大学に入って二日め、とある芝居のサークルにまぎれこんだ。アトリエ、と気取った名前で呼ばれていた掘っ建て小屋の暗がりから、ねずみ色した重い鉄の扉をあけて出てきたのは、分厚いポックリにベルボトムのパンツ、センター分けの長髪を肩口から上腕くらいまで伸ばし、口髭までたくわえた見るからにフツーじゃない御仁、だった。やけに大人びて見えたけれども、あとで聞けばせいぜい二四、五。当時、こっちはまだ一八になったばかりだったから、余計にそう見えたのだろう。
寺山修司のもとにいた、ということだった。かの劇団天井桟敷。そのことが何かとんでもなく輝かしいことのように語られていた、そんな場所、そんな時代だった。
分厚いポックリは冬でも愛用だった。名前を刷り込んだ専用の原稿用紙に3Bや4Bの柔らかい鉛筆で、案外几帳面な大きな字で台本を書いていた。朝から行きつけの喫茶店に入りびたり、仲間たちと一日中、芝居や映画や文学や思想の話をしていた。ああ、東京でゲージュツを志す若いオトナってのはこういうものか、と、眺めていた。
けれども、少し後、そんな身振りやスタイルの多くがまるごと、寺山修司の真似ごと、言わばデッドコピーだと知った時の感覚というのは、今でも覚えている。
軽蔑、ではない。嫌悪感、というのとも違う。なんというか、はあ、すげえもんだなあ、としか言いようがない、そんなぽかん、とした感じ。そこまで臆面もなく真似てしまう当人もさることながら、いや、それもそれである意味すごいのだけれどもそれ以上に、そこまで全身全霊、何もかもコピーさせてしまうような人間ってのは、さて、一体どういう人間なんだろう。今ならカリスマとか何とか、そういう類のもの言いにもなるのだろうけれども、そして、そういうどこか宗教めいた尋常ならざる人間関係というのは、特に当時の芝居まわりにはそう珍しくもなかったけれども、まあ、それにしても、である。
本書の著者、田澤拓也も、あの時、あたしが抱いた感覚に通じるはずの何ものか、を、はじめの一歩、で感じていたらしい。
寺山と同郷で、高校も同じ青森高校、東京へ出てきて大学も同じ早稲田で、という自身の経歴を裏返しの足場にしながら、その違和感、埋めようのない距離の根源について、寺山修司はいかに自らを語り、演じようとしてきたのか、を、彼のまわりに居合わせた人間たちへの聞き書きを媒介にたどってゆくことで、自ら確認してゆこうとする――これはそんな成り立ちのかなりな手間仕事、まずは正しく労作、である。
「だが、東京に出てきても、私には天井桟敷を訪ねてみたい気持ちは毛頭なかった。(…)ネクラという言葉はまだ流行語ではなかったが、太宰治も寺山修司も先輩たちのしていることは、たとえばデートの会話にはまったく不向きではないか。私はこの二人の名前を口にすることが、なんだか恥ずかしかった。当時の青森高校の同級の女生徒たちだって、きっと私に同感してくれると思う。」
ここで彼が、寺山を太宰と並べ、さらに「先輩たち」と表現しているのは象徴的だ。
カルチュア・ヒーローというのがいるとして、それはある時期確かに、寺山修司の名前に冠せられるべきものだった。それくらいに彼は時代の寵児であり、輝いてもいた。だから、この「先輩たち」というのは、単に同郷、同窓の先輩というだけでもなく、何かそういう同時代のヒーロー、突出する固有名詞に対する仰角の視線も含めたもの言いなのだと思う。それは、寺山のひと世代前だと太宰だった。逆に寺山の後、青森が生んだカルチュア・ヒーローというと、そうだな、さしずめナンシー関になるのだろうか。
けれども、ナンシー関と同郷の後輩たちが、このような感覚を彼女に対して抱くことは、おそらくないだろう。それは、間違いなく高度経済成長の「豊かさ」がもたらしたひとつの果実、そんなカルチュア・ヒーローを同時代に出現させるからくりそのものが情報環境の変貌によってそれまでと違う形になっていった、そのひとつの現われである。
その程度に、寺山修司は「戦後」のゲージュツ家、だった。正しく「戦後」の枠組みの中で立ち上がってきた個性であり、才能であり、そして消費財でもあり、それらの全ての意味でまさしくヒーロー、だった。
そんな言わば “寺山伝説” を、著者は丹念に検証してゆく。特に、寺山が寺山になってゆく初期の段階での剽窃やコラージュの痕跡について、執拗に焦点を合わせている。
