越境する2ちゃんねる

 

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 とある地方でのこと。片側三車線のまずは立派な郊外道路を走っていたら、前のクルマのリアウインドゥに黄色いステッカーが。見るともなく見ると、そこには「先に逝ってよし!」。

 なんかもう、瞬間にして腰から力が抜けましたな。もちろん文字だけじゃない、お約束のアスキーアート、例の「ギコ猫」もきっちりと描かれていて、あのステッカーは果たして売り物なのか、それとも酔狂で自分でこさえたものなのか、いやもうとにかく、びっくりするやら情けないやら。

 ことほどさように「2ch」が白昼、あたりまえの生活の中にいきなりぬっと現われることは、ココロにただごとではない動揺をもたらすらしいのであります。

 こう言ってもちゃんと説明しないとわからない向きには何のことやら、でしょうし、もうここまで読んでニヤニヤしているような手合いにはこれ以上何の説明もいらんでしょう。一応解説しておきますと、この「逝ってよし!」というのは、ネットで圧倒的なアクセス量と影響力を誇るまでになった巨大匿名掲示板「2ch」から発信されるようになった常套句のひとつ。「ギコ猫」というのも、同じく「2ch」出自のアスキーアート――つまり絵文字のもっと高度化したやつですが、まあ、そんなキャラなのであります。

 インターネットの普及は、まずウィンドウズOSの覇権化によってパソコンが家電製品並みに誰もが触れるものになったこと、そして次に、携帯電話との接続やISDNなどの快適な通信環境が整えられるようになったことなどで、九〇年代後半からこっち、急速に進みました。そして昨今じゃもう、ASDLだの何だのとブロードバンド環境までがみるみる安価になってきて、常時接続までが普通に可能になってきた。ごくごく一部のマニアックな人間たちの狭いアサイラムだったパソコン通信時代からすれば、世代や階層を一気に飛び越えたとんでもない拡大ぶりであります。

 「2ch」は、もともとUG系などと呼ばれていた「アングラ」掲示板の流れから出てきました。詳細ははしょりますが、匿名で誰もが無料が書き込みができるこの種の掲示板は情報の真偽とりまぜ、悪意も善意も何でもありの無法地帯のようなもので、インターネットを一時何やら「市民」社会の象徴のように考えたがっていた向きなどからは蛇蝎のごとく忌み嫌われていたのですが、しかし、ネットに接する人々が急速に増えてゆくにつれて、この匿名掲示板が予想以上に大きな吸引力を持つようになったのであります。

 その理由はいくつかあげられますが、ここであたしが強調したいのは、特に誰がコントロールしたわけでもないながら自発的にそれなりの秩序とセキュリティの基準が生成されていったこと、これであります。

 「管理人」は確かにいるし、技術的なメンテナンスも含めて「管理」業務は当然、起こってくるわけですが、しかし、それまでの爆発的な普及前夜のネットでよく言われたような「ネチケット」的な倫理基準で杓子定規で一律に管理するようなことを、これらUG系出自の掲示板は代々してこなかった。悪く言えば野放し、良く言えば自由放任で、板が荒れれば荒れたでまた別のところにたむろする場所を見つけて盛り上がるだけという遊牧民のような世界観、もっと言えば盛り場の呑み屋の盛衰に似たようなルール意識が、そこに集まる不特定多数の間にいつしか作られていったというのが、ここまで拡大する大きな要因だったはずです。つまりね、「自由」ってのは教科書や乾きものの能書きなんかじゃなくて、実にそういう学び方をされていったんだなあ、と、そういうことなんですけど。

 何を言うんだ、今の「2ch」だって十分に無法地帯じゃないか、ブラクラ貼るバカはいるし、コピペでスレを荒らすのも常套手段、パソ通以来の醜い罵り合いや罵倒合戦、煽り地獄も日常化しているわけで、どこにそんな秩序があるんだ、と息巻く向きもあるでしょうが、ちとお待ちあれ、開き直って言えばそれこそがあたしたちの生きる現実、善意の「市民」ばかりが社会じゃないという当たり前の〈いま・ここ〉を、わかりやすく反映してくれているんじゃないでしょうか。

 何より、「ドキュン」というもの言い自体、「2ch」界隈で一挙に増幅されて広まったもの言いであります。「ドキュン」をバカにし、ネタにしてゆく現われの背後には「2ch」に象徴されるようないまどきのニッポン大衆社会の「その他おおぜい」――ミもフタもなく言えばいまどきの「常民」の最大公約数な意識が横たわっている。「常民」が同時に「常民」である自分たちの実存を相対化し、ツッコミを入れるようにもなっているという、ムツカシい概念で説明したらそれなりにもっともらしくなるはずの、しかし考えたら今や誰ものココロの内に宿ってしまっているような、そんなニッポンの〈いま・ここ〉の意識。かつて、AMラジオの深夜放送がある種、特殊な共同体を形成していったのとある意味で似たような、表の日常からは見えにくいアサイラムがネット上にはなるほど出現していて、その最も集約的に現われたのが「2ch」なのでしょうが、それは表に対する裏、メインカルチュアに対するサブ/カウンターカルチュア、といったこれまでの対抗図式だけで理解できるようなものでもない、そのへんがニッポン固有の難儀なところであります。

 たとえば、この共同体は情けないまでにつつましやかです。わかりやすく言えば、テレビや新聞といった表舞台の「マス・メディア」との徹底的な対抗関係で成り立っている。テレビ報道や新聞・雑誌の語り口などをネタにツッコミを入れまくるのが命で、といって自分たちが表に立とうという意識はまずない。それどころか「こんな2chなんかに入り浸ってるオレたちなんてろくなもんじゃない」という意識が強烈にあります。だから、これらネット出自のもの言いその他も、それほどダイレクトに表のメディアに反映されてこない。むしろそういう回路を禁欲しているところさえあって、それが証拠に「2ch」ネタが週刊誌の記事になったりすると、それっとばかりにバカにされ倒すのがお約束。このへんの距離感というか、ビミョーな倫理感というのはほんとにけなげというか何というか。

 そう、良くも悪くも、いまどきのニッポンの「観客民主主義」の一番蒸留され、濃縮されたエッセンスが、この「2ch」的「常民」意識なんだとあたしゃ思っています。「ドキュン」をバカにし、差別化し、それでいながら自分たちも間違いなくそういう「ドキュン」の範疇に入っていることを自覚している、そんな屈折した意識。

 とは言え、不思議なもので、ふだんの日常で自分が「2ch」に出入りしていることがわかってしまった時の感覚というのは、何というか、エロ本を読んでいるのを見られたり、風俗通いがバレちまった時のような、ミョーなバツの悪さがあります。「大人のくせに」とか「ちゃんとした社会人のくせに」といった前提がそこには張りついている。だからこそ、「2ch」出自のもの言いその他は簡単には表沙汰にならない。白昼、得意顔で「逝ってよし!」などを口にするのは死ぬほど恥ずかしいことで、人前でおおっぴらに明らかにするようなことではない、と。だからこそ、冒頭のステッカーを貼ったクルマを目撃した時も、あたしゃわざわざ追い越しかけてドライバーの顔を確認しようとしたのでありますよ。

 軽い茶髪、メタルフレームのメガネをかけた、でも、決して「おたく」というわけではない、どちらかというとスノボでもこなしそうな感じの色の黒い、筋肉質な若い衆でした。クルマは、え~と、気持ち「走り屋」系のテイストのスポーツタイプセダン。おそらくカーステレオでもかけていたのか、首を左右に少し揺らしながらじっと前方を見つめていましたな。

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