、書籍売り上げランキングを紹介するコーナーなどで、『嫌韓流』がとりあげられないままなのは、これはもうはっきりと何らかの意志が現場に働いているのだろう、という推測が成り立ちやすい。特に民放の、スポンサーという「神」が常に介在している現場においては、まあ、そういうものなんだろうな、という程度の推測は、もう一般の視聴者の側でもあたりまえに共有されるものになっています。

 問題は、そういう推測、舞台裏についての理解がここまで広汎に浸透してしまっているのにも関わらず、当のメディアの現場にいる者たちが、そのことについてあまり認識していない、自覚が薄いらしい、というところでしょう。その無自覚さは、観客の側から見れば、こいつらまだこっちをうまく騙しおおせていると思っていやがるな、といった反感を抱くことにもなるわけですが、そこまではっきりと読者なり視聴者なりを騙している、という自覚があればまだいいかも知れない。あたしなどがやりきれないのは、彼ら彼女らはほんとに純粋まっすぐに自分たちのそういう仕事のルーティンにどっぷりハマっていて、そのルーティンにひたすら忠実なマシーンと化しているだけなのかも知れない、そう感じるところがあるからです。

 いまや、マスコミという仕事はそのように恥ずかしいもので、無自覚なまま、衆人環視の舞台でひたすら裸踊りを続けているようなみっともないものになってしまっている、そのことに気づけない限り、いまの『嫌韓流』とそれにまつわる現象について、マスを相手どるメディアの側から穏当に見通すことはできないのだと思います。




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 『嫌韓流』の取り扱いに難渋していそうなのは、何も報道関係のメディアだけではありません。いわゆる思想、言論系――俗に“論壇”とくくられるような方面でも、この『嫌韓流』については、それが引き起こしている現象も含めて、どうとらえていいものか、スタンスを決めかねているところがあったようです。

 それでもそんな中、朝日新聞社の論壇系旗艦誌とも言える『論座』が、先鞭をつけるような形で言及をしました。書き手は、東浩紀。「哲学者」という肩書きで登場し、当初は「浅田彰の再来」などと、いまどきそれはどうよ、と脱力しながらツッコみたくなるような出版乞食の煽りまで恥ずかしげもなく甘受する、言わば周回遅れのプチ寵児ぶりでしたが、「ボクは東大以外は就職しない」(大意)などと元気のいいタンカを切っていた当初の向こう意気はどこへやら、いつのまにやらどこぞの片田舎の私大の教員に収まってしまってからは本性全開、とたんに型通りの超越インテリぶりっこで、サブカルおたくぶりを難解な用語と解釈ごっこでこねくりまわすという、いまどきなつかしささえ覚えるレトロでポストモダン(笑)な芸風を臆面もなく繰り出して悦に入ってる、まあ、そんな御仁であります。

 題して「嫌韓流の自己満足」。巻頭のコラムとは言え、目立つところに配していたあたり、編集部としても結構腹くくって登板させたような感じもあり、さてどんなものか、と眼を通してみたのですが……

 『マンガ嫌韓流』を一読して印象に残ったのは、表面の熱気とは裏腹の、冷笑的な空気である。(…)公平を期すために言えば、そこには説得力のある議論もある。しかし、 それらの議論は、日韓関係の改善に繋がる積極的な提案に結びつくわけではない。 結局残るのは、「歴史問題にしても竹島にしても、韓国人はどうしてこう話がわからないんだ、まあバカだからしょうがねえか」という諦め、というより冷笑だけである(最後ではとってつけたように「日韓友好」が語られるが、いかにも嘘くさい)。

 

 嫌韓のここに本質が現れている。かつて社会学者の北野暁大は、ネットを舞台とした擬似ナショナリズムの本質は、他人の価値観を「嗤」い、そのことで自らの優位性を保とうとするロマンティシズムにあると分析した。『マンガ嫌韓流』も同じである。

