いまどきまだ『はだしのゲン』で……

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――素直に読むことだ。そして、素直に感動することだ。とってつけたような政治の言葉でそれを説明しないことだ。その時、作中人物に稚拙な政治的言葉しか語らせられない 中沢啓治のもどかしさも感じられるだろう。  呉 智英

                                             

 毎年、八月十五日を目がけて、われわれ日本人が蓄積し、共有してきた「夏」のイメージの中にひとつ新たに「戦争」が、特に「先の戦争」の「敗戦」という意味づけだけをとにかく強調して再生産されてゆく仕掛けが、いつの頃からかできてしまっています。すでに高度情報社会段階に入って久しいイメージ産業の最前線であるメディアの生産点は、それこそが使命だと言わんばかりの居丈高な本心を隠しながら、それとは裏腹なおためごかしの猫なで声でその作業を淡々と繰り返す。

 とりわけ今年の夏は、いつにも増してそんな手癖がわかりやすい形で現われていました。歴史を〈いま・ここ〉にプロモートし、常に現在を生きる人々の意識の銀幕に輪郭確かに投影されるかたちにしてゆく仕掛けというのは、実は歴史を語っていることばやその語り口の側からはおおむね巧妙に隠されていて、どのように稼働しているかさえ察知されないよう設定されているものらしい――そのことを改めて痛感し、しみじみしました。

 歴史にも還暦があります。あるいは、弔いあげ、とか。数年前、よく言われた「戦後六十年」というのも、言っていた側の思惑は知らず、ほんとのところはそういうことだと思っています。

 一応、民俗学の教える教科書的な最大公約数としては、人は死んで後、三三回忌をひと区切りにそれ以降は個性の消えた、抽象的な「先祖」になっちまう、ってことになっていますが、これは平均寿命が今よりずっと短かった時代を基準にした設定。今なら、やっぱり六十年くらいたたないことには、その人が生きていた頃のことを、具体的な個人として記憶している環境は変わらないでしょう。

 歴史も、それと同じこと。還暦、弔いあげに等しい区切りがあるらしい。どんな事件も、体験も、それだけの時間をくぐり抜ければひとつ、それまでとは別の位相に移行する。意味が変わる。それはある特定の人たちや勢力、あるいは時代の空気などによって意図的に変えられるといったものでもなく、言わば人間という意味を呼吸して生きる生きものの本性と関わるところで、好むと好まざるとに関わらず変わらざるを得ない、そういうものです。

 たとえば、明治維新前後のことを、新聞記者などが聞き書きに走り回った時代がありました。大正末期から昭和初期、維新からちょうど半世紀あまりたった頃のこと。実体験として幕末から維新を体験した世代が世を去るようになった時期。生きた人間の口から体験談として、ナマの語りとして「歴史」を知ることのできる限界が訪れてきて、だからこそ聞いておかなくては、というモティベーションも高まってくる。

 実際、そのような聞き書きはたくさん生まれました。それらの記録は、歴史の貴重な「証言」として持ち回られるより先に、むしろ「読みもの」としてゆるやかに受け入れられ、好事家と呼ばれた歴史趣味、尚古道楽の仲間うちなどを介して同時代の想像力に流入し、時代小説、大衆文芸といった分野にまず大きな寄与をしました。

 注意しておかねばならないのは、「歴史」とは活字だけを媒介にした、政治や制度、あるいは英雄豪傑の事績を中心に紡ぎ出される折り目正しい正史としてあるべき、という前提が未だ幸せにあり得ていた時代だったからこそ、口述の見聞や体験談などもまた、正しく<それ以外>として遇してもらえることができた、そのことです。

 「証言」が体験者の口述であるという、そのことだけで無条件に「真実」であり、「歴史」はその前に常に跪かねばならない、という絶対的な無謬の位置にまつりあげられてしまう、「歴史」とその継承をめぐるいまどきの退廃に至る過程というのもまた、改めて静かに省みられるべきものでもあるはずです。それこそがまさにファシズム、「体験」「証言」をダシに新たな抑圧を社会の内に再生産してゆく所業に他なりません。

