生活・暮し・日常――開かれた民俗学へ向けての理論的考察③

 知識人や《文化》人は(どういう理由からか)日常生活は低俗なものしか提供できないと頭から固く信じている。このような確信は、あらゆる非形而上学的生活を陳腐なもの、公認されないものとして投げ捨ててしまういわゆる《実存》哲学においては、重要な役割を演じてさえいるのだ。日常生活の研究は、秘密の人、内的生活の人、神秘の人も、陳腐な日常生活を持っていることを明らかにする。」※1

*1

はじめに

 明治期以降の近代化/西欧化の過程で、近代以前の生活文化のディテールを糸口に「歴史」を回復し、それを足場に「未来を選択する」ための国民的データベースを構築することが、柳田國男の構想した日本の民俗学の初発の目的でした。そのように回復され再編成された「歴史」を媒介にしつつ、大衆社会状況の進行する国民国家における有効な、新たな国民統合への願い――柳田自身の言葉によれば「良き選挙民の育成」が、「運動」としての民俗学の過程には埋め込まれていました。まただからこそ、官製の大学制度や既存のアカデミズムとは直接関わることのない「野の学問」としてひとまず輪郭を整えてくることもできました。

 そのような中、民俗学とは日常生活の些末なディテール、殊に非文字の資料として存在しているそれら「民俗」を介して「歴史」の全体像を回復し見通してゆく、そういう学問だと巷間言われ、また自身そのように思ってきました。「民俗」という術語で眼前の現実から事実を切り取りそれらを「採集」してゆく、その手法自体は戦前、全国組織が整備されてゆく過程である程度整えられてゆきましたし、それに伴う成果ももちろんそれなりに蓄積されてゆきました。

 けれども、肝心のその「民俗」がどのように眼前の現実、言い換えればその土地その場所の日常生活とからんで現実に存在しているのか、といったあたりの認識は積極的に共有されないまま推移してゆきました。いわゆる衣食住に代表される、日々繰り返される日常生活の個別具体に合焦し、まずはそれらを「採集」してゆくことを重要なミッションとして自他共に認めてきたにも関わらず、ならばそれらの作業の結果、現実の日常生活そのものについては、方法論的にも認識論的にも民俗学自身が自ら省みようとした形跡は実は案外と希薄なままです。※2

 民俗学にとって対象とされるべき現在は、日常生活として認識されるよりも前に、ひとまず農山漁村、「ムラ」と呼ばれるものとして立ち現れていました。日常生活を構成しているディテールとしての「民俗」はそれら「ムラ」に赴くことで「採集」できるという素朴な認識は、組織としての民俗学が成立する当初からあたかも初期設定のように刷り込まれていましたし、その組織化の中心にあった柳田國男自身の農政官僚としてのキャリアからも、記録された十分な文字資料の乏しい、だからこそ自ら現地に赴いて非文字の資料=「民俗」を現在から「採集」するしかない農山漁村、という認識は自省以前、あらかじめ動かしようのないものでもあったようです。

 そういう意味で、民俗学にとっては日常生活という認識以前にまず、「ムラ」こそが所与のものであり、自明のものでした。少なくともそういう時期が長く続き、その結果、民俗学とは「ムラ」を考えるべき学問であるという自己規定を本質的に疑うことないまま過ぎてゆきました。※3 「柳田氏を指導者とする主流の中では、実をいうと、村は単なる民俗採集の有力な場であるにすぎなかったといってよいと思う。」「しかしながら、もしも村がそれほど重要な民俗採集の場、いいかえるならば民俗をもち伝えてきた場であるとするなら、どのようにして村はその民俗をもち伝えてきたかということを村と当面したその場で当然問題にせねばならなかったと思う。」※4 しかし、それは高度経済成長以降の「豊かさ」がもたらした広汎かつ深刻な社会変動に、民俗学が対応できず事実上枯死していった大きな原因になっています。

 〈いま・ここ〉という意味での「現在」の復権、あらかじめ刷り込まれた概念や術語、それらを自明の前提にした枠組みや理論の類から極力生身の意識を遠ざけたところでの眼前の現実の失地回復を、現代社会に対峙できる民俗学の脈絡において志そうとする時、これまで民俗学「日常」や「生活」といったもの言いで表象されてきた領域にどのように向かい合い、そしてそれらを疎外してきたのかについて静かに自省してみることが必要になってきます。それは認識論的な意味での作業であると同時に、民俗学という営み自身がこれまで日本語環境でどのようなもの言いを介した同時代性の中で自らを形作ってきたのかについて、言わば学問の自意識を内側からのぞき込むようにしながら現在の時点から改めてほどいてゆくことで、これまでの民俗学が自らを縛っていた桎梏を自覚し、未だ放置されているその同時代的可能性を開いてゆくことにつながってゆく作業になるはずです。※5


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「世相」と「風俗」――「世相篇」と考現学、その同時代性

 〈いま・ここ〉という意味での「現在」と正面から取り組んだ民俗学界隈での仕事と言えば、まず柳田國男の「明治大正史・世相篇」があげられるでしょう。言うまでもなく、新聞記事を元に明治大正から昭和の初めにかけての「世相」のうつろいを記述し、そこにはらまれた「歴史」の水準に気づかせようとした、戦後柳田國男の再評価が盛り上がった時期でも民俗学以外の領域からの評価の高かった仕事です。ここで使われた「世相解説の史学」という言い方も、そのような眼前のうつろいゆく現実にはらまれている「歴史」の相に気づかせてゆくような、言わば発見と啓蒙を契機とした設定になっていました。