 数十万部がみるみるうちに売れた、という事実にはひとまず正面から対峙することを避け、「嫌韓」にだけ焦点を絞って、そこへ傾く心理を分析してみせる、という手口です。こういう「嫌韓」に共感するような読者の心理はしょせんこの程度のものだ、という見下した視線があらかじめあるのは言うまでもありません。「プチナショナリズム」というレッテル貼り一発で未だに意地汚く商売している「精神科医香山リカなどにも通じる芸風ではあります。

 おそらく嫌韓の担い手の多くは、とりわけ嫌韓厨は、日本の将来を具体的に憂いているわけではない。彼らはむしろ、韓国人の愚かさを証明し、日本人の優位を確認したいだけなのである。『マンガ嫌韓流』がディベートの場面を数多く挿入しているのは、そのためだ。しかもその作法は、ネットでの「ツッコミ」に近い。だから彼らは、韓国人の歴史認識や外交姿勢を批判するだけではなく、その奇異な発言や行動を収集し、「あいつらはこんなにバカだ、困ったもんだ」と「ネタ」にする。

 あんた、普通の読者にいったい何を期待しているのよ、と言いたくなるような物言いであります。そんな、あんたの言うように「日本の将来を具体的に憂いている」読者がいきなり数十万人も出てくるような状態こそが、実はファシズムなんじゃないか、とあたしなんざ思うんですが。

 ならば、ここでおそらくは望ましい状態として語られているらしい「日本の将来を具体的に憂」うるとは、具体的にどういうことなのか。

 しかし、外交はディベートではない。ネタでもない。だれもが経験することだと思うが、 こちらが真剣に腹を立てているときに、相手に妙に冷静に対応されたりすると、ますます感情が高ぶるものである。それが人間というものであって、そんなときに「冷静になれない相手が悪い」と言っても意味がない。私たちは、この日本列島に国家を構えるかぎり、韓国と共存していかなければならない。韓国をいくら言い負かしても、その地理的条件は変わらない。隣人は怒っていて、私たちは引っ越せないのだ。嫌韓には、そのリアリズムが欠けている。 

 どうやら「リアリズム」を認識すること、がそれにあたるらしいですが、これだけの紙幅ではその中身はよくわからない。「腹を立てている」「怒っている」ことと「冷静」なこととが対比されていて、それが韓国と日本(の「嫌韓」層)と重ね合わされている。「腹を立てている」相手を前に「冷静」なだけでは逆効果になることもある、と言われれば、なるほど、そういうことは確かにあるわけで、だったらこっちも腹を立てろ、と言うのかと思えば、そうでもなく、「リアリズムが欠けている」とおっしゃる。わけがわかりません。

 おたく的なデタッチメント、価値相対主義的な距離感で全てを「ネタ」として見てゆくような態度や視線は、感情を平然とむき出しにしているようなナマモノの相手に対しては有効でない、というこの認識は、「冷静」で「論理的」であることを一義的に価値とするような偏差値優等生が抱え込んでいるある種のおびえ、強迫観念といったものに通じるように感じます。「冷静」で「論理的」であることをモビルスーツにして全てを超越的に把握ゆける、と思い込んだのが、宮台真司などに典型的な、しかし旧来の知識人の自意識(突出した「個」、世俗を超越した「知性」)と見事なまでに連なる昨今のインテリワナビーのストレートな精神構造だとしたら、これはその裏返しに、「怒る」「感情的である」ことに敢えて価値を見出してみせる(ふりをする)ことで、そのようなインテリワナビーな自分を「そんなことはわかっているよ」(by大塚英志)とばかりに相対化し正当化してみせる、ちと手のこんだ、ひねくれた手口です。ですから、ここで「リアリズム」と言うその内実とは、そのようにむき出しに「感情的である」現実(=韓国や朝鮮半島)を認識してみせるだけのインテリワナビーな自分の賢さの証明、ということで、結局は自分の内面、肥大したままメディアの舞台で右往左往しているおのれの自意識を解説してみせようとしているだけのことじゃないか。