 戦争体験の継承を、風化を許すな、というスローガンもよくあります。こういう人たちは、ゆるぎない原点、ゼロポイントとしての「体験」を幻視して、それを無謬のものとして設定している。時間がたつと共にそれらは「風化」してゆくものだから、だからこそ「ほんとうの」体験を、「真実」を、という方向に意識を組織してゆく。

 このような「原点」至上主義、「真実」原理主義、というのは、それ自体いかに誠実なものであったとしても、意識の政治学として見た場合、「陰謀論」と容易に手を結んでゆく発想に他なりません。「原点」は存在しない。いや、これではさすがに乱暴なので言い直しましょう。「原点」は存在するのだとしても、常に〈いま・ここ〉の内側にしか存在できない。現在との関係抜きにゆるぎない「原点」や「真実」があり得る、というのは、認識論的設定としてはともかく、現実に何か具体的な政治を想定する時には不自由を招来するものです。

 同じように、このところ「戦争」もまた還暦の、あるいは弔いあげの時期に来ています。そして、「歴史」とその継承をめぐる情報環境の変貌に伴ういまどきの退廃の連鎖の中に、必然的に放り込まれています。〈いま・ここ〉から本当に「戦争」を語ろうとするのならば、そのような連鎖のからくりがまず眼前にしがらんでいること、その認識をまずはっきりと共有した上でないと、どんな言説、言挙げも自家中毒の空虚な営みにしかならないでしょう。


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 例によって、テレビが最も典型的です。

 とりあえずNHKはひとり、その本分に忠実に頑張ってはいました。証言記録「兵士たちの戦争」というシリーズを放映。中身も「マリアナ七面鳥狩り」の犠牲になった鈴鹿海軍航空隊。インパール戦線の久留米師団、敦賀師団。大陸は打通作戦の静岡歩兵34連隊。フィリピンの岡山歩兵10連隊。ソ満国境の青森は野砲107連隊、と、いずれもこれまでの「戦争」の語られ方の常套とその反復刷り込みからは少しずれた、その意味では目新しい素材が中心に選ばれ、それは確かにNHKの企画力、取材力を活かすものではありました。皮肉に見れば、実際に生きて「戦争」を体験した「証言」を絵として語ってもらえる人たちが、もうそれくらいずれたところで探さないことにはいなくなっている、言い換えれば「体験」の「証言」という、今のこの情報環境で絶対的な切り札になるカードをこの先、もう切れなくなってしまうという、そんなあせりみたいなものも感じられたのですが、それでも、素材としてそこに示された「証言」は確かに、これまでの定型に加えるべき新たな「戦争」の像を、言葉本来の意味での「歴史」に益する資料として提示するようなものでした。少なくとも、シリーズ通しての制作側の表層の意図や、その背後の世界観などをひとまずフィルタリングしてしまえるこちら側さえ設定できるならば、ですが。

 一方、民放はというと、こちらもその本分に忠実に俗流ポピュリズムの本流に走っていました。なんとまあ、いまどきあの『はだしのゲン』の実写版、ですと。いやはや、のけぞりましたね、あたしゃ。他でもない、フジテレビの「千の風になって」ドラマスペシャル、と銘打たれたシリーズの第三弾。去年あたりからなぜか一部で広まり、暮れにはなぜか紅白歌合戦にもエントリーされてそこそこヒットした「千の風になって」というあの出自不明の歌をモティーフにしたシリーズでした。

「“千の風”の感動を皆様にお伝えしようと企画されたのが、「千の風になって」プロジェクトです。『千の風になって』(日本語訳と作曲、新井満)の世界観に共鳴する各番組と連携をし、“ドキュメンタリー・ドラマ”、“ドキュメンタリー”、“情報番組”など様々な形で「千の風」を人々の心へお届けします。」

「各々のドラマは、すべて実際のエピソードをもとに制作いたします。『千の風になって』の精神を共有するそのエピソードは、「死者を悼む想い」だけでなく、「残された人間と故人との生前の出来事」、「そこにあった背景」、「亡くなられた後の出来事」、そして『千の風になって』に出会った後の「残された人々の想い」(エピソードによってはこの歌を知らずとも、その世界観を投影した実話)を描いていきます。」(同シリーズの公式サイトより)

