ディープインパクト「海外流出」の噂

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 ディープインパクトがドバイに売られる、という噂が出回っている。

 他でもない、去年3歳クラシック三冠を無敗で制し、暮れの有馬記念古馬ハーツクライの2着に敗れたものの、今年に入ってからも春の天皇賞、そして先日の宝塚記念、とGⅠ五冠を達成。この秋にはフランスの凱旋門賞に挑戦する、という、ニッポン競馬界にとってはひさびさに出現したスターホース。海外遠征後は帰国して年内いっぱい、おそらく暮れの有馬記念を最後に引退、種牡馬入りだろう、というのが大方の見方だったのだが、ここにきて、いや、そのまま日本に戻ってこないのではないか、と言われ始めているのだ。

 つまり、海外流出。国外にトレードされるのでは、というのである。口さがないファンだけではない、当の競馬関係者の間でもひそかに話題になっている。

「あれだけの馬だからね、そりゃあ、外国から引き合いがあっても不思議ないべな。案外もう話はついてんでないかい」(日高のある牧場主)

「なんかそういう噂は聞いたことがあるよ。でもさ、(名種牡馬の)サンデーサイレンスの後継種牡馬として社台ファームさんとしては何が何でも獲りにゆきたいわけだろうし、そんなに簡単に譲るとは思えないなあ」(JRAのある調教師)

 この噂、ディープと同じ金子真人氏の持ち馬ユートピアが、この3月にUAE(アラブ首長国連邦)のドバイに遠征、国際GⅡを勝った直後、400万ドル=約四億八千万円で電撃トレードされたことも、後押ししている。買ったのは、ドバイのシェイク・モハメッド殿下が率いる世界有数の競走馬ビジネス集団ゴドルフィン。ここ二十年ほど、アイルランドのクールモアスタッドなどと共に、世界の競馬市場を席巻している一大勢力だ。調教師以下厩舎サイドも寝耳に水の、まさに「頭越し」の買収劇だったと言われているが、思えばディープと同じオーナー、生産も同じ国内馬産のリーダー格で世界的にも知られた社台グループのノーザンファーム。ディープ買収に向けての地ならしでは、というわけで、ここにきて海外流出の噂ににわかに信憑性が出てきているのだ。

 具体的に想定されている相手方は、もちろんそのゴドルフィン。正確には、ゴドルフィンが出資する日本法人ダーレージャパン、である。すでに地方競馬では馬主資格を取得して、船橋や大井など南関東に有力馬を投入して台風の眼となっている。

「社台系の馬の入っている有力厩舎にはドバイの馬もどんどん入ってきているよ。まず南関東がそういうガチンコの舞台になり始めてる。遅かれ早かれ、JRAにもこの流れは波及してゆくんじゃないかなあ」(南関東のある調教師)

 減り続けているとは言え未だに年間売り上げ三兆円弱を誇る日本競馬の中核JRAだが、さすがにここは相手が悪い。なにしろ、その背景がケタ違い。モハメッド殿下はドバイの王族マクトゥーム家四兄弟の三男。イギリスで教育を受け、陸軍士官学校卒業後は最年少で国防大臣になり、90年から皇太子、そして今年一月、共にゴドルフィンを指揮してきた兄であるマクトゥーム首長急逝の跡を継いで首長に即位。つまり、名実共にアラブの王様なのだ。

 産油国ならではの潤沢なオイルマネーを背景に強力な指導力を発揮して、観光と商業に海外からの投資を誘致、国際的なリゾート地としてドバイを開発、急成長をしている。同様に、世界の競馬市場にも大きな影響力を行使。90年代半ば以降、それまでの欧州からアメリカ、アジア・オセアニアにも手を広げ、世界最高の賞金を誇る「競馬のF1シリーズ」とも言うべきドバイワールドカップシリーズを創設するなど、その動きはめざましい。

 そんな彼らが、世界的にも賞金の高い日本の競馬市場に本格的に参入しようとしていることは、競馬関係者の間ではすでに常識。一昨年あたりからは馬産地北海道でも、積極的に牧場の買収に動き、今年からは種牡馬を六頭置いているし、繁殖牝馬もすでに八十頭以上用意して生産態勢もととのえている。

「ダーレーが日高で牧場買いまくってる、ってのは確かだね。日高の牧場はどこも苦しいから、こっちから『買ってくれ』って持ちかけるところも水面下ではいっぱいあるよ」(地元の馬産関係者)

 ゴドルフィンという「外資」と、名種牡馬サンデーサイレンス(02年に死亡)を擁し、国内では事実上“ひとり勝ち”を続けてきた社台グループ以下の国内有力生産者との対決、という構図が、今回のディープの「海外流出」説の背後には横たわっていると見ていい。


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 そんな矢先、6月21日付の「東京スポーツ」に、ゴドルフィンがJRAの馬主資格を取得へ、という記事が載った。法人ダーレージャパン名義での申請である。

 実はダーレーは、去年三月に一度、馬主資格の申請を行っている。ところが、社台グループ以下、国内の有力生産者たちがこぞって反対を表明し、これに馬主会なども同調、JRAに対して異例の要望書を提出するまで紛糾していた。結局、ダーレー側が申請を自主的に取り下げる、という形でひとまず事態を収拾していたのだが、JRAが認可するのは時間の問題、と言われていた。