 確かに、いわゆる「嫌韓厨」の属性として、そのような根拠なく高みに立って他人を見下す視線はあります。しかしそれは、ここで偉そうに言う東自身、いや、いわゆる知識人一般に抜きがたく備わっているものでもあります。その意味で、ここで言っていることは天に唾するようなもので、文中、ご大層に引用している北田某なる社会学者(笑)のお説という「ネットを舞台とした擬似ナショナリズムの本質」と言う「他人の価値観を「嗤」い、そのことで自らの優位性を保とうとするロマンティシズム」というのも、なんのことはない、あんたら偏差値世代優等生のインテリワナビーの心性そのもの、ひいてはおたくの属性そのものだったりするじゃないの。

 同じ『論座』には、鈴木謙介なる御仁の「責任を回避するネットの〈立ち位置遊び〉」という論考も載っていました。タイトルには反映されていませんが、ここでも『嫌韓流』とその周辺の現象に言及されています。先の東と同系の文脈でのネットのデタッチメント感覚が批判的に語られている。もちろん、ここでも東同様、結局は偏差値優等生のインテリワナビーなおのれの自意識についての解説になっているわけですが、どちらも『嫌韓流』現象をインターネットと結びつけ、ネット特有の心性と関連づけて解釈しようとしているところもまた、共通しています。

 東も鈴木も三十代。まあ、一応は「新進気鋭」と呼ばれるような世代の論者ということになるわけですが、そういう「若い世代」で「ネット」にも通じた御仁じゃないと、この『嫌韓流』現象ってやつはよくわからないことになっているようだからそのへんに丸投げしておけ――おおざっぱに言ってそんな態度が垣間見えて、朝日のようなサヨク/リベラル系メディアからは現在の情報環境がどう見えているのか、という意味でも興味深いものです。




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 さらに、これは目立たなかったので気づいていない向きもあるでしょうが、『論座』では、宮崎哲弥も『嫌韓流』に言及していました。『噂の真相』の副編集長だった川端幹人との連載対談記事の中で『嫌韓流』のベストセラーぶりが話題に出たところで、「きらいなんだよ」とポロッと言ったのが活字になっていたりしたのは、やはりどこかで『嫌韓流』現象に違和感を感じているからでしょう。それでも、それ以上は何も言っていない、少なくとも活字に反映されるような形では拾わせていない、というのは、そのような葛藤なり屈託なりがあってのこと、ということなのでしょうか。少なくとも、メディアの舞台での風向きを読む術だけで、ネットサーフィンならぬメディアサーフィンで世渡りしてきたような手合いには、この『嫌韓流』現象は最も苦手とする素材のようです。

 昨今、保守系もの言いが風上に立っていることは十分わかっているし自分もやっているけれど、こういう無名の同人系マンガ家などにまで追随されているのはなんとなく居心地が悪いしけったくそ悪い、というのがまず最初の反応。このへんは無意識含めて脊髄反射系の反応、という感じでしょう。まあ、だからこそ根深いんですが。

 次に、実際に何か言ったりしなければいけない場合を想定して、立ち位置を考え始める。韓国/半島タブー、の構造的な縛りがここで反映されます。それはご大層な思想や信条、なんてものじゃなくて、そういうメディアまわりの日常においてはほとんど空気のようにあたりまえのもの、になっちまっているわけで、しかもそれはスポンサー様のご意向、というメディアの現場を差配する「神」から発するご威光によって規定されている、と。

 高みから発言する、ものを言う、という、彼ら彼女らの旧来の知識人系自意識が、いみじくもあぶり出されています。かつての「前衛」幻想とまでは言わずとも、少なくとも無知な大衆、蒙を啓いてやるべき衆生の前で勇躍、獅子吼するワタシ、という「もの言う知識人」系自意識の定型は、いま、この情報環境においてもなお、このようにうっかりとあらわになってしまうようなものらしい、そのことにあたしなどは改めてしみじみしてしまいます。