 この「世相篇」が刊行されたのは昭和5年(1930年)、朝日新聞社のシリーズとして企画された「明治大正史」の一巻として、当時同社の論説委員でもあった柳田自身が担当する形になっています。表題に含まれるこの「世相」の意味について、別の場所で彼はこのように言っています。

「一般的に文化といい現わされている内容は、現代狭い意味でいう風俗とはまた別の意味で、ある限られた部分に使われている。だから実際の国民生活の世相というような面を現わすとすれば、やはり古く使われてきた風俗の方が妥当であろう。(…)「明治大正史世相篇」は、そういう立場から、世の移り変わりすなわち風俗の書として書いたものであった。」※6 

 「世相」とは「風俗」とほぼ同義と考えてよい、他でもない柳田自身そう認めています。眼前の事実、うつろいやすくとりとめない形で生起する現実をまずは素朴に言い表そうとしたもの言いと考えていいでしょう。

 とは言え、それはムラに存在する「民俗」を「採集」するように、彼自身が旅を介して足を運んで見聞してきたものではありませんでした。当初の構想では新聞記事「だけ」を資料としてと考えられていたように、その「世相」「風俗」も新聞というメディアを介して「採集」されたもの、という考え方だったようです。言い換えれば、書き手としての柳田が扱うべき資料としては手もとに集められた、あらかじめある形式に即した文字というメディアに変換され整えられた「事実」であり、それらの集積として「世相」「風俗」としての現在は立ち上がり得るという確信があったということになります。※7

 これに対して、その同時代にそのような〈いま・ここ〉と正面から取り組もうとした仕事に、今和次郎らの考現学がありました。こちらも昭和2年(1927年)に「考現学博覧会」と称したイベントを仕掛けて当時としてはメディアの寵児となり、「世相篇」とちょうど同じ頃、「考現学」「考現学採集」と立て続けに著作を刊行、「現在」を相手取った新たな知的営みとして脚光を浴びていました。その彼にとっての「現在」は、ひとまず「風俗」というもの言いによって表現されています。

 「断らなければならぬが、風俗とは私は假りに持って来た名辭である。生活様相とも、其他何なりと適切な名辭があればはめ代へていいのである。ただ一つ注意を要する事は、普通に使用してゐる所謂風俗なる言葉は、ある観念の下に観察された幾分無責任な趣味的(非客観的)な観察下の事象を云ふきらひはあるが、私の云ふ風俗とはそんな習慣からはなれて考へた上の事としなければ誤まられる恐れがある。かかる通俗に使用されてゐる意味からはなれて、如何なる組織の社會の生活にも必然その社會生活體の表面的様相として現はれるサムシングを指しての事である。」※8

 ここでも直接にまず相手どるべき現実とは「風俗」であり、そのような意味での現在であるということが明快に標榜されています。問題意識としては、柳田の「世相篇」におけるそれと基本的に共通していると言っていい。ただし、違いがあるのは、新聞記事を介して現在を再構成し得ると考えていた柳田に対して、今たちの考現学は現在に自ら生身を介して対峙し、それらに対して主に視覚を介して記録・記述してゆくことを当座の具体的な目標にしていたことです。同じ眼前に展開する現実、そのように認識される「現在」をひとまず相手どろうとしていることについては変わらずとも、ならばその「現在」をどのような方法意識と具体的手続きによって対象化してゆこうとするのかについての目算は、彼我の間にこのようにこれまであまり気づかれないまま推移してきた違いをはらんでいたようです。※9


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「生活」というもの言い――その戦前と戦後

 これら「世相」や「風俗」として昭和初年の時期にひとまず意識されるようになりつつあった現在=〈いま・ここ〉への志向は、少し別の角度から見れば「生活」というもの言いを介して表象されてきてもいました。

 もともと「生活」をそのものとしてとらえる、個々の事物に即して言葉にし、それらに知的な処理を施す前提として一定の方法的意志の下に制御しようとしてゆく、そのような発想は、少なくとも日本語環境下の「学問」の明治このかたの来歴にはかなり希薄なものだったようです。とは言え、「生活」という語自体は、特に文脈を限った知的な術語としてでなく一般的なもの言いとして「生活史」や「生活文化」といった言い表わし方と複合しながら、民俗学にとってもなじみのある文脈で使われてきてはいました。

 それらは文字資料中心の、編年的な時間意識を前提として政治や経済などの水準に第一義的に合焦してきたそれまでの歴史学の視線からははずれるような領域を表現する文脈で主に使われるようになってきていました。文字以外の資料もまた歴史を構成し得ると考えることによってそれら「生活」の領域も含めて「歴史」の拡大を考えたのが民俗学の初志だったわけですが、そういう意味では、広義の歴史を取り扱う学問領域の拡大に伴い、それまで積極的に合焦されることのなかった新たな領域を指し示すもの言いとして「生活」はその姿を現わしていたと言えます。

 ただし、それは今のわれわれが使うような意味での、良くも悪くも概念化され、その分また操作や制御もすでに加えられてきた経緯をはらんだ果ての眼前のもの言いとしての「生活」とは異なり、当時の感覚としてはまず素朴な眼前の現実、所与の対象としてまず方法的自省抜きに認識されるようなものでした。その意味でそれはまさに即自的な「現在」であり、生身の個々の主体が否応なく直面せざるを得ない現実ではありました。

