スターター吉田 高知競馬広報担当

 広報は一年目ですが、以前にも八年やってましたんで一度管理とか業務とかまわってたんです。発走委員もやってて、研修で馬に足踏まれて手術もしました。

 いちばん忙しかったのは、百戦目の前ですかね。一週間前くらいから二分に一回携帯が鳴ってました。事務所の電話はなるし携帯はなるし、おそらく僕あてだろうということで、みんな僕にとれという圧力が……(苦笑)

 取材は結局、33社いらして、その申請書類も全部読めないくらいで、当日にも10社くらい飛び込みの取材依頼も入ってまして。テレビはそのうち15社くらいですかね。99戦目まででのべ60社くらいの報道掲載があって、100戦目で100社超えた形ですね。アメリカニューズウィーク、タイム、サラブレッドタイムズとかいろいろ来てました。カナダのトロットマガジン、オーストラリアのクーリアメイル スペイン通信社。ドイツのテレビも来ましたしワシントンポストも来ます。わけわからんようになってます。

 だいたい日本の駐在員がこられるんですが、昨日は外人さんが来てましたね。あれは初めてです。

 厩舎で起こることは僕しかわからないんで。朝二時くらいにいきなり取材に行ってしまうとか。早朝から観察したいとかいうんで、僕が朝二時から駐車場でクルマの中で待機して対応したり。フジテレビの特ダネ番外編ですね。

――馬房にカメラ持ち込んで夜のウララとか撮ってた番組ですか。

 ええ あれ見た瞬間にハラ立ちましたけどね(苦笑)。最初にテレビ出してくれたのがあの番組なんで断るのも悪いなあと思ってたんですが、あれ以来警戒してます。競馬を知らん人がくると何をするやらわからんので。騎手にゴールの見えるところをバックに撮りたい、とかいうてくるんですよ。開催中やからそれはムリやというたんですが。

 はじめ六月に高知新聞が出してくれたすぐあとは、先生も自分がインタビューに応じたんで反響がきよるんやろ、吉田さんにも迷惑かけるなあ、とかいう手暮れてたんですが、その後じづは僕が報道関係にプレスリリースを出して取材してくれとお願いしてたのがバレてしもて、四十社くらい出した中から毎日新聞さんが取材にとりあげてくれたりしたんです。宗石さんも、なんや吉田さんが引っ張ってきちょったんか、ということになって。

 僕が厩舎までいちいちついてゆきよったき、おおごとにはならんかったんですが。九月くらいか、もう取材は断わっちょってくれ、というんで、ああこりゃもう断った方がいいかなあ、と思いよったんですが、実際取材依頼がくると一応宗石さんに尋ねてみると、四月から九月まではうっとうしゅうて仕事にならんと思いよったけど、ハルウララも奇跡かも知らんけどオレにとっても奇跡かもしれん、と思うようになった、と。ここまで人びとに注目されるようなことは一生にもうないろ、と。やけこれも大事にして、高知競馬のためになるんやろうし、やるだけやってみようと思いだした、と。これはええことかも試練、とおもいなおしてくれたんですね。だもんで、百戦くらいまでは頑張ってやめろう、と。

 98戦くらいからはもう必ずどこかが取材に入るようになってましたね。百戦前一週間は宗石さんは風呂にも入ってないんです。朝着た服は絶対着替えるようなキレイ好きなんですが、寒くなってきて、風邪引いたらいかん、というんでよう風呂入れんかった、というてました。

 走ったあとに泣いてましたよね。あれはやりとげた、というキモチが大きかったですよ。百戦以降は県外メディアは断わっちょってくれ、といわれてたんですがね。映像はかまわん、と。自分がハナシするのがいややき、吉田さんの方でやっちょってくれ、ということです。

 101戦102戦は幸い競馬に使う馬が少なかったんで、宗石さんの起源のよさそうな時にハナシ向ければニコニコ話し手くれるんですが、百戦目はちょうど急騰使ってたんですよ。地獄のような日々やったらしいですけど。

 普通の調教師やってらふたつみっつ取材受けたらあとはもう断わっちょってくれい、となるんですが、宗石さんはなにしろ自分の長所は気が長い、というくらいですから、協力していただいてます。僕はしんどいけんど、吉田さんのキモチもようわかるき、といつもいうてくれるんです。