 自ら固有名詞を掲げて突出してゆくこと、そして高みに立とうとすることについて、少なくとも『嫌韓流』の著者は積極的ではありません。「ゴーマニズム宣言」との流れで理解するのはもっともだとしても、決定的に違うのは、作者である山野車輪自身に、小林よしのりのように固有名詞として突出してゆこうとするモティベーションは薄い、そのことです。同様に、活字メディアを中心にしたメディアの舞台で「活躍」する評論家や文化人が、『嫌韓流』に対して固有名詞を出して正面から何か言及する、ということについてどこか及び腰になっちまう理由というのも、おおむねその固有名詞をさらしたがるようなモティベーションの薄さに対する違和感なのではないでしょうか。比喩として適当かどうかわかりませんが、名のある知識人がその名前でネットの掲示板に書き込むことがためらわれる、もしかしたらそんな感じに近いのかも知れません。




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 そうこうしているうちに、とうとうご本尊の『朝日新聞』にも書評が載りました。誰を起用してるのかな、と見たら、なんと、唐沢俊一です。

 うなりましたね、あたしゃ。さもありなん、というか、そうか、そうきたか、というか。さすがに朝日の偏差値優等生クンたちだけあって人選が実に巧妙というか、ある意味的確であります。もっと言えば、彼ら彼女らの、本当にヤバいものとそうでないものとをかぎ分ける保身の嗅覚はまったくもって素晴らしい。まるで官僚のようです。あ、すでにあんたら立派なマスコミ官僚だったか。

 おたく系知性のある部分が抜きがたく持っている「保守」的性格(カッコつきね)が、ここに来てどういう世渡りを見せてくれるのか、について、あたしゃかねがね楽しみに、時にわくわくしながら観察させてもらっているのですが、ここで唐沢俊一を起用するに際しては、朝日の学芸部に潜伏しているそういうおたく的知性がどこかで共鳴してやがるんだろうな、と見ました。

 知識人と呼ばれる人々はたいていベストセラーがお嫌いである。たまに読んでも、まずほとんどが、 「(いやいやながら)読んではみたがなにほどの内容もない。なんで大衆はこんなレベルの低いものを喜ぶのか」

 

 というようなお叱りがほとんどである。…しかしこれは、ベストセラーの本質をわかっていない言である。ベストセラーがベストセラーたり得ているのは、内容ではなく、社会の基層に蔓延した“感情”をすくあげていることが、大抵の場合その理由だからである。オイルショックによる社会不安が『ノストラダムスの大予言』をベストセラーにし、団塊の世代を中心とした中高年層への老いへのあせりが渡辺淳一の不倫小説をベストセラーにする。これらはその時点時点での日本の大多数の国民感情を映した鏡なのである。その意味で、最近話題の『マンガ嫌韓流』を取り上げる際には、その内容の分析よりも、こういう本がベストセラーになるまでに、日本社会の中に嫌韓流という感情が広まっている、という事実を確認するための検証の視点が大事になる。

 総論として異議はありません。認識として、先の東などよりはっきり上等、競馬で言えば「時計が違う」という感じです。問題はそのあと、いきなりこんなまとめに落としてゆきます。

 作者をはじめ、この本を支持している若い読者層は自分の感情を素直に表明することを是として教育を受けてきた世代である。その彼らに、なぜ、嫌いなものを嫌いと言ってはいけないのと強制するのか、本の内容の否定の前に真摯に回答する義務が、われわれ大人世代、そして知識人諸氏にはもとめられるのではあるまいか。多くのベストセラーがそうであるように、この本も、この本が嫌う人々がまず、試されているのだと言っていいだろう。

 「この本が嫌う人々」とはいわゆる(主として良識派の)知識人、ということになるのでしょう。「われわれ大人世代、そして知識人諸氏」というくくり方には、それらと対極に「嫌韓流」支持派がいる、という意味が透けて見えるわけで、つまりこの本は大人でない、インテリでもない層が支持している本、ということになるのでしょう。ならば、他でもない唐沢自身はどこにいるのか。どちらでもない、というあたりを選択したげな素振りはほの見えますが、でも、重心は「大人」で「知識人」という方向にかかっているのは明らかなわけで、だったらその立ち位置(笑)からもっとはっきりものを言ってよかったはず、なのに。