 どこにも「戦争」も「反戦」も、ことばとしては現われていません、とりあえず。けれども、並べられたドラマは濃厚に「戦争」「反戦」がモティーフになっていた。しかも、それが「実際のエピソード」にもとづいた、というところである種の正当性を裏から主張する仕掛け。〈リアル〉をめぐるいまどきの情報環境のありようをある意味熟知した、さすが広告資本の視線、とうならざるを得ません。ええ、ええ、はらわたが煮えくりかえるくらい。

 思想や信条、ある価値観や世界観をナマのまま、メディアの舞台に放り出すことでプロパガンダしてゆこうとするのはすでに最も愚策である、それを「実話」という形に編集して、さらに個人の「体験」=個別具体、に容易に、さして知識も収斂も必要としないズルズルの流動食のような形で連結してゆける仕掛けの中で、できるだけあいまいな、雰囲気や空気、イメージなどに「だけ」収斂してゆくようなもの言いによって、個別具体からできる限り遮断したまま完結させてしまうこと。何のことはない、敗戦直後に百花繚乱となった「実話」もの、「本当の戦争の裏側はこんなものだった!」という一点突破で、結果的に占領軍のいわゆる“war guilty program”の片棒を見事に担ぐ役回りを担ってしまった一群のカストリ雑誌と、基本的なコンセプトは大して変わらないようなのですが、その程度に「戦後」の情報環境は、「戦後」の枠組み自体が崩壊の過程に入っている現在においてさえ、未だ微妙に揺曳しているようです。

 特に、三回のうち後半の二本は『ぞうのはなこ』に『はだしのゲン』と、臆面もなく大ネタ連発。これに『火垂るの墓』があれば、もう「戦後」の「戦争」をめぐる俗流反戦」コンテンツの揃い踏み。銭湯のペンキ絵の富士山のごとき圧倒的な説得力、ではあります。ドラマ自体の出来不出来、などはすでに限りなくどうでもいいことで、誰が何をどう演じていようが、どのような演出が凝らされていようが、前提となる思惑、コンセプトがあらかじめあってそれを従順になぞってゆけるようなパッケージになってさえいれば全て無問題。

 ああ、もう一度言わせてもらいます。さすが「千の風…」を仕掛けた新井満電通社員にして(一応は)作家、沖縄に豪邸建ててお住みになり、スローライフだのロハスなんたらだの、この忙しいのにキンタマゆるめて人をだらしなくしちまう麻薬のような一連の呪文の勧進元でもあり、ご本尊はというとアートでおしゃれでブンガクで、の今様高等遊民サマのお気楽商品見本だけあって、おのれの属する広告資本の“力”を背景に、そしてメディアの生産点になんとなく共有されてしまっている横着な気分をテコに、このように「戦争」をそのまま「反戦」「平和」の方向にだけ収斂させ、メディアを介して同時代の空気の中にサリンよろしく景気よく空中散布してゆく手口ってやつは、ほんとに心底見事なもの。「権力」といったすでに大時代なもの言いもまた、こういうメディアの生産点がらみの大風呂敷の前では改めて、もう一度光り輝く。歴史もそのようないまどきの情報環境におけるアクティヴな「権力」の手のひらで弄ばれ、いいように丸められるなぐさみものになっていることを思い知ります、ここでもまた。
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 それにしても、です。

 この二十一世紀、2007年の夏になお、あの『はだしのゲン』で何か世間の気分を動かせるかも、と勝負をかけたところが、改めてすごい。この臆面のなさ、というのはやはり尋常じゃありません。いや、鈍感力、っていうんでしたっけか、こういうのも。

 そのような意味で、いま、この時点で、『はだしのゲン』をどう「評価」するべきなのか。ひいては、そのような思惑をプロパガンダの手段としてマンガや、マンガに代表されるようないわゆるサブカルチュアを使う、という手口そのものにどう対峙してゆけばいいのか。ここで考えてみたいのはひとまずそのような点です。