 88戦目で高知新聞に出て、89戦目の時に僕は、あ、これはスターになるかな、とちらっと思うたんですけど、負け続けの馬を高知県競馬組合の職員が宣伝してええんかな、というのがあって、総務の山中班長というのが上司でいて、吉田くん、ニュースリリースせんでええんかい、とかいうてくれたんで、一応管理者の前田さんのところにもってったら二分くらいうなっとるんですよ。取り上げてくれるとは思えんがのう、とかいうてしぶい顔されたんですが、まあええわ送っちょけ、ということになったんです。

 毎日新聞の高知支局が来てくれて、何週間が後に記者から電話かかってきて、90戦目はいつですか、と言われて、いやもう走りました、と応えたら、それやったらすぐいきます、いうて飛んできたんです。高知新聞やったら県内の新聞ですけど毎日やったら全国に出るというアタマはまだなかったんです。

 イブキライズアップの取材に出かけてて、帰ってきたら前田さんが、おお吉田、今日ハルウララがテレビ出ちょったぞ、いうんで、何のこっちゃと思ったんですわ。

 毎日の中央版のデスクが競馬ファンやったらしくて気に入ってくれて、もとは地方版の記事やったのを、どうも全国版に回してくれたらしいんですね。そしたらそれをフジテレビの小倉さんが見つけてしもて、大々的にとりあげてくれたということらしいんです。

 それを見た報道関係数社がやらせてください、と来て、そのなかに東京新聞があったんです。女性の記者が書いてくれて、社会面に見開きで「リストラ防止の対抗馬」とか書かれてしもて、マスコミの関係の方はどうも東京新聞をよう看取られるらしくて、それからNHKの人間ドキュメントの峰さんとか、平凡社の二宮さんなどもそれがきっかけやったようですね。そこから加速度的にやってきましたね。

 朝開いたらハルウララ載っちょって、おお、これはええ、と自分のデスクにその面だけかくして、会議の終わるまで隠しておいていきなり企画として出したらしいです。そのネタは出した瞬間にだいぶ上の砲の人までが、だいぶええハナシや、というんで即やれ、ということになったらしいんです。北海道の人らしいんですが、ほんまに田舎育ちらしいです。小錦宮里藍とかをとりあげたらしくて、ちょっとNHKにしてはおもしろいネタを扱ってきた人らしいんです。

 主題歌作りましょう、ということ言い出して、ほんでつくったんですが、最初は宗石さんの詞も分解されて超ロックになって帰ってきて、NHkの上の方の音楽関係の大御所みたいな人にハナシしたらしんですがだめで、最終的にはこっち(高知)でやるようになったんです。

 歌詞は、あれ、もともと高知新聞の石井さんがゴミ箱からひろってきたらしいですね。宗石さん、そんなのよう書いてるらしいですよ。別の歌も僕のとこのあるんです。三歳馬の歌、とか。結婚式の挨拶なども、新郎の悪口などを言いながらやるとウケるんや、とかいうてました。もともと漫才師というか、コメディアンになりたかったらしいですしね。ハルウララのTシャツなんかも、写真に詞があしらってあるんですが、それ見た時もこのならびはいかん、というんで、三回くらい作り直されたりしたんです(笑)

 歌詞の、やっぱりダメねウララちゃん、というところがひっかかって、結局ファンの前に出す商品にはならなかったんですが、これはもったいないな、とずっと思ってたんで、帰りがけのクルマの中で鼻唄がうかんできたんです。それが百戦目の二週間前なんです。ああ、これもまた埋もれるわ、と思ってたんですが、いちかばちかで歌入れてみよか、と思ってカセットに歌入れて近森課長に聞かせたら、お、つくろか、とスッと言われてこっちがびっくりしてしもて。

 知り合いの作曲家とかも近森さんから電話しまくって、いつつくるか、いや来週、というたらようせんわ、と。僕はだいたいカントリー風を想定してたんでギター弾ける人を探したんです。ライブハウスまわったら、RKCラジオが昔のフォークソングを流す番組があったんでここならと思って電話したら、ほんなら探しときますわ、といわれて、三時間くらいで電話がかえってきて、堀内敬さんがやってくれるいうとるで、と。ハルウララのファンやし、オカネとは関係なくやってええというてる、と。

 僕のその鼻唄のテープを渡して月曜日に堀内さんに渡したら火曜日に曲ができてきた(笑)曲の前に、永渕剛風で、ギターのイメージはあらいぐまラスカルのイメージで、最終的にははしれコウタローをちらつけせながら、と注文つけたんです。そしたら、ほんまにその通りになってた。

 サポートKRAで限定百枚。百戦目が百枚で2日はアルバイトとか雇って三百枚くらいつくったと思いますが、みな売り切れました。今回も百枚くらいあるのかな。とにかくびっくりしました。