 このダーレージャパン、日本のみならず、香港、シンガポールなどを含めたゴドルフィンの極東戦略の拠点とも言われている。代表の高橋力氏は元JRAの職員。獣医の資格を持ち、育成業務などの現場から叩き上げ、理事まで勤めた、言わば日本の競馬の中枢から国際的な競走馬ビジネスの現場に至るまで、裏も表も知り抜いたプロ。先に触れたようにすでに国内に牧場を確保して「軽種馬生産法人」になっている。社台と並ぶ国内生産者のリーダー格で、先日国際GⅠを獲ったコスモバルクを擁するビッグレッドファーム岡田繁幸氏などは、「(このままだと)国内の生産者及び馬主は、おそらく7割くらいは消えてゆくと見ています」と公言、懸念を隠さない。

 競馬法自体に外国人を排除する規定はないが、施行規程上、国内に居住していない外国人に対する馬主資格は認められていない。今回の申請も、個人でなく「軽種馬生産法人」に対してのものだ。7月4日に開かれる審査委員会で、最終的な決定が下されるという。


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 今回、そのダーレージャパンに取材の申し込みをしたのだが、残念ながら取材拒否された。ディープの「買収」についてはコメントする立場にない、会社自体もすでにメディアに出ている記事を参照していただきたい、とのこと。さらに、当のディープインパクトのオーナー、金子真人氏が代表取締役を勤める会社も、競馬にからむ取材は原則お断りとのこと。ディープインパクトの生産者であるノーザンファーム代表の吉田勝巳氏に話を聞いた。

 まず、問題のディープ「買収」の噂については、「そんなことないんじゃない?」とあっさり一蹴。去年の馬主申請をめぐる経緯以来、疎遠になっているとも言われるダーレージャパンとの関係についても、「これまで通りセレクトセール(7月初旬に行われるせり)にも生産馬を出してもらってるし、特に変わりないなあ」との返答。ただ、ディープ「買収」の動きが具体的にあるのかどうか、については「そんなのわかんないよ」と言及を避けた。

 一方、ディープインパクト凱旋門賞挑戦については、「何とかなると思ってる」ときっぱり。一部で懸念されている馬場の違いや体格のハンデなどについても、「関係ないね」と意気軒昂だ。

 種牡馬としてのディープの価値はどれぐらい?

「今の段階じゃ何とも言えないよ。でも、日本で走らせるのがいちばんいい結果が出るんじゃない? 価値だって日本がいちばんよくわかってるし」

 しかし、「外資」の進出についてどう思うか、と尋ねた時には、初めて言葉が詰まった。しばらく間があって 「……まあねえ、うちとしてはある程度はしょうがないよな、ってところはあるよ」と、ぽつり。

「だって、競馬(のビジネス)ってそういうものだから。それが世界のルールだし、いい馬だと思ったら誰でも(欲しいと)手をあげるものだからさ。こっちも資金にあう範囲で何とかするしかないよ」

 でも、立場もあるからあんまり言えないところもあるんだけどさ、とも。そのあたり、“ひとり勝ち”と言われながらも国内生産者のリーダーとしての責任感も垣間見えた。

 競走馬ビジネスにとって、最も稼げるのは種牡馬である。社台グループはノーザンテーストサンデーサイレンス、と、立て続けに名種牡馬が出現、その稼ぎを原資として世界的にも知られるブリーダー(生産者)となった。国内馬産の主導権を握るためには、次世代種牡馬のリーダーシップをとるのは至上命令サンデーサイレンス最後の傑作と言われるディープインパクトが、ターゲットになるのは必然だ。しかし、種牡馬の成否は産駒が実際に競走を始めないとわからない。結果が出るまで少なくとも三年はかかる。それゆえに、競走馬ビジネスは難しい。

「だから、早くいろんな規制を撤廃しろ、ってずっと言ってるんだよ。国内だって今の厩舎制度みたいに、自分ところだけよけりゃいい、でやってちゃ絶対もたない。外国から賞金狙いにくるんなら、こっちもそういう国際ルールに沿った体制を整えなきゃ、絶対ダメなんだよ」


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 ともあれ、ディープインパクトはこの秋、世界をめざす。ターゲットの凱旋門賞には、ライバルのハーツクライも参戦を計画中で、昨年暮れの有馬記念のリベンジの舞台が凱旋門賞になる可能性もあり、このところマンハッタンカフェタップダンスシチーと惨敗続きの日本馬としては、99年のエルコンドルパサー(2着)以来の期待がかかる。ファンの熱い視線が集まるはもちろん、JRA以下、これからまた盛り上げに奔走することだろう。

 もしも、ディープが凱旋門賞を勝ったとしたら、その後どういうことになるのか。

「現状でも種牡馬としての価値は30億とも40億とも言われていますが、海外からの評価があがって、ユートピアみたいにトレードのオファーがかかる可能性は十分あります。社台グループにとって最悪のシナリオは、ディープが海外に買われてそのまま種牡馬として日本で供用される、という形でしょうね。それだけは絶対に避けたいんじゃないですか」(ある馬産関係者)

 ディープインパクトの子供が「外国産馬」として日本の競馬場を走る日――そんな未来もまた現実のものになるかも知れない。国際G1レースのジャパンカップ創設以来、四半世紀のニッポン競馬「国際化」の最終段階、ディープインパクト凱旋門賞挑戦は、競走馬ビジネスも含めたニッポン競馬の未来を占うという意味でもまた、注目されている。

*1:署名原稿でなく「編集部特別取材班」という形での掲載。校了寸前での判断だったのだが。まあ、ナマものだけにいろいろあります