警察官だった父を戦争で失い、母子ふたりで食堂の二階に間借りをし、その後、母は三沢の米軍キャンプに働きに出て、ほどなく米軍将校とつきあい出す。地元でそれが噂になって居づらくなり、遊廓の待合所だった家に移り住む。その後、母は将校と出奔、修司は親類筋の経営する青森市内の映画館に引き取られ、映写室の隣の屋根裏部屋で暮らすようになる。中学から高校へ。旧制からの移行期で、青森高校では男女共学第一世代のめぐりあわせに。弊衣破帽のバンカラの気風と、「戦後」のリベラリズムとがからみあうその真っ只中に、思春期の寺山は放り込まれた。
「修司は次第にふてぶてしさを身につけていた。戦争は負けたほうが悪いと口にし、天才に憧れてヒトラーを尊敬していると言った。誰にでも平気な顔で嘘をつく少年は、一方で負けず嫌いだった。というよりも嘘を口にしてまでも負けず嫌いを貫くのである。」
野球やボクシング、競馬やプロレスやジャズ、さらには見世物といった、いずれ“身体”に収斂してゆくような表現に惹かれ、事実、そこからパフォーマティヴな独自の詩論、演劇論、にまで透徹していった寺山修司は、しかし、少年時代は内気で運動の苦手ないじめられっ子だった。
「目は大きくハンサムだったが、女生徒たちの人気はなかった。」
「徹底した模倣と虚言と厚顔は彼の孤独な現実に裏打ちされていた。」
「修司は後年にいたるまで活字になった自分のスクラップはきわめて丹念に行っていた。」
強い自尊心と自己顕示欲、微笑ましいまでに俗物丸出しな「立身出世」へのモティベーション……ニッポンにまだ正しく“地方”があり得た時代、その内側から何とかひとかどの者になってゆこうと苦悶する思春期の軌跡、という意味で、この頃、寺山の周囲にいた人間たちへの寺山の想い出の聞き書きは、興味深く、そしてほろ苦い。
俳句に始まり、短歌、ラジオドラマ……他の優れた表現から断片を切り取ってきて、巧みに自らの作品に織り込んで行くその手口。寺山がそのキャリアを歌人としてスタートした、というのは有名だが、その前の中学時代にすでに俳句に関わり、当時から剽窃疑惑が言われていたことなどは、本書で初めて知った。未だ翻訳、輸入されていないような海外の作品などにも積極的にあたった形跡すらある。ゲージュツに限らず文化一般を成り立たせる仕掛けに、そのような落差や障壁が、今からすると比較にならないくらい大きなものとして立ちはだかっていた、そんな時代、そんな状況で、何とかひとかどの固有名詞として突出してゆこうとする魂の七転八倒。今ならばさしずめ、インターネットからコピー&ペーストでいくらでもそれらしいものをでっちあげる、それくらいのことはやってのけていたかも知れない。が、同時に、そんな剽窃は早いサイクルで指摘されてもいただろう。実際、そのような「盗作」「剽窃」が発覚することは、小説であれ何であれ、最近珍しくない。今ならば、寺山はあのように寺山になってゆくことは、おそらくできなかっただろう。その意味でも、彼はやはり幸せな時代=「戦後」を、幸せに生きた、ということになる。
けれども、おそらくここが重要だと思うのだけれども、著者はそんな寺山に対して、「真実を暴く」といった姿勢では臨んでいない。彼の世代までのいわゆるノンフィクション作家、ルポライターの類ならば、まだほぼお約束で陥りかねないそういう「ファクト」信仰、「客観」報道の類への窮屈な忠誠心は、ひとまず薄い。それが何よりいいし、ある意味、救いになっている。
だからこそこの仕事は、寺山修司という人間がどれだけ嘘つきで、自意識過剰で、ありあまる自己顕示欲にふりまわされた俗物だったか、を明らかにしてゆくことなどを超えて、さらにそこから先、そのようなとんでもない異物であることと才能との表裏一体のさまと、何より、そのような人間に必然的に宿らざるを得ない孤独のありようについて、読み手の側に静かに思い至らせてくれる、そんな質を獲得するものになっている。
そして、この本が、寺山修司を描きながら、しかし、そんな寺山が可能になっていった時代、高度経済成長をくぐり始めた「戦後」がその様相を整えてゆく過程を、言わば地模様として透かし見せるような趣向になっていることに、ふと、気づくようならば、もう大丈夫、あなたは読み手として、この著者のもうひとつのささやかなたくらみに理会したことになる。そうすれば、ひと通りは功成り名を遂げ、そのことによってまた別の、それまでの軌跡からすれば必然的でもある孤独に遭遇していたはずの晩年に至るその手前、九条映子との別離といわゆる「のぞき」疑惑の発覚のあたり、八〇年前後でこの本の記述が閉じられていることについても、不自然に感じることなく、むしろ、ああ、そういうことか、と納得できるはずだ。
というわけで、さて、あたし的には寺山修司の最良の仕事であると確信している、あの一連の競馬コラムについても、この著者の示してくれた視点と手法からもう一度、とらえなおしてみようかな、と、思ったりしているのである。