「ネット心中」は珍しいか?

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 「ネット心中」だそうです。なにせ「心中」ですから、ことはおだやかじゃありません。

 「六本木心中」という曲があります。いまをさかのぼること約20年、85年のアン・ルイスのヒット曲。未だにカラオケで好んで歌う人も少なくない、間違いなくニッポン歌謡曲史上の名曲のひとつですが、湯川れい子作詞のこの曲のネーミングは、当時すでにカビ臭いものになっていた「心中」が「六本木」(いまみたいな不良ガイジンの歌舞伎町、的な安っぽさがまだない頃です)とのマッチングで新たなイメージを喚起してくれたものです。

 ことほどさように、「○○心中」というのは、それこそ近松門左衛門以来、われらニッポン人のココロの奥深くにプログラムされている何ものか、に、カラダごと突き刺さってくるもの言いのひとつです。そういう民俗的な官能の領域に関わる語彙なわけで、ならば、その「心中」と「ネット」とが出会ったらどうなるか、というのがひとまずのおハナシです。

 インターネット、がからむとどんなあたりまえのできごとでも、何か新しいこと、これまでになかった事態、といった方向に解釈されてしまう傾向があります。パソコンの普及、ブロードバンド環境の拡大、さらにはネットに接続できる携帯電話の広がりや、小学校から施されるようになっているIT教育、などまで含めて考えれば、インターネット自体、われわれニッポン人の生活環境でもはやそんなに珍しいことがらでもなくなってきているはず、なのですが、未だに「ネット」というだけで、よくわからないもの、というわかりやすさがあります。

 はっきり言います。「ネット心中」なんて、そんなに新しいことでもない。

 郵便制度が普及していった頃、そして読み書きが普通の人の間にも広まっていった時代、「文通」というあたらしい作法が顔も知らぬ同士に生まれていった。それを媒介する「雑誌」というあたらしいメディアも複合して、それらは新たな関係のつくり方を提示し、それらは当然、うっかりと内面に気づいてしまった近代のニッポン人にそれまでにない難儀もまた、背負わせることになった。昨今言われる「出会い系」サイトなんていうのも、この「雑誌」を介した「文通」の延長線上と考えることもできるわけで、まあ、歴史なんてものもまた、そのようにうつろいゆく日々の暮らしの中でココロの安定を保つためにこそ、使われるべき智恵の集積のはずです。

 「ネット心中」もまた、そのような「文通」を介して出会った見知らぬ同士が意気投合、何かのはずみで心中に至る、といった当時の事件と、基本的には連続しています。しかし、同時にまた、そういう見せかけのわかりやすさだけでそれをいまどきまだ「心中」と名付けてしまう、そのように解釈したいわれわれのココロの傾向自体もまた、民俗学者は気になります。

 改めて言うまでもなく、「心中」とはオトコとオンナのココロの領域がねっとりとからみついてくるもの言いです。先の「六本木心中」の頃までは、そういう「心中」というもの言いのあやしさ、なまめかしさ、あやうさなども全部ひっくるめてまだ何ほどかの情緒を喚起することが可能だった。でも、いまはどうでしょう。

 ネットを媒介に出会った若い衆が、男女であれ、多人数であれ、意図的にであれはずみであれ、うっかりもろともに死んでしまう、それは確かに「心中」によく似た形のものかも知れないけれども、しかし、そのココロの内実にはおそらく決定的な違いがある。いまどきの「ネット心中」にはそれまでのオトコとオンナ、もっと言えば性的存在としてのわれわれニンゲンに関わる逃げようのないココロの難儀、の領域がどうもそれほどからんでいない、そんな印象があたしにはあります。

 だから、それは「心中」ではない。少なくとも、これまでわれらニッポン人が抱いてきたような「心中」というもの言いに即した現われではない。なのに、われわれはまだそれを「心中」というもの言いに引き寄せて解釈しようとしてしまう。そのことが、おそらく昨今の「ネット心中」という現象から学ぶべき、意外な側面のひとつなのだと、民俗学者のあたしは感じています。

 ふたりで暮らせばダメになる/別れりゃなおさらダメになる

        「心ノ中ノ日本」作詞・能吉利人 作曲・長谷川きよし

*1:去年の夏ごろだったか、産経新聞に書いた原稿。まぎれちまわないうちに