書評・『マンガでわかる戦後ニッポン』 (双葉社)

 「歴史戦」というもの言いが飛び交い始めています。いわゆる「歴史認識」をめぐる情報戦の現在。けれども、それは何も国と国、対外的な大文字の空中戦というだけでもない。いや、むしろわれらその他おおぜいにとっては国内の情報環境、ふだん接する日本語を母語とする拡がりの中でのしのぎあいの方が実ははるかに切実で、自分ごととして直接間接に影響が大きいものだったりする。事実、岩波や中公、筑摩やみすずといった「戦後」の人文系「教養」を仕切ってきた、少なくとも彼ら自身そう自負し、事実そのような流れで「何となくそういうものらしい」程度の「常識」を形成してきた界隈の版元は、それら国内の情報環境での「歴史戦」にこそすでに積極的に参戦してきています。大文字の情報戦から一見外れるような、関係のあまりないような領分でも見えない「歴史戦」はすでに始まっている。たとえば、この一冊などはそういう意味で興味深いものです。

 タイトルがタイトルなので、なんだよくある「マンガでわかる」系の通俗本か、と見過ごされがちでしょうが騙されちゃいけない、中身はかなりスジの通ったマンガ作品のオムニバス。歴史とは文脈を構成してゆくことであり、その上に「政治」もまた必然としてからんでくるものである、という認識を穏当に持ち得るだけの読み手ならば、これもまた国内日本語環境での「歴史戦」の一角を好むと好まざるとに関わらず担う一冊、と理会できるでしょう。

 帯に大きく「内田樹」の名前が「解説」の一部と共に掲げられていますが、これはダミーやデコイの類でしかない。このオムニバスの本体はおそらく作品の選定から文脈構築にまで主に関わっていたはずの中野晴行のもの。なるほどそれなりの丹精の感じられる仕事なのですが、ただ、それがいまどきの「歴史戦」で担ってしまう意味についてどこまで自覚的なのか、そのへんは判断を留保せざるを得ないところです。

 手塚治虫水木しげるつげ義春はるき悦巳大友克洋西岸良平諸星大二郎かわぐちかいじ谷口ジロー岡崎京子……とまずは「マンガ史」的にも無難に納得できる13人のラインナップ。その彼らの、あまり知られていないだろう短編作品をダシに「戦後」を語る、いや、具体的に「語る」のではなくある方向の「察する」へと導く、その手口は実はかなり巧妙です。関わっている人がたがおそらくスッピンの「善意」で「良心的」にそうされているだろうがゆえになおのこと。マンガやアニメ、音楽など「サブカル」と好んで呼ばれるようになっている界隈の「批評」「研究」系のもの言いや、それらの自明の前提になっている共同性には、このような「善意」の類を介して漠然と合焦してしまう「戦後」像、「民主主義」イメージがすでに定型としてついてまわっているらしい。たとえば、そう、宮崎駿のあのアニメ『風立ちぬ』に現れていた、ある種の「戦争」「歴史」認識の肌合いなどを想起してもらえるなら、もう少しわかりやすくなるでしょうか。

 マンガに限らず、アニメその他いわゆる「サブカル」コンテンツを媒介にそのような「戦後」を察してもらう、その手法はいまどきのこの情報環境において確かに有効でしょう。ならばなおのこと、個々の作品についてはもっとていねいな、複数の文脈に配慮した補助線をできる限り張り巡らせておく、それによって「読む」側の理解を本来の意味で「豊か」にしてゆく環境を提示する、そのような方向でのフェアな専心が求められる。これらの作品の並びから何をどう「読む」のか、その可能性をたとえ「善意」で「良心的」に、おそらく無意識も含めてあらかじめある範囲に狭めてしまうことを丹精に行ってしまう、そのような習い性自体もまた〈いま・ここ〉の「歴史戦」の裡にすでにあります。

 このような手法もまた、昨今一部で言われる「キュレーション」ということになるのでしょうか。それはともかく、ならばその結果導かれるその「戦後」像の是非と共に、このような手法に合焦できるようなこちら側の能動的な「読み」もまた切実に必要になってくる状況を、われわれはすでに生きているはずです。「善意」「良心」による丹精はそれ自体、「政治」的でもあり得る。なじみやすい「サブカル」コンテンツを媒介にするからこそ、その方法的自覚とそれに伴う「責任」意識はいまどきの情報環境を呼吸し生きてゆかねばならぬ生身にとって、今後さらに重要になってくると思われます。