山上たつひこ、の復活を望む

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  朝日新聞が今年から始めた手塚治虫漫画賞が、ようやく第一次選考まで終わった。

  選考委員が三十名という、この種の賞としては異例の多人数だったことに加えて、委員が顔を合わせて合議をせず、それぞれの推薦する作品に持ち点を配分して投票した結果を機械的に集計するという選考方式の事情もあり、選ばれた作品は実にこう、何というか、見事なまでにバラバラ。こんなんでほんまにええんかいな、という印象はある。

 ノミネートされたのはのべ六二作品。そのうち第一次選考に残ったのは、藤子・F・不二雄ドラえもん』、望月峯太郎ドラゴンヘッド』、萩尾望都残酷な神が支配する』、松本大洋『ピンポン』、王欣太・画 李学仁・原案『蒼天航路』、山口貴由覚悟のススメ』という得点上位の六作品。ここからさらに最終選考が行われる。

 こういう選考体制になると、マンガ界全体をバランスよく見渡した上で、といった「良識的」な立場は相対的に後退せざるを得ない。今どきのマンガの文庫版の「解説」がほとんどの場合単なるファンの感想文の域を出なくなっていることと似たような、選考委員の「好き嫌い」がむき出しになってくる。逆に言えば、個人的にはどうかと思うような選考結果になったとしても、個々の選考委員にすれば「いや、あの体制じゃいくら良心的な選び方をしても全体に反映されなくて」といった言い訳がしやすいということでもあるのだが、「手塚治虫」という良くも悪くも大看板のご威光をさらに「朝日新聞」が操作することの意味を思えば、そうそう脳天気でばかりもいられない。合議なしの持ち点による投票だから中立で良識的だ、などと考えている委員もいるようだが、それこそ“朝日新聞的なるもの”への無意識的な同調に他ならない。マンガに賞を与えることの難しさという本質的な問題もさることながら、もっとミもフタもないことを言えば、マンガで商売しているわけでもない大新聞社がプロモートする賞であるという興行的な意味を考えても、このあたりは来年以降に向けて、少し議論が必要なのではと思う。

 一方、青木雄二が筆を折るという話を聞いた。ご存じのように『ナニワ金融道』で独自の世界を作り上げた異色の描き手だ。なるほど、確かに二の矢が出にくそうなタイプではあった。もう十分に稼いでしまったという事情もあるらしい。それでも、いきなりの戦線離脱宣言はやはり驚きだった。去年、不慮の事故で岡崎京子が第一線から消えたことなどともあわせて、自分の世界を確かに持っていたこういう描き手たちがマンガの現場を離れてゆくのはさびしい。


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 そう言えば、山上たつひこはどうしているのだろう、と、ふと思った。

 いや、小説作家として活動しているのはもちろん知っている。定期的に出している書きおろしも気になって読んでもいる。けれども、ええい、これは単なる読者のわがままということを百も承知で言ってしまうのだが、やっぱり彼にはマンガを描いて欲しい。断固描いて欲しいのだ。

 世界に冠たる日本のマンガ文化、といった照れ臭くなるような持ち上げ方が、それこそ新聞の文化欄やテレビの報道特集などでさえも定番になってきた昨今、なるほどマンガは世間的に見れば我が世の春を謳歌しているように見えるのかも知れない。けれども、マンガは先行きどうなるのだろうという危機感は、現場の編集者はもちろん、多少は見通しのきく描き手たちなどの間でも、もう半ば常識として共有されている。間違いなく同時代の感覚に突き刺さり、そしてその突き刺さり具合がまたより大きな状況との関係で確実に何か意味を持つような回路もあり得た、サブカルチュアとしてのマンガにとってそんないきいきした状況はすでに遠いものになってしまった。

 そんな今のこの状況で、たとえば山上たつひこがいまいちどマンガの現場に復帰することの意義は、決して小さくないと思う。七〇年代から八〇年代にかけての全盛時のものはもとより、小説家に転身する直前、『週刊読売』というこの種のマンガとしてもかなりの悪条件の連載で奮闘していた『湯の花親子』や、あるいは断末魔の『パンチザウルス』でひときわはじけていた時代もの『鬼刃流転』などは、今もたまに本棚の奥から引っ張り出してきてめくってみては喜んでいる。活版印刷のような力の刻み込まれたその絵柄は今も新鮮だ。七〇年代、ちょうど「ギャグ」が「ナンセンス」の方向に解体されていった、その過程で彼とその読者たちが獲得し、共有していったはずのある種の解放感の記憶こそが、市場としては成熟もし、しかし、と同時に予定調和の中の閉塞感が日常化してしまった今のこのマンガの世界にとって、実はかなり切実に必要なものなのではないか、と思うからだ。

 無理を承知で敢えて言う。誰か、心ある編集者がいるならば、山上たつひこにぜひもう一度マンガを描かせて下さい。お願いします。

*1:何の間違いか、当時は手塚賞の選考委員みたいなのに名前を連ねていたりした。その後、なしくずしに抹消されていったのか何だか、経緯と顛末はもう記憶にないけれども。