 同時にその頃、また別の方向からも「生活」は注視されるようになっていました。それは民俗学が合焦したようなムラでなく都市の、言わば近代化の最先端の現実に対してであり、しかも主として政策的な必要からそれまでの視線からは見えにくかった「生活」という枠組みで新たな現実が認識されるようになってゆきつつあったことに伴うものでした。

 そのような流れとしては「1920年代における近代的な都市生活様式の形成を、それぞれ独自の視点から解明していこうとする」「権田保之助の民衆娯楽論、森本厚吉の文化生活論、今和次郎考現学」など大正期の生活研究があり、その後続いて「大河内一男、永野順造、安藤政吉、篭山京などによる国民生活論」が1940年代に起こってきました。※10 「そこに共通していたのは、労働力の再生産すら危機に瀕するような国民生活の現状に対して、国民生活が理性的に再生産されていくための最低条件を解明しようとする問題関心であった。」※11

 これらの流れはその後、いわゆる総力戦段階になると、「国民生活」というもの言いで国内のリソースを集約的に戦争へと動員する目的で前景化されてゆきます。政策的視点からの「生活」とは、いずれそのような大文字の概念から網をかけるようなものとして、あらかじめ外的に規定されるものとして当時、政策的視点を制御する立場において強調して意識されるようになっていました。結果としてそれらは国民の日常生活を「非常時」という認識を介して、時に政策的強制によって自在に操作され得るものだ、という感覚を共有させることになりました。と同時に、だからこそ「日常」「生活」という現実に対する改めての自覚と認識を人々に強く促すことにもなりました。

 それらの流れの上に戦後、「生活学」という言葉も現われてきます。昭和26年(1951年)に今和次郎が提唱したのが嚆矢とされます。「それは国民生活論との格闘の所産であったといってもよいかもしれない。東北地方の農山漁村における生活改善運動に積極的に携わった体験を通じて、今は、伝統的な慣習にとらわれた農村生活の根本的改善の処方箋を作成するためには、まずなによりも人々の日常生活を総体的に把握する必要性を痛感していた。」※12

 ここでは同じ「生活」というもの言いが、転変の末に戦前と異なる意味と内実をすでに背負わされています。眼前のうつろいゆく現実、それをまずそのものとして意識し対象化しようとしてそれまで使われた語彙が「世相」であり「風俗」だったとすれば、それが「生活」へとこのように変わってゆく際には、すでに眼前の現在とは違う、明らかにある知的操作をくぐった対象化がひとつ施されていること、比喩的に言えば〈なまもの〉から〈乾きもの〉へ変わってゆくような過程が見てとれます。

 いずれにせよ戦後の言語空間において、この「生活」が新たな焦点として意識されるようになったのは、先に触れたような総力戦体制下での政策的目線から対象化された日常生活=「国民生活」が政策的強制を伴い激変してゆくことで、人々の日常への自覚と意識を期せずして強めていたことを前提に、敗戦後それらの延長線上に訪れた混乱によってそれらを対象化する必要が切実に見出されたことがあります。それは別の角度から言えば、女性・婦人の管轄する現実が改めて「発見」され意識されてゆく/ゆかざるを得なくなった過程でもありました。※13

 同じ時期、同じ時代の空気の中で民俗学に対しても、歴史の側から文化史、ないしは生活史という性格づけがそれまでより明確にされるようになっていました。「文化」であれ「生活」であれ、いずれそれまで相対的に軽視されてきた歴史の認識のされ方からすると、これは新たな領域としての名づけ方であることは変わりません。※14

 それらの動きは「戦後」の言語空間においてその後も拡大してゆきましたが、そのような大きな流れの中で、言わば先験的な概念としての「生活」に対して自覚的になってゆくことと共に、それとの関係で、しかしそれよりもさらに直感的に、眼前のとりとめない現実を直接、手づかみに把握認識しようという意識もまた宿り始めていました。民俗学に関して言えば、それは具体的にはたとえば「ムラ」への関心の直接的な合焦という形で現われ、自明の所与であり続けてきた「ムラ」の方法的な再発見と新たな対象化、とでも言うような動きが顕著になりました。

 「民俗採集は現在の村を調査の場としながらも、近代以前の事情がどうであったかという古いものへの関心を基としているから、調査の場である村の現状よりも、老人の記憶などにある、より古いものを引き出す方に力を注ぎ、そのような中から引き出された個々の民俗の比較研究から、古い村世界をリコンストラクトしようという意欲がかもし出されて、こうした意欲が現在の村をどういう方法でか民俗学的な側面から全体的にとらえようとする努力の結集を阻止してきたということも考えられる。」※15

 それまでも「ムラ」は、農山漁村に代表される地域のコミュニティ、一次産業に依拠した相対的に「古い」、近代以前の生活文化が「残存」している度合いの強い土地の代表として想定されてきました。これは柳田自身が農政学者として、そして農政官僚としてのキャリアを開始する中で必然的に導き出されたものでもありました。それまで近代的な知性とその視線によって「学問」として捕捉されることの乏しかったそれら「ムラ」に対して、官僚としての職業意識が前提にあったとは言え、新たにことばにし認識し、意味づけてゆかねばならない現実として「発見」されていったというわけです。

