「お芝居」のもたらした自由

紅天女」を国立能楽堂で、新作能として上演する、という話を耳にした時、正直びっくりしました。そんなムチャクチャ……あ、いや、勇猛果敢で男前な企てを正々堂々やってのけるなんて、という素朴な驚きと共に、ああそうか、そういうこともいまや平然と現実にさせてしまえるくらいに『ガラスの仮面』は、いや、そもそもこのニッポンのマンガってやつ自体が、われら同時代のニッポン人のココロの中になんともかけがえのない〈リアル〉として息づいちまってるんだなあ、と、ガラにもなくしみじみしてしまいました、いや、ほんとに。
この舞台をご覧になるほどの方々の多くには釈迦に説法、言わずもがなのことでしょうが、この「紅天女」はもともと、マンガ『ガラスの仮面』の中で重要な役割を果たす劇中劇として設定されたものです。美内すずえの手による『ガラスの仮面』は、1976年に連載開始以来、これまでの単行本発行部数が累計5000万部、その他、アニメや舞台、テレビドラマなどに繰り返し移植、上演され、何よりご本尊の連載も未だに続いている、大河小説ならぬ大河マンガです。連載時のものが単行本化された時にさらに大幅に描き直しがされていたりする迷宮ぶりもすでにお約束ですし、直近ではなんといっても安達祐実北島マヤ野際陽子月影先生という絶妙なキャストで人気を呼んだテレビドラマ版で再度ブレイク、いや、それどころか、わがニッポンのみならず韓国でも長年にわたってロングセラーと聞きますし、そんなこんなひっくるめて、いまや「国民的マンガ」という呼び方もあながち大げさではありません。
ガラスの仮面』自体は、少年マンガ/少女マンガという棲み分けがまだはっきりとあった頃に生まれた作品で、絵柄やおはなしの筋立て、恋愛要素の織り込み方など正当派少女マンガとしての輪郭と共に、少年マンガ出自の「スポ根」と略される青春スポーツもの路線が少女マンガの側に投影された痕跡をはっきり持っています。貧しい出自で中華料理店に勤める母に育てられた北島マヤと、父が映画監督で母が女優というリカちゃん人形ばりの恵まれた家庭環境に育った姫川亜弓、という二項対立は、『巨人の星』のあの星飛雄馬花形満を介して、戦前の大ベストセラーだった少年小説、佐藤紅緑の『ああ、玉杯に花うけて』あたりにまでさかのぼれる、マンガに限らず広い意味での「大衆文芸」では王道にして定番の道具立て。その意味で、いかにも少女マンガなたたずまいに目奪われるだけでなく、演劇を介した女性向けスポ根、という、このもうひとつの性格も忘れてはならないでしょう。
演劇、というのがひとつ重要な要素です。「お芝居」と呼べばもっとしっくりくる。これがバレーボールやテニスならばまんまスポ根ですが、世の中そんなスポーツになじめる人ばかりでもない。特に、普通のオンナのコが平然とスポーツになじめるようになったのは、実は結構最近のことで、和服と畳の生活があたりまえだった頃は、運動会の徒競走さえ女性には難儀でした。けれども、戦後になって、男女を問わずそれまで抑圧されていた身体表現へ向かわざるを得ないような衝動は社会的に広く共有され、刺激されていたわけで、そこを解放してゆくのにひとつ、お芝居と音楽というのは絶好の仕掛けでした。戦後、小学校中学校に「演劇部」がたくさんできていったのは、フォークダンスにときめきロカビリーやゴーゴーに熱狂した過程や、同じく「文学」がある種の一般教養として許容され、履歴書の趣味欄に「読書」と書くのが作法になっていった経緯ともシンクロするできごとだったはずです。他に何のとりえもないオンナのコであるマヤが、しかしお芝居の才能だけはあった、というキャラクター設定も、さらに「嵐が丘」に「たけくらべ」に「ヘレンケラー」に「真夏の夜の夢」に「若草物語」と、「文学」を中心とした学校的教養がこれでもかとちりばめられてもいることも、いずれそのような「戦後」の空間で新たな自由と解放とを求めていた読み手たちにとっては、ココロのツボを連発でおされるような経験を準備していたのだと思います。
 演劇史に照らせばここに描かれている「お芝居」は、どうやら新劇がベースです。演技のメソッドも「役になりきる」というシンプルなもので、まずは一般の世間が想定する「お芝居」の最大公約数。実際の演劇の現場がこんな素朴なものでないのはもちろんですが、にも関わらず、現実に何人もの女優さんたちが自分の「演技」、「お芝居」の原体験としてこの『ガラスの仮面』をあげている。おはなしの〈リアル〉というのは時に、このようにうっかりと現実を凌駕してしまうこともあるという意味で、民衆的想像力の地平における演劇=お芝居が「戦後」の言語空間でどのように語られていったのか、を考える時に、『ガラスの仮面』と「紅天女」は重要な民俗資料になり得るものでもあります。
とは言え、「紅天女」自体は、マンガでは当初、具体的にどのような舞台なのかはほのめかされる程度で推移していました。クライマックスのマヤと亜弓の「対決」の場面に向けて、それが梅の古木の精が化身したもの、といった内容も明らかにされて行くのですが、今回、宝塚歌劇のスタッフも加わりそのあたりがどのように舞台化され、何より新作能として昇華されているのか、いろんな意味で見ものだと思っています。
それにしても、『ガラスの仮面』を全くご存じないまま、今回の「紅天女」をご覧になる方って、果たしてどれくらいいらっしゃるんでしょうか……