こころは正しく〈私〉に

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 最近、耳につくもの言いがある。「心のケア」というやつだ。何か事故や事件が起こるたびに、その場に居合わせた人たちの「心のケア」が大切だ、とひとこと付け加えるのが、いつの頃からかメディアのお約束になっている。関連して、PTSDなどというのも出てきた。心的外傷後ストレス障害」の略というが、横文字だけにさらになじめない。

 これら「心のケア」系のもの言いがクローズアップされるようになったのは、阪神大震災地下鉄サリン事件のあたりからだったか。御巣鷹山日航機事故の時にはまだそれほどでもなかったような気がする。とすれば、やはりここ十数年で浸透したもの言いということか。

 確かにこういうもの言い、戦時中にはなかったろう。空襲は、いや、かの原爆は……言わずもがな、戦地はもとより銃後も日々PTSD続出だったはずだが、思えばわれら同胞は健気だった。「心のケア」より「食い物のケア」「もののケア」で日々生きてゆくことが正義。心の問題など、人それぞれが自前で始末してゆくしかなかったし、それが当たり前だった。生きるとは、ひとまずそういうことだった。心の領域は正しく“私”の問題。だからこそ、まずは人ひとりを支える身の回り、家族や親戚、友人や職場の仲間……何であれそういう身の丈の関係で引き受けるべきもので、いきなりカウンセラーだの医者だの、“よその人”に頼る問題でもなかった。まして、補償や賠償など口にすること自体、恥ずかしいこと。それが、言わばニッポン流「個人」主義でもあった。

 社会=「公」が人の心の領域=「私」を意識するようになったのは悪いことではない。「豊かさ」とはそういう果実もはらむ。だが、いまやそれを逆手に取って、何かというと「心が傷ついた」を免罪符にしようとする卑しい心性もまた、どこかに巣くっていないか。「私」を大事に思い「心のケア」を口にするのならなおのこと、そういう自己反省も忘れてはならないと思うのだが。

*1:文中、消し線入っている部分は、例によって削られました……