 とは言えこの後、戦後のこの再発見の契機に曝された「ムラ」が、地理的・空間的な地域という意味だけでなく、さらにある文化の機能的連関を伴う総体だったり、ひいてはさらに抽象化された観念として、時には「回復されるべきむかし」であったり「早急に記録しておかねばならない文化財」であったりするような認識の中に放り込まれる動きも出てきます。特に、カタカナやひらがなで表記される「ムラ」や「むら」は、自然村的な意味から発するそれに比べて、良くも悪くも抽象度を高く設定された観念的なものとして意図づけられた場合が多くなってきます。学問としての組織固めや対世間的な存在証明を強めてゆく必要があったことともあいまって、民俗学とそこに宿った自意識はさらに一段と、それらあらかじめ疎外された抽象の方向へと自らの認識枠組みを仮託するようになってゆきます。いったん素朴な現在=〈いま・ここ〉として合焦できそうに見えた「ムラ」という現実は、かくてまた身を翻して抽象的な表象の向こう側に身を隠してゆくことになります。

 しかし、そもそも「生活」というもの言いは文脈によっては、「科学」と対抗的な何ものか、を指し示す意味で使われもしていました。たとえば、歴史学者津田左右吉が戦後、マルクス主義史学との軋轢の中である時期から敢然と「生活」の語を好んで使うようになってくる経緯を、網野善彦はこう述べています。

「これ以後(マルクス主義との直接的葛藤があって以降……引用者註)の津田氏の論文には、最初にのべたように意味での「生活」の語が著しく多くなり、「科学」に対する消極的評価が目立つようになってくる。そして、さきに「否認」するのではない、といった人類一般の普遍的な生活の進展の経路についての言及はほとんど影をひそめ、諸民族の「生活」の差異、特殊性が強調され、(…)「歴史の研究の任務は生活の進展の一般的な、人類に普遍な、法則を見出そうとするところにあるのではなくして、国民の具体的な生活のすがたとその進展の情勢とを具体的なままに把握し、歴史としてそれを構成するところにある」という側面が、くり返しのべられるようになるのである。」※16

 「科学」の普遍性を盾に一般法則を求めようとする態度への対抗的位置を明確にするために、この「生活」というもの言いが使われていることに注目しましょう。普遍でなく個別であり具体であり、そのような現実の水準から離れない、ということを表明する意味での「生活」。これは、今和次郎が狭義の「科学」志向に走る当時の家政学を批判し、その文脈で戦後敢て「生活学」を標榜していったことなどとも同じ文脈で理解していいものでしょう。

 「今日の家政学をのぞいてみると、常識のある人ならばわかりきったことを、くどくどと順序立てて述べている。そして少し立ち入ったことは、ほかの学問からの借りものである。まるで何かの雑誌の附録の調法帳とでもいえるのが今日の家政学ではないのか。(…)もう少し何か生活について考えさせ、個別的な工夫が展開することに期待をかけるようなものでなければならないはずのものだと思いたい。そうあることの一つは、「家庭」というものにあまりにこだわり過ぎる視界の狭さからとも私は考えて、「家政学」というのをやめて、個人生活をも、家庭生活をも、また社会生活をも、一枚にした対象として研究する「生活学」という名目にしたほうがとも考えてみているのである。」※17

 「生活」「家庭」「暮し」……表象のされ方は異なっていても、その向こう側に少なくともそれまでは明確に合焦しなかったような領域が、もはや無視できない程度に明瞭にはっきりと意識されるようになっていた、これらがそのような感覚を前提にした現われであったことは間違いありません

 それはさらに視野を広げてみれば、敗戦後の「現実」をとりとめない現在のまま何とか把握したい、「わかる」へ向けて何とかしたいという同時代の世間に宿った焦燥にも似た感覚にも通底していました。「生活」であり「暮し」であるような水準の現実。衣食住にひとまず象徴されるような、誰もがそこから逃れられない日々繰り返される具体的でささやかで、とりとめのないルーティンの連なり。それまでも「世相」と呼び「風俗」と名づけていた表層の現実ともそれは重なる領域ではあったけれども、ただもはや「世相」や「風俗」といったそれまでも使われていた通りいっぺんのもの言いでは気分としておさまりきれない何ものか、が膨らみ始めていました。


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「暮し」へ、そして「日常」へ

 同じ頃、昭和24年(1949年)に新たに創刊された雑誌『美しい暮しの手帖』を介して花森安治が示してみせた「暮し」もまた、当時まだ目新しい言葉でした。少なくとも、彼が意図して使い、そしてその後われわれも今に至るまでそのような意味を込めて使い回すようになった内実も含んで言えば。

 しかも、そこには「美しい」という冠がつけられていました。※18

 「暮し」とはもちろん「生活」であり「日常」でもあったわけですが、それが「美しい」というひとつのものさしによって価値を計測され位置づけられるということまでも含めて、当時の人々にはおそらく新鮮だったはずです。なぜなら、生きてゆくということだけで精一杯、時間も労力もめいっぱいかけて何とか日々をやり過ごすこと、それが生きてゆくことであり、「生活」という言葉の内実というのは最大公約数の日本人にとってそういうものでしかあり得なかったはず、だったから。まして敗戦直後間もない頃のこと、日々繰り返されるルーティンとしての日常生活のありよう自体が不連続なものとなり、衣食住の最低限を確保する営みそのものがむき出しとなって日々の切実な必要として認識されざるを得ない、そんな状況ではそれらルーティンを対象化する余裕など宿りようもないのが大方だったでしょう。