 『はだしのゲン』、改めて言うまでもなく、もとはマンガです。初出は七二年。当初は作者である中沢啓治の「自伝」として、別タイトルで描かれたものでした。中沢自身は昭和一四年の広島生まれ。国民学校一年生の時に被曝しています。翌七三年から連載に。掲載誌は『少年マガジン』から『少年ジャンプ』へ、そこで広く世間の眼に触れるようになって、以後は『文化』から『文化評論』『教育評論』と、共産党系公式メディアの内懐まっただ中を発表の場にしてきました。単行本はロングセラーとなり、何度も版を重ね、ある世代以降は小学生の頃から学校という場でも読まされるようになっていった。その意味で、「反戦」「平和」「反核」といった「戦後」民主主義的価値観を体現する良質のマンガとして持ち上げられると共に、政治の側に自ら望んで利用されていったサブカルチュアの代表、といった批判もあります。どちらもそれなりに妥当な「評価」で、間違ってはいません。

 初出の七〇年代初頭の状況からすれば、マンガである以上、そのまま学校の教室の片隅に教師公認で置かれるようなものではなかったはずです。それがある時期から、教師も認め、「読んでもよいマンガ」のひとつとして小学校や中学校の図書館や学級文庫に置かれ、時には授業の副読本的に勧められるようなものになっていった。その経緯の詳細はこの場では措いておくとしても、少なくとも「よいマンガ」「子どもに読ませたいマンガ」として、教師以下、それら当時「学校」の現場で“力”を持っていた側からの何らかのお墨つきがついていったことは容易に推測できます。そのような動きはもっと後には、社民党が党首自ら、新たな国歌として「となりのトトロ」の主題歌を、と真顔で主張するような、口にするのも情けないポンチ絵にまで退廃してゆくのですが、それはまた別の話。まずはマンガがそのような政治的な動きの中に置かれていった時代のこと、です。

 たとえば、こんな素材はどうでしょう。いささか古証文かも知れませんが。

 「わたしたちは、ただいたずらに従来のマンガを攻撃するだけでは意味のないことだと思う。なによりも実践をもって立ちむかわねばならない。これこそが、真の児童のためのものであるという新らしいイメージを創り出し従来のマンガに対置する以外に方法はないはずである。現実に、学校図書館にあって、わたしたちの手になるマンガの本が読書生活を促進する源泉となり、図書館に集まる子どもたちに一つのオアシスを与える方向へ、この仕事をすすめてゆけるならば、という願いが強いのである。」

 なんだ、共産党の宣伝パンフかよ、と言われそうな型通りのもの言いが連なっていますが、そうでもない。昭和三八年に出された「新マンガ運動宣言」という宣言文の一節。マンガは俗悪文化で子どもの教育によくない、だからそうではない本当にいいマンガを、といった脈絡で書かれています。署名には、横山隆一馬場のぼる和田誠手塚治虫、といった当時認知されていたマンガ家のビッグネームたちが並んでいます。

 彼らの中に筋金入りの左翼思想を持つ者や、党員または党員に準じる立場の人間が混じっていたかどうか、そういう問いもまた、ひとまず措いておきましょう。まずはマンガの地位向上を素朴に願い、そのような立場を背負って世間にものを言おうとする時、必然的にこのようなもの言いにならざるを得なかった、そんな時代であったという、そのことです。そして、そういう意味においてこれら型通りなもの言いの陳腐さは、その陳腐であるがゆえに〈リアル〉でもある。それは、冒頭に示した『はだしのゲン』についての呉智英の評言で「稚拙な政治的言葉」と表現されていたこととも微妙に通じています。

 逆に言えば、稚拙でない、陳腐でもない政治的言葉や表現など、マンガにはまず縁のないものでした。文学や映画などは戦前からの経緯がある分、すでに「戦後」の言語空間におけるそのような政治に色濃く関わりを持たされていましたが、新興勢力だったマンガは当初、それら政治の側からそれほど相手にされていなかった。けれども、昭和二十年代半ばから後半、占領期が終わる頃から明確化してきた児童文学への関心を経由して、初期の大衆社会化の兆しの中の視聴覚文化への注目が高まっていったこともあり、マンガにもまた、それら政治の側からの視線が向けられるようになってゆきました。


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 一般的に、少年雑誌にいわゆる戦記物、戦争を舞台としたマンガが急激に増えるのは、昭和三十年前後からと言われています。最初は貸本から、そしてじきに当時創刊され始めていた出版社系の週刊誌へと舞台を移してゆく。占領期から脱して「戦争」をおおっぴらに回顧する表現が出てきた。マンガが新たな読者を広汎に獲得してゆく過程もその頃、始まっています。

