片岡義男の本領

 昨今、古本屋の軒先、ひと山いくらの文庫本の中に、片岡義男の作品は埋もれている。角川文庫だけでも無慮八十タイトル以上。それだけ出しまくったんだから一冊百円にしかならなくて当たり前、なのだが、それでもその中味は決してひと山いくらの代物ではない。

 あの八〇年代初めの気分ってやつを、良くも悪くもとにかくきっちり反映しているブンガク――ひとまずそれが商品としての片岡義男だ。音楽だったらサザンか松任谷由実。とにかくもう当時は持っているだけでオシャレ、てなもんだった。映画にまでなった『スローなブギにしてくれ』なんてあなた、主演がまだ二十代の浅野温子でさ、髪が長くて、猫が好きで、少しわがままで、なのに何して食ってるかよくわからなくて、ってそういうとにかく「都会」で「ひとり」で生きてく姿があしらわれてる。ああ、こう書いててもこっぱずかしい。こっぱずかしいが、しかしそんな女の子ってのは当時マジに新鮮だったのだ。実際、スナックのおねえちゃんなんかでかぶれるのがゾロゾロいたもんなあ。バイクも自前でメンテしてさ、缶ビールなんてさわやかに呑んじゃってさ、そういうコに赤いホンダのCB250RSなんて実にはまってた。「自立」なんてもの言いが女の子に適用されることはまだあまりなかったけれども、当時同じく盛り上がり始めていたフェミニズムなんかとは全く別の脈絡で、間違いなく一個の「個人」として「自立したオンナ」を表現していた。パソコン大衆化以前の「おたく」カルチュアの一貫としての当時のバイクブームにしたところで、どこかそんな「自立」のシンボルとして消費されていたのだし。

 消費社会の全面肯定、〈いま・ここ〉の「豊かさ」の全面解放、そんな八〇年代気分にシンクロしたもっとも優秀な消費財のひとつが片岡義男だったことは間違いない。英文翻訳調のコピーライティングみたいな日本語で、どうかすると口絵にけったくそ悪い環境ビデオみたいな写真がさしはさまれてたりで、パッケージングから何からすべてがそれまでの「文学」のクラさ、堅苦しさから外れていた。だからこそ、「カドカワ文化」とひとくくり、折り目正しい「文学」の批評言語に扱われたことはまずなかったし、またその分、みんな勘違いしていたようだけど、でも、間違っちゃいけない。商品としての彼がどれだけ優秀な消費財だったかってことと、書き手としての片岡義男とはまた別物。実はそんなにチャラけた書き手じゃない。

 昭和一五年生まれ。ということは、おい、もう還暦だぜ。だがこの還暦オヤジ、ティーンエイジを「アメリカ」で暮らしている。「豊かさ」にはちきれそうな五〇年代のアメリカ。サブカルチュア全面解放、言わば革命前夜のその空気をたっぷりと吸って、片岡義男は自分の言葉と文体を獲得していった。それが日本じゃようやく八〇年代になって花開いた、ってだけのことだ。実際、ごく初期には英会話の本を出したり、ミステリーの翻訳を手がけたりしている。七〇年代の初めにビートルズの歌詞を日本語に訳した『ビートルズ詩集』という本が角川文庫から出ているが、この翻訳をやっていたのも彼だ。また、『十セントの意識革命』(晶文社)という大衆文化論の隠れた名著もある。思えば『宝島』の前身『ワンダーランド』創刊当時の主要執筆メンバー。今の毛つき写真がウリの宝島じゃない。わずか数号でぶっつぶれた植草甚一責任編集、晶文社版幻の『宝島』だ。 

 初期の作品で、まさにその『ワンダーランド』の看板連載として始まった『ロンサム・カウボーイ』について、彼はこんなことを書いている。

 「僕としてはユーモア文章のつもりだったのだが、この本はこれこそ本当のかっこういいアメリカだ、という大誤解をされてしまった。

 文学のみならず、あらゆる文化の領域を侵犯してゆく広告資本の横暴。そんなもみくちゃに波乗りしながら、しかし彼はシニカルに状況を見つめていた。だから、彼を単なる消費財として大誤解をしたその当時の読者について、はっきりこう言う。

 「彼らはアメリカのどうでもいいようなことに強くこだわり、大切なことにはまったく無関心なまま、いまは日本の中年となっている。その下に続いたいくつもの世代に関しても、同じことが言える。

 この問題意識は、最近の大きな仕事に連なっている。『日本語の外へ』『日本語で生きるとは』(共に筑摩書房)は、日本人が英語が不得意なままなのはなぜか、という問いから始まり、それは「根底の部分に、日本語の問題があるからなのではないか。身につききった日本語が、英語の科学的な勉強の邪魔をしているのではないか。(…)問題なのは日本語そのものではない。問題なのは、戦後の日本で日本の人たちが駆使してきた日本語、つまり戦後における日本語の機能のしかたが、問題なのではないか」という問題意識からゆったりとつづられる独自の日本文化論になっている。ここには、八〇年代型消費財としての片岡義男はもうない。あるのは、ディテールと等身大の生活感覚に誠実なひとりの、日本語をあやつる書き手だけだ。

 最後に、古本屋における片岡義男の選び方を。『ポパイ』の連載をまとめた『3Bの鉛筆で書いた』あたりのアメリカンカルチュア批評は速攻でゲット。万一、小林信彦との対談本『昨日を超えてなお…』『星条旗と青春と』(共に角川文庫)や、単行本の『十セントの意識革命』(晶文社)、原節子の映画を論じた『彼女が演じた時代』(早川書房)にめぐり会える幸運をつかまえたら絶対に逃すな。その場の他人に借金してでも喰らいつけ。以上だ。

*1

*1:こちらもぜひ(=゚ω゚)つ「片岡義男『十セントの意識革命』 - king-biscuit’s recommended――棚からひとつかみ 」http://d.hatena.ne.jp/SIU/20090407/1239105525