 そんな中、「美しい」と冠をつけた「暮し」というもの言いは、敢えて自分たちがその中に巻き込まれてある疾風怒濤の日常の営みもまた、そのような対象化し考えてゆくことができる、その可能性にわかりやすく気づかせるものだったはずです。啓蒙といういかめしいもの言いも、このような場合には胸を張って寄り添ってふさわしいものになります。

 「暮し」が、「日常」が再編成し得る、そういう認識もまた当時、目新しいものでした。※19「変える」ことは考えられても、それが「日常」という全体性の中でどのような価値観や美意識、有用性などによって制御されるべきなのか、そのような「生活」文化論、「日常」論を介在させたところでの考察や議論は、そもそも宿る場さえなかなか確保できないようなものだったようです。

 振り返ってみれば、あの柳宗悦の「民芸」運動などにしても、「無名」の陶工が単なる消費財として作った陶器雑器に「美」というものさしで新たな価値を見い出した、その限りにおいてその時点では「日常」を対象化してゆく契機としての意味を持っていたと言えるでしょう。同様に今和次郎らの考現学運動にしても、記録すること自体の愉しさが先行していたとは言え、眼前をただ流れ通り過ぎてゆくだけと認識されていた「日常」に主体的かつ意識的に関わることでストップモーションをかけ記録する、その作業の意味を発見してゆくことでそれら「日常」を改めて考察の対象にし、そこから先の新たな議論の俎上に載せてゆく下ごしらえをすることだったはずです。

 とは言え、そのような知的営みを行う自分自身、どうしようもなく生身の、その限りでどうしようもなく「日常」「生活」の局面に囲繞されている自分という認識は、その知的営みとはひとまず別の水準の現実でしかなかった。研究対象や考察されるその向こう側にある存在はそのような自分とは自明に切断されている、そういう認識が暗黙のうちに共有されていたようです。いわゆる知識人、インテリと称される知性のありようとは、そのように自分自身を棚に上げたところで対象を「客観的」にとらえることを自明の習い性にしてしまうものだったらしい。

 巷間、このような考現学的な仕事が目に立ち過ぎて今和次郎柳田國男に「破門」された、と言われてきています。真偽についてもいろいろ考察詮索されているようですが、それらはさておき、少なくとも双方の間にある種の違和感、双方互いに感知せざるを得ないような「違い」があったのだろうということは言えるでしょう。またその「違い」をどう微分してゆくか、というのはこのような「日常」「生活」といった現実の水準を日本語環境での「学問」がどのように捕捉していったのか、というとりとめない問いを考えてゆこうとする際、存外に重要な作業になったりすると思います。

 今和次郎は絵が描けた。もともと建築科で学んだ人ですから当然ですが、その絵が描ける、スケッチができるということを武器に民家研究に赴いた、当時としては新進気鋭の若い世代の知性でした。実際、柳田國男もその絵が描けるということで自らの調査の手伝いとして雇っていたりする。柳田は言うまでもなく「耳」の人であり、耳を介した話しことば、オーラルの水準の現実編成力、意味の世界を構築してゆく力を優越的に考えていた分、かえっていわゆるビジュアルの視覚的な情報の力については新鮮に映ったのかも知れません。話しことば、は単線的な文脈を形成すると同時に、錯綜した文脈も同時並行で進行させてゆくこともできる。ビジュアル情報はそれらを一度に同時に視覚を介して文脈抜きに認知させる。この違いについて、おそらく柳田は意識的だったと思います。

 「日常」「生活」という現実の水準を記録し、対象化して改めて考察の対象へとコンバートしてゆくためには、オーラルの水準だけでは限界がありました。「おはなし」は常に単線的に提示される「べき」であるというある種のイデオロギーがその後の「民話」や「昔話」研究の脈絡で根強く維持されていったところがあるのも、その「おはなし」が提示されるまるごとの「場」、まさに「上演」を介した全体的なコミュニケーションのありようについて、生身の自分を疎外することが作業の前提だったような主体=インテリないしは知識人的自意識を持つ者にとってそれらは眼を開いてゆくことがしにくいものだったらしい、ということは指摘できるでしょう。

 客観的/主観的、という「科学」の認識の前提がそのように図式的にしか理解されてなかった、ということを考慮するにしても、日本語環境で〈いま・ここ〉としての「日常」「生活」という現実の水準は、主体との関わりをあらかじめ切断された対象としても認識されてゆきにくいままだったようです。ましてや、それら主体も否応なく含み込んだまるごとの現実、上演する/される生身のありようさえも他ならぬ自分自身含めて織り込んだ現実の水準として認識されてゆく余地が生まれてくるまでには、もう少し時間がかかったということでしょう。

 「世相」「風俗」から「生活」や「暮し」へと遷移していったこれらもの言いの先に、たとえば「日常」というもの言いが前景化してゆくのはさらにもう少し後、敗戦後的な混乱がある程度落ち着き、高度成長へと向かってまさに「生活」が新たな位相を具体的に見せ始め、それが浸透してき、かつ安定的なものになり始めてからのことになります。