 高度成長期初期の少年マンガ、こどもマンガの中に「戦争」はあたりまえに、素材として存在していた。

 そして、そこではおおむね「こども」「少年」が主人公で「戦争」が語られていた。それは当時のマンガの約束ごとに従っただけ、でしょうが、しかし「だけ」にせよ、その無意識の影響下にあったことの意味はまた格別です。

 『ゼロ戦はやと』(辻なおき)『紫電改のタカ』(ちばてつや)『ゼロ戦レッド』(貝塚ひろし)から、少し時代がくだって『あかつき戦闘隊』(原作は相良俊輔)あたりになると、作者の園田光慶日の丸文庫(大阪の貸本版元の雄)出身ということもあって、違う〈リアル〉が表面に浮き出してきていました。ということは少年マンガから微妙に読者層が離陸し始めて、その分新たな「劇画」の文法が浸透し始めた頃、ということですが しかし、同時代を横に視線をすべらせてみると、映画の中の「戦争」はまた違う文法で語られている。たとえば、あたしの大好きな岡本喜八の名作『独立愚連隊』シリーズや、勝新の『兵隊やくざ』シリーズ(原作は有馬頼義)、その二番煎じとしての『兵隊極道』(なんと、主演が若山富三郎!)などというワヤなものもありました。いずれ焦点はおおむね「兵隊」であり、その限りで受け手として期待されているのは「若い男」でした。

 消費者、読者が「子ども」である、ということが、あらかじめマンガの歯止めになっていたのかも知れません。タテマエとしての「戦後民主主義」が当たり前のように示されてしまうのは、どこかから強制があったわけでもなく、「そういうもの」という認識が当時のマンガの制作現場に共有されていた、ということのはずです。ここでも、「政治的に正しいもの言い」としての“左翼的なるもの”、という枠組みはしぶとくも揺るいでいません。

 「戦後」のチャンピオンとして、「未来」を担う存在として「子ども」はありました。それは戦争に負けて失敗した日本、これまでの「オトナ」がつくりあげてきた社会をひとまず否定したところで、別の何ものか、を付託されるようなものでした。子ども自身の思惑とは別のところで。

 60年代に入ってから「戦争」が浮上してくる。思いっきりベタな言い方をすれば、占領期から脱したことで記憶の失地回復が無意識含めて始まった、ということでしょうが、しかし、それが「子ども」に向かって行われたのはなぜか、というのもまた別の問いを導き出してくれます。

 「かつて漫画は子どものおやつだった。大人漫画は風刺とか文明批判とかが軸になっており、子ども漫画のあり方とは異なっていた。だがいつのまにか大人漫画と子ども漫画の境界があいまいになり、子ども漫画の上限が大人の領域にくいこみ、大人漫画のもっていた思想性を積極的にとりこむことになる。」(尾崎秀樹「漫画のある風景」)

 ここで「思想性」と表現されているものは、文学や映画がそうだったように、文字の知性の側から意識的に読まれ、批評の視線が与えられる、その程度の内実をマンガもまたその内側に外部から「発見」されていった、ということです。その場合の知性とは、もちろん「戦後」の言語空間で支えられていたような意味において、であり、何よりそれは当時の情報環境のこと、“左翼的なるもの”にたっぷりと規定されていました。 

 「文化」と称される領域には、必ずそのような「戦後」の言語空間での“左翼的なるもの”影を落としていた。かの「うたごえ」運動を引き合いに出すまでもなく、文学や映画、演劇に音楽、絵画、そしてマンガや後にはアニメに至るまで、いわゆる芸術、アートの類は「個人」の「自由」と手に手をとって、ごく自然に“左翼的なるもの”に身を寄せることになっていました。それら「文化」として公認されない外道に「戦後」なってしまった浪花節が「ああ、あさま山荘」といった外題を創作したような事態などは例外中の例外。「戦後」の言語空間において「文化」を規定する政治のからくりの中で、ある一定の光源から照射される視線によって「よい芸術」「悪い芸術」がわけられてゆきました。マンガに関して言えば、手塚治虫が絶対的な「価値」に仕立て上げられていった過程がそれに重なります。