 おたく的、あるいは80年代的価値相対主義系のデタッチメントの倫理と、そこに必然的にまつわってこざるを得ないある種の含羞が、ここでは裏目に出ています。「トンデモ本」という枠組みである種の出版物をまさに「ネタ」として楽しむことを提示してきた(それは当時、確かに高く評価するに値する仕事でした)ひとりの唐沢が、この『嫌韓流』を「トンデモ本」とも言い放てず、とにかく売れている(らしい)、という事実の前に微妙にたじろいでいる。自分にとってどこか素直に共感しにくい、居心地の悪さを感じているがゆえに、そのようなたじろぎが現前してしまっているのかも、と勝手に心中忖度してみたり。

 特に思想的な反発というわけでもなく、皮膚感覚で『嫌韓流』に距離を置きたがる人たちの抱く、その違和感の中身というやつを考えてみると、単にこれまでデフォルトだったサヨク/リベラル系言説の内側にいるから、というありがちな理由だけでなく、そのようなネット以前と以降のメディアリテラシーの成り立ちの違いからくる肌合いの違い、だからこそうまく言葉にしにくい微妙なところでの居心地の悪さ、といったものも、実は案外含まれているようです。

 『嫌韓流』で語られていることの中身も脈絡も、確かに否定できないものだし、それはいわゆる専門家たちも大方認めているところではある。著者はもとより、編集者も含めた『嫌韓流』を出版市場に流す際の版元の態勢というのは、その程度に慎重で穏当なものだったらしいのですが、でもだからこそ、表立って中身に批判も反論もしにくくなっている分、その違和感のありかというのはさらに屈託してしまってたりもする、どうやらそんな印象なのです。

 それは、ひとまず名づけてしまうとすれば、活字出自の自意識の憂鬱、とでも言ったものなのだと思います。活字が情報環境の中心にあるものとされ、その約束ごとの中で社会化してゆく中で読み書きのスキルを取得していった、そしてそれを前提にして身の回りの世界を解釈してゆく手癖を持ってしまった者たちが、自分たちが育ってきた情報環境の変貌の中で屈託しつつある。自分たちの手持ちの「教養」がどうやらそのままではもう使いものにならない、役に立たないばかりか、どうかするとその「教養」自体が批判や糾弾の対象にされてしまったりする現在。

 そういう意味でいま、人文系の「教養」の終焉、というのに立ち会っていると感じています。おおざっぱに文科系、と言い換えても構わない。文科系/理科系、という区分自体が、後発近代国家が促成栽培的に西欧諸国をキャッチアップしてゆくための「知」の体制だったわけですが、戦後もその区分が温存された中で高度経済成長をくぐったことで、サヨク/リベラル系の言説や世界観が、現実と遊離したところで、ある種居留地的に残存してしまったところがあるように思います。現実とは「経済」でありゼニカネでありテクノロジーである、その一方でそれらと遊離したところに歴史や思想や哲学や文化が、つまりは「文科系」がある、という「知」の構図は、まさに「戦後」体制の反映でもありました。それがもう賞味期限切れ、耐用年数を超えたものになっていることが、誰の眼にも否応なしにわかるようになってきた。それはそういう時代、そういう状況なのだ、と言うしかないようなものですが、しかし、です。

 『嫌韓流』にある部分で共感しながら、なお微妙に違和感を抱いてしまっている者たちのその違和感の手ざわりというのは、決してそのまま流してスルーしてしまっていいものでもない、とあたしは思っています。その違和感の手ざわりもまた、もう一度いま変貌し、新たな相貌を示し始めているいまのこの情報環境の中でもう一度、〈これから先〉に役に立つように活かしてゆけるはずだし、またそうするべきだとさえ思っています。それが、「教養」というもの言いを、そしてそのもの言いと共にひからびたものになってしまっている人文系、文科系という枠組みの内側にあった「知」の確かさを、もう一度、役に立つようなものにしてゆこうとする時に避けて通れない作業になるはずです。