戦災に象徴される異常事態を介して見慣れぬ様相を呈していた現在からある程度脱してゆき、日々の繰り返しがそれなりの安定を見せるようになってゆく中、同じ現在であってものんべんだらりとただ連続する、そのような局面において「生活」をとらえようとする、またそのようにとらえられる「生活」のリアルが一般化してゆくに連れて、この「日常」というもの言いはようやく表象として眼につくようになってゆきますが、それらをめぐる問いはまた別の機会にほどいてゆくことにします。

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まとめとして

 民俗学が「民俗学」という表記と共に、良くも悪くも独立した学問としての自意識を持つようになっていったのは、戦後のことです。組織的な中心にいた柳田國男自身が「民俗学」という表記を自ら意識的に使うようになったこと、そしてその表記が「戦後」の言語空間においてそれまでと違う意味や内実を実際の組織としての民俗学やそこに宿る自意識に付与してゆくようになったということは、指摘しておいていいでしょう。それまでは「民間伝承の会」であり、「学問」という現実からは良くも悪くも身を遠ざけていた民俗学が、自ら「民俗学」を標榜し「学会」を言挙げするようになったこと。これはその後の日本の民俗学のありようを規定する、良くも悪くも重要な一歩でした。

 同時に、位相はともかく対象化し対峙してきた「ムラ」もまた、それまでとはまた別に大きく変わり始めます。「戦後」の過程で「民主化」してゆくムラ、それまでとは違う政治や政策の力学によって制度や法制ごと変えられてゆく農山漁村、一次産業の現場も含めたそれら「地域」のありようというのは、単に「変わってゆく」というフラットな認識にとどまらず、そのような変貌をもたらす力学との関係の中でその変貌と対抗的に「取り残されてゆく」もの、変わらない/変われないまま当の「地域」からも忘れられてゆくらしいもの、として意味づけられるようにもなってゆきました。

 「民俗」というもの言いが特権的な装いをまとい始めるのも、この頃からです。民俗学、という看板を自覚的に掲げるようになったことで、その「民俗」自体もまたそれまでと違う脈絡で濃厚な意味を求められるようになってゆく。それはFolkloreの訳語である、といった辞書的な説明はそれまでもあったにせよ、実質それが使われる文脈においては、そのような変貌の現在から「取り残されてゆく」もの、変わらない/変われないもの、という意味が下敷きにされた理解が、「民俗」にもまた拭いがたくまつわるようになってゆきました。

 そのような中、「現在」はこのように民俗学の視線から、あらかじめ排除されるようになってゆきます。少なくとも、ことばの最も可能性の大きな意味での「現在」=〈いま・ここ〉としては。そしてその排除のからくりについては、眼前のうつろいゆく現実の水準という意味での「日常」、そしてそれらを軸足にしながら「生活」や「暮らし」といった方向にまで本来は射程距離を広げて考え自省されるべき、民俗学自身のありように関わる切実な問いであったはずです。

 その後の高度経済成長の過程は、ムラを少数派に追いやり、「民俗」は最終的に姿の見えない事象になり、博物館や資料館に「文化財」としてあらかじめある手続きを介して粛々とコンバートされ、整然と陳列され囲われるものになってゆきました。

 「ムラ」もまたそこに生きる「常民」との関係でそのすがたを、輪郭を整えてゆきました。民俗学という自意識がどのように「現実」を見ようとしてきたのか、日本なら日本という国民国家と不即不離の関係に現前している社会や文化のありようをどのようにとらえ、記述しようとしてきたのか。「学問」という装いの下、意図的に表出されていった著作や論文、業績だけでなく、当時の文脈では無意識裡だった可能性の高い水準も含めて、そのような本質的な意味での「学史」、まるごとの可能性を抱え込んだままの自らについての記述をこそ、われわれは視野におさめようとしなければならないはずです。


※1 H.ルフェーブル 田中仁彦・訳『日常生活批判序説』現代思潮社 1978年 p.242。

※2 「民俗」が地元の文脈を捨象したところで「採集」され、それらがどのような文脈でどのように相互に関連しながら地域なり社会なりに現実に存在しているのか、そのような問題意識が稀薄だったことは主として戦後、早い時期にまず社会的文脈での「民俗」の再構成の必要として指摘され、その後「地域民俗学」の提唱といった方向で言われてきてはいる。後の「地域民俗学」の提唱や、民俗を有機的連関の相において把握する必要(それが具体的にどのようなものになるのか、などは別にして)など、かけ声は盛んになったけれども、しかしその過程でさえも、肝心の「生活」そのものについての対象化の契機は乏しいままだったし、同時にその「地域」の語もそれまでの「ムラ」の漠然とした置き換え程度の意味にしかならなかった。

※3 「民俗」を保持してきた場である「ムラ」がそのものとして対象化され意識されるようになるのは、「文化論」的発想が民俗学に流れ込んでくる戦後の過程だった。それら「民俗」を文化要素としてとらえることで、ならばそれら文化要素の複合体としての文化を保持する社会との関係はどうか、といった後付けで外部から注入された「理論的」思考の脈絡で改めて認識されるようになっていった経緯がある。このような経緯である以上、それは最も素朴な意味での「現在」、生身が直面する現実としての〈いま・ここ〉としての地域なり地元という意味でのムラではないことに注意しておきたい。所与であり自明ではあっても、それ自体対象化されていたわけでもないという位置づけ、それが少なくとも組織化を始めた戦前昭和初期から戦後にかけての民俗学にとっての「ムラ」の認識の前提だった。