 現実にそのような運動にどの部分が、個人がどう関係を持ち、どのように利用されていたか、といったこと以上に、それら芸術が同時代の「政治的に正しいもの言いや身振り」としての“左翼的なるもの”の磁場の下にあらざるを得なかった、という認識がまず重要です。そして、そのこと自体、今やすでに歴史の範疇に繰り込まれつつあること、まさに還暦や弔い上げの時期にさしかかっていることも明確に自覚しないことには、どのような芸術も、アートもサブカルチュアも、〈いま・ここ〉から十全に語られることはありません。

 現実に、共産党社会党文化政策綱領の中で、それら芸術が、中でもマンガやアニメがどのように位置づけられてきたのか、について、〈いま・ここ〉の時点から省みること。いわさきちひろ、に代表されるような代々木公認の絵本、さし絵系の画家たちから、政治的宣伝ビラやパンフに添えられるちょっとしたイラストの類の無名に作者に至るまで、それらのアウトプットに対して、不特定多数の世間に対するプロパガンダと政治的宣伝に誰よりも敏感だった彼ら政治の側が関心を払わなかったわけがない。実際、かつて大衆社会論にいち早く関心を示し、視聴覚文化や映像文化といったもの言いで情報環境の変化を真っ先にとらえようとしていたのも、他でもない彼らの側でした。『はだしのゲン』にべっとりとまつわってきた「反戦」「平和」「反核」といった“しるし”にしても、表層的なプロパガンダというだけでなく、背後にはそのような「戦後」を規定する政治のからくりがまつわってのことです。

 また、下部構造から言えば、労音に代表される観客動員組織の効果も絶大でした。近年、創価学会の会員になっている芸能人が一部の週刊誌などにあげつらわれるようになっていますが、それと全く同様に、共産党社会党からヒモのつけられた芸能人もまた当たり前にいました。当人たちがそのことを自覚していたか否かを問わず、ということもまた同じ。ここでも、「戦後」の内側で組織拡大を果たしていったという意味で、共産党創価学会とは見事に相似形、です。

 とは言え、それらの効果を「洗脳」というもの言い一発で片づけてしまうのも、だからこそ粗雑に過ぎます。そんなもの言いを安易に持ち回る向きは、逆に言えば人間を、世間をその程度のものとなめている。そんな思惑通りの一方向に世間の気分や価値観、世界観をコントロールできる、と考えるその発想自体が、あたしなどにはちゃんちゃらおかしい。そんなある意図や思惑をうっかりと超えた部分も含めて、それでも何かある方向に意識や感覚が統御されてゆく面が結果としてあってしまうからこそ、メディアと情報環境とわれわれの自意識の関係というやつは厄介です。虚構と現実、無意識と理性、何でもいいですが、それらは正しく共にわれわれの現実、生きている〈いま・ここ〉の〈リアル〉の一部である、そんな認識の上に立つ努力からまずしてゆかないことには、柳田國男のもの言いを借りれば「われわれの未来を選択するために役に立つ歴史」を構築することはできないでしょう。


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 『はだしのゲン』が、ある種の衝迫力を持って当時の子どもたちの心に何ものかを刻みつけていったのは、そんな生硬な政治のことばやもの言いでもなければ、定型の陳腐なスローガンの効果ではありません。まずは「こわい」というその一点であり、それが子どもの身体感覚にぬぐいがたい痕跡を残すようなものでした。

 中沢啓治の絵柄が「こわい」のは、マンガという表現形式が奇しくもはらんでしまった無意識の部分、民俗や土俗といった水準にまっすぐに突き刺さってくるような領域にからんでいるからです。ある種のマンガ、そしてそのようなマンガを描く描き手には、そういう無意識を含めて表出させてしまうような奇妙な才能が宿ることがある。個人的に問われれば、山松ゆうきちつの丸、などの名前をあげるのですが、いずれにせよそういう領域を垣間見せる媒体として、ニッポンの戦後のマンガというのは、ある種奇妙なメディアではあります。

