まずは、八年前の自分にしみじみとエールを。
おい、おまえさん、こんなにウブでマジメだったんだなあ。なんとまあけなげに、まっすぐに、いたいけな民俗学者やろうとしてるじゃんか。
『厩舎物語』(日本エディタースクール出版部 現在、ちくま文庫)に続く、あたしの仕事としては二冊目の文庫版である。
もの書きとしての看板仕事、学者の業界用語だと「主要業績」ってのを人前に示さなきゃならない時に、『厩舎物語』と共に必ずあげるのが、この『無法松の影』だった。今でもそうだし、これからもおそらくずっと、くたばる時までそのはずだ。
初版は毎日新聞社から、九五年の十月に出ている。生活史的には、まだ大学で教員やってくもんだと律儀に思っていた時期。ちょうど東京外国語大学から国立歴史民俗博物館に鞍替えした頃だ。
とは言え、田舎の公立高校なみのちっぽけな単科大学、それも主に留学生相手の日本語学科なんて辺境の助手からいきなり文部省直轄、「天領」と陰口される共同利用研究機関の助教授、はずみとなりゆきとは言え、たかだか三十代半ばでそんな難儀な金看板背負わされる破目になり、うわあ、こりゃえらいとこに来ちまったぞ、と、おのれのおっちょこちょいぶりにそろそろ頭を抱え始めていた。
仕事の仕込み自体はその前五年ほど、手弁当で続けていた。自分としては民俗誌ことはじめのつもりだった『厩舎物語』このかた、ずっと現場にしてきていた地方競馬とそのまわりに関わりながらで、しかも、こちとら研究費かっぱらう書類の書き方ひとつから学者業界の権謀術数の機微に至るまで、からきし何も知らない捨て育ちの学者渡世、折りから吹き荒れ始めていた教養部解体に端を発する文科系学問のメルトダウン、それまでの大学制度の事実上の瓦解という時ならぬご一新の嵐をかいくぐり、なおかつ非常勤の講義も確か五つか六つは抱えながらの修羅場の日々に、何とか時間を見つけては息抜きのように古本の雑本渉猟と、岩下俊作関係の資料に触れに小倉や北九州通いを繰り返して少しずつ輪郭をこさえていった、まあ、そんな成り立ちの手間仕事だった。
雑本三昧は当時、すでに病膏肓、日々の習い性になっていた。原稿仕事その他で稼ぐ分で日々の暮らしをまかない、大学の給料のおおかたは古本と競馬につぎ込んでいた。職場で日々見聞する学問の現場のあまりの腐り具合に、いかん、このままじゃロクな四十代にならねえ、と腹くくって辞表を叩きつけた時も、一番頭を悩ませたのは月給がなくなることより、段ボール無慮数百箱になんなんとする雑本の山、その置き場をどう工面するか、だったくらいだ。
ちょうど大学院の指導教官、故野口武徳先生の兄弟分だった関係から、当の先生が亡くなった時にも「学問上の叔父さんみたいなもんだから、遊びに来い」と声かけてくれて、実際その後もいい距離感でかわいがってくれた山口昌男が、いきなり「歴史人類学」を標榜し始め、あの『敗者の精神史』以下のやたらと馬力任せで万華鏡ぶちまけたみたいな男前の仕事を立て続けに出し始めていた。また、学生時代からなめるように読み、おのれの肥やしにしていた贔屓の書き手たちの中で、平岡正明が『新内的』や『浪曲的』、朝倉喬司が『凝視録』や『遊歌遊侠』など、それまでとまた一段違う、言葉本来の意味での「歴史」に向かう垢抜けた仕事を見せてくれるようになっていた。さらに、世代を同じくする連中からも、浅羽通明が『渋澤龍彦の時代』、坪内祐三が『靖国』と、それぞれ体重の乗った骨太の仕事、おそらくは後々までも彼らの代表作として語られる一発を繰り出してくるようになっていた。
ああ、やっぱりみんな似たようなこと考えてやがるんだなあ、と、ひそかにうれしく、そして頼もしく思っていた。思って、そんな同時代の仕事を横目で眺めつつ、こっちはこっちのいくさだとばかりに、ひたすらおのれの眼と鼻とでかぎわけ、かき集めた雑本と資料の山に埋もれて、この「無法松」の仕込みをしていた。
楽しかった。そして今振り返っても、疾風怒濤の三十代にそういう仕込みをしていたこと、それは間違ってなかったと、心底思う。どんな境遇にあっても、この先まだ「民俗学者」として世渡りしてゆける自信と覚悟が、こんなあたしにさえもかろうじて宿ったのだとしたら、きっとあの時期だったのだと、いま、改めて思う。
初版のオビの能書きが結構いいものだったので、記念にとどめておく。
「それは、疾風怒濤の一九三〇年代、鉄錆色した北九州・小倉に舞い降りた。/小説「富島松五郎伝」。/俗に「無法松の一生」として知られる物語。/その後映画に、舞台に、歌に、劇画に、さまざまな表現に活け直され、日本人の心深くに生き続けた、とされるあの“無法松”は、しかし、/「自由」と「民主主義」の視線に、/身ひとつで街の底を生きる誇り高き男から、/誰も大好きな“みんなの松さん”へとその姿を変えてゆく――」
でもって、背表紙には、これ。
「にっぽんの男らしさをまっすぐ生きた/遠い背中のなつかしさ」。
そうだよ、都々逸だよ。つくづくバカだよねえ、いまも昔も。
初版の方はほんとにもう、誤植だの誤記だの事実誤認だのが結構てんこもりで、本としてはかなりみっともない部分が正直、あった。世に出したすぐ後にそのへんは気づいていて、二人三脚で作業していた当時の担当編集者の向井徹ともども、付箋を山ほどつけた資料用の一冊を前に「やっぱりオレたちってアタマ悪いんだよなあ」といたく恥じ入っていたんだけれども、幸い今回、文藝春秋社の丹念な校正をもう一度くぐったおかげで、それらはまずほとんどリカバリーできたと思う。向こう傷は勲章、というのがわれら草莽の民俗学者の心意気だけれども、いま、この仕事を新しい読者にもう一度めぐり出会わせてやるために、親として恥ずかしくないだけのことはしてやったつもりだ。
型通りに謝辞を。
まず、これまでの仕事の中から何か文庫にできないか、と持ちかけた時に話をつないでくれた、文藝春秋書籍編集部の藤田淑子と文庫編集部の吉田尚子に。
でもって、何冊か見本に持っていった後で、これがいいんじゃない、とこの『無法松の影』を選んだという文庫編集部長、庄野音比古に。おそらくロクに読まずに選んだはずなのに、さすが眼がいい、とほめておく。
あと、『クレア』以来の腐れ縁で、煩雑な実務までもきっちり担当してくれた「戦友」のひとり、吉田尚子にもう一度挨拶。それと、忘れちゃいけない、初版時に気合いの入った装丁をしてくれた中山銀士さん、今回もいい仕事をありがとう。ちょっとご無沙汰してますが、また、ぜひ組ませてください。できれば書き下ろしで。
そして最後に、ダメもとと思って頼んだのに、なぜかすんなり解説を引き受けてくれた斉藤美奈子に。ちょっぴり、見直したぜ。
二〇〇三年六月 ナンシー関、一周忌の明け方に
*1:『無法松の影』文春文庫版、あとがき。