※4 桜田勝徳「村とは何か」(初出『日本民俗学大系』3所収、平凡社、1958年)『桜田勝徳著作集』5所収、名著出版、1981年、pp.12-13。

※5 拙稿の前提となるはずの論考としては、一応「イデオロギーとしての「民俗」――開かれた民俗学へ向けての理論的考察?」(1985年)「常民・民俗・伝承―開かれた民俗学へ向けての理論的考察?」(1986年)ということになる。世紀末をはさんだ四半世紀以上の時間的懸隔の後に敢えていま、この時点でこのような継続的な文脈を付した議論を立ち上げてみせる必要は、その後の紆余曲折の中での思索の経緯を自ら整理して再確認する意味での「民俗学的思考の来歴・覚え書き――「現代民俗学」のための、迂遠な考察」(2011年)などの作業をくぐりつつ、何よりここ数年継続している本学での講義「現代民俗学」「生活文化論」などを介しての社会人学生も含めた学生諸君とのやりとりを通じて、初発の問いを現在につなげてゆくために改めて痛感したものである。

※6 柳田國男「総説」開国百年記念文化事業会・編『明治文化史 13風俗』所収、原書房 1979年(初版1954年)、p.2。

※7 「世相篇」の成立事情については、当初、助手を使ってカードのような形式で箇条書きにそれぞれ対応する記事を書き込んだものを作らせていたと言われている。

 「執筆開始までには、柳田によって十五章がその順序により組立てられ、各章の内容に関するメモや資料が定まった順序に配列されて、その執筆のための資料が当時中野に住んでいた中道等に渡された。中道はそれにより所定の原稿用紙に一行おきに書き、それを柳田の手元に戻すという手続きをふんだ執筆が開始されたからである。」桜田勝徳「解説」、(初出、柳田國男『明治大正史・世相篇(下)』講談社学術文庫、1976年) 『桜田勝徳著作集』5所収、名著出版、1981年、pp.248-249。

 また、柳田の執筆の仕方については、書斎の壁面の一部にカード化された資料がスタックされてあり、必要に応じてそこからカードを抜き出してデスクに並べ、それらをもとに原稿を書いてゆくというスタイルが伝えられているが、この挿話からは、たとえ自ら見聞体験し資料化したものでなくても、書物から抜き書きされたものであっても、他でもないこの自分という主体が関わって「読み」、かつ文字にして「書く」に際して文脈を構築してゆく限りにおいてそれはひとつのリアルなテキストとして現前化し得る、という確信の強さや、それを前提としたエクリチュールに対する考え方がうかがえて興味深い。

※8 今和次郎考現学総論」(初出『考現学採集』1931年、建設社)『考現学入門』所収、ちくま文庫、1987年、p.25。

※9 「科学」を標榜することは組織化が始まった頃の民俗学(民間伝承の会)の当初からあったことであり、それは戦後の過程でまた一段と増幅されていったわけだが、しかしその柳田の言う「科学」の内実についての考察というのも、梅棹忠夫や益田勝実などの仕事を除いて立ち止まって行おうとした形跡は決して多いとは言えないし、その成果も現在につながる形で継承されているとは言い難い。組織としての民俗学を考える時の柳田と、自ら「世相」なり「風俗」なりを素材として、「書く」を介してひとつのテキストを構築してゆこうとする時の柳田とのズレや食い違いはもっと執着されていい問いだと思われる。それは、ここで述べるような、同じ「現在」を相手どろうとした時の柳田と今との認識やそれをもとにした仕事の現われ方の違いなどにも、良くも悪くも影を落してくるはずである。

※10

「今と中鉢が、国民生活論の課題を批判的に展開していこうとした背景には、さらに遡って1920年代に多彩に開花した日本の生活研究の源流ともいうべき存在があった。権田保之助の民衆娯楽論、森本厚吉の文化生活論、そして若き日の今和次郎による考現学――これらは、工場労働者やサラリーマンという近代的雇用労働者層の階層形成の本格化にともなって形成されていった日本の近代的な都市生活を、多様な視点から解明していこうとするものであった。」寺出浩司『生活文化論への招待』弘文堂、1988年、p70。

※11 寺出 註10に同じ、pp119-120。

※12 寺出 註10に同じ、p.125-126

※13 たとえば、戦後の世相を語るもの言いとして「女と靴下が強くなった」といったことが巷間言われていたとされ、実際そのように記述されてもきているが、その「女」と表象される内実についての考察にはまだ大きな空隙が残されている。それは実際に女性がどのように「強く」なっていったかについての実際の数字や事象による裏付けだけでなく、「生活」というもの言いに象徴されるような日々の日常的な現実が否応なく意識されざるを得ない状況と、そのような生活環境の中に生きる当時の人々の生身の感覚を見通そうとする姿勢を補助線として初めて、〈いま・ここ〉の豊かな記述として肉薄できるような領域である。「生活」の前景化に伴い「女」(通俗的なもの言いを介せば「おんなこども」)の領分が世間の意識に強く意識せざるを得ないようになってゆく、そんな過程を言わば書き割りのようにして、「戦後」の環境は整えられていった面があるらしい。

 実際、政策的目線を前提とした行政の現場でも「生活」は注目されるようになっていた。

「生活改善課は、綿々と続いてきた農家の人々の暮らしぶりに対して、独特の理念と、その実現のために考案した独特の手段によって異議申し立てを行った。民主主義と科学を武器にして、迷信や因習に立ち向かったのである。」市田(岩田)知子「生活改善普及事業の理念と展開」『農業総合研究』49-2、1995年。

当時、これら農業生活改善運動など、「生活」と「婦人」の重なった領域において、政策的な視線が一気に集中し始めていた。民俗学に関しても、柳田自身がもともと「女性に期待する」と明確に表明していたことに加え、瀬川清子らの女性民俗の会の活動なども戦後活発になっている。とは言え、それまでの家政学に対する強い批判的立場からの「生活学」の確立も含めての運動に精力的に関与していった今などに比べると、それら政策的な文脈も含めた大きな動きに積極的に関わった形跡は乏しい。当時、国語教育や新たに導入される社会科へは組織ぐるみとも言える注力をして独自の教科書編纂までやっていたことを考え合わせると、このあたりの濃淡についても今後さらに考察されるべきだろう。

※14 もちろんこのような動きには、それまでの歴史学自身が敗戦を境に根本的かつ本質的な自己解体と自省を強いられざるを得なくなっていたという状況があるわけで、だからこそそれまで等閑視してきていた民俗学の側にこのような秋波を送る必要が出て来ていた、という事情もあった。文化史や生活史、そして地方史といったそれまでの時代区分を前提とした国史歴史学の世界観からは周縁的な位置づけにあった領域に光が当てられざるを得なくなった中、民俗学もまた期せずして注目度を大きく高めていった戦後、というのもあった。

※15 桜田、註4に同じ、p.14。

※16 網野善彦『歴史としての戦後史学』日本エディタースクール出版部、200年、pp60-61。

※17 今和次郎「家政理論にかかわる疑義について」、(初出『家庭科学』8月号、1953年)『今和次郎集・5 生活学』ドメス出版、1971年、p49。

※18 この創刊当初冠せられていた「美しい」の内実は、単に美学的審美的な意味だけではなかったことはすでに指摘されている。自ら関わり編集し直してゆける「生活」の将来へ向けての望ましい方向性の展望。それは合理的で効率的で、そしてそれらを前提にしたある統御の感覚が日常的に共有されてゆけるようなものだったはずであり、誤読を怖れずざっくり言えば、後の高度経済成長期を通じて全面化していった「アメリカ的合理性」へとなめらかにつながり得るような価値観だったとひとまず言っていいだろう。そのような「美しい」が「暮し」をあらかじめ覆い被せるように規定していった痕跡は、創刊当初のわずかな時期であったとは言え、その後の『暮しの手帖』と花森安治の軌跡にも確実に尾を曳いていた。それはその後さらに一般的な語彙として通俗化していった「暮らし」とはまた別の何ものか、を発信し続けるものにもなっていった。

花森安治の使う「暮し」には、そのように簡易な充足感はうかがえない。むしろ、時に重苦しくさえそれは響く。「暮し」の前近代性が、人をつねに死の傍らに連れ添わせてしまうからだ。」椹木野衣「たたかえ暮しの「手」帖」『花森安治 美しい「暮し」の創始者』所収、『文藝別冊』河出書房新社、2012年、p.107

※19 あらかじめ自明の所与として存在する「自然」としての日常、生活という現実の水準は、おそらく日本人にとって「民俗」レベルの桎梏と共にあり続けてきたものらしい。その意味で、自ら主体的に関わってそれら「自然」としてのみあり続けてきた日常、生活≒「暮し」を編集してゆくことができる、という感覚のもたらした鮮烈さや風通しの良さは、確かに「戦後」的なものだったと言えるかも知れない。

「このような思想的背景をもった自己認識様式は、その生活体験の理念化においても、ある独自の様式を示すことになる。その一つの特徴的なパターンは、いわゆる「私小説」に典型化された意識の形である。(…)それは即自的な個人の生活過程そのものの中に、自己確認のための究極の正統化契機を認める哲学を前提としている。自然的時間の中で営まれる私生活の過程は、なんら超越的契機を必要とすることなく、そのままある普遍的な意味をおびるとされるのである。そこでは明らかにある特徴的な人間論が存在した。たんに自己の生存過程を記録し、公表するという行為が問題であって、その行為そのものの意味と、行為によって制作されたものの内容とはいずれも問題とはされない。そこにおいては、人間存在の基本理念は即自的な生そのものとしてとらえられており、時の流れの中に生きることそのものが価値化されている。」橋川文三「「戦争体験」論の意味」『歴史と体験――近代日本精神史覚書』所収、春秋社、1968年(初出1959年)、pp12-13。 

 「生活」「日常」系のもの言いが前景化してゆく情報環境の変貌は、そのような私小説的な文脈で規定されてきた自意識のありようなども含めて、広く「体験」「経験」の意味も変えていったことが推測される。何も民俗学に限らず「現在」と対峙することから始まらざるを得ない領域にとってのそのような「戦後」の情報環境との相関でもたらされたであろう膨大でとりとめない変遷は、単に個々の領域の「学史」の枠組みにおいてだけ受け止められるような問いではないだろう。

*1:例によって、脚注が欠けているけれども、それはまたそのうちに、ということでご容赦。