 具体的にマンガ表現として見た場合、70年代初頭の「劇画」が新たな形式を伴って勃興してきた、その影響を『少年ジャンプ』という当時の新興少年誌の場で受け取りながら整形されていったもの、と言っていいでしょう。無骨な、それゆえにどうしようもなく民話的で、民俗的な何ものかがまつわっている絵柄、という印象です。具体的な技術面での解析などは本分でないので専門家の手に委ねますが、この場でまず言えることは、当時の子どもたちが素朴に「こわい」と感じた、その理由というのは作者の思想信条や表面的な作品の内容などとは別に、純粋に絵柄として、表現そのものとしての衝迫力があったんだな、ということです。

 それはたとえば、唐突に聞こえるでしょうが、柳宗悦が言ったような「民芸」の味わいにも近いものかも知れない。屹立した輪郭確かな個性の制御下での創作、とは必ずしも言えない。でも、うっかりと場の共同性の背後にくぐもっている何ものか、を招来してしまったような表現。そういう部分を奇しくもはらんでしまったがゆえの、朴訥な衝迫力。
それらをマンガの場にさえも引き出してしまうほどに、原爆を被曝するというのは異様な体験であった、ということでもあるのでしょう。かつて幕末の動乱期にあらゆる「神」が新たに降臨したように、「敗戦」という混乱の中で宿ったデモーニッシュなもの、とは、このような形でもあった。それが通りいっぺんの「宗教」といった形をとらなかったと言っても、しかしそのはじまりの衝迫力は「宗教」と同根のものだったかも知れません。

 そして、『少年ジャンプ』というのは、そのような才能を引き寄せてしまうだけの磁場を当時、はらんでいた。六百万部という部数が現実のものにした〈リアル〉。後には、かの小林よしのりも、また。思えば、かつての小林よしのり中沢啓治山松ゆうきちなどにも通じる、同時代の無意識、民俗や土俗の水準を垣間見せてくれる作家、マンガ家でした。

 その意味では、思想信条や表現された内容とは別に、そのようなマンガ作品としての『はだしのゲン』と『ゴーマニズム宣言』の比較というのは、「戦後」のマンガと世間の自意識の関係、そして「運動」の政治との関わりまでを考える上で、おそらく絶好のエチュードになると思っています。

 問題は、「運動」に携わる意識にとって、そのような部分は常に捨象されてしまっていたことです。これはその「運動」の目的が右か左か、といった問題ではない。マスの市場が同時代の無意識を垣間見せる銀幕になり、ノズルを実装させてゆく。そんなからくりは、商業音楽の分野ではあり得ていても、マンガという紙を介した、その限りでは「冷たい」メディアにおいて成り立っていた、その程度に「戦後」のニッポンの情報環境自体がけったいなもの、だったのかも知れません。身体を宿らせてしまう、その限りにおいて杓子定規な「運動」の理屈は必ずしっぺ返しを食らう。

 その意味で、戦争体験とは子どもたちの生身の水準ではまず、あたかもお化け屋敷に等しい「こわい話」として認識されていった、ということは、もっと正面から省みなければならないことでしょう。

 即座に言い添えますが、戦争体験を「こわい話」として認識するのはよくない、というのではない。むしろ逆です。原爆ドームや沖縄のガマで今でも日々語られている「体験談」がどれだけ定型の陳腐なものになっていて、それが子どもたちにとっては質の悪いホラー話としてしか受け取られないような水準のものだとしても、それはその質の悪さをこそ問題にすべきであって、「こわい話」として戦争体験を受け取ること自体が批判され、抑圧されてゆくのは筋違いです。

 もっとミもフタもなく言えば、戦争体験には常にそのような「こわい話」「悲惨な話」としての側面がまつわってきた。何も日本の戦後に限ったことでもなく、かのシナの抗日記念館系の展示なども文法としては同様なわけで、その意味でわが「広島平和記念資料館」と、彼の地の「南京大虐殺記念館」(「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」、ですか)の比較、なんてことさえ、民俗学者としては大まじめにやってみたい。靖国神社遊就館なども、もちろん加えて結構。歴史認識のすりあわせ、ということを本当に、本腰入れて考えるのならば、そういう「戦争体験」の伝承のされ方やその文法、語られ方なども含めて公平に、本当の意味での歴史と文化の文脈で俎板に乗せてゆく視点と覚悟が絶対に必要でしょう。

 善悪や是非ではなく、「こわい話」はまず圧倒的に「こわい」のであって、そういう部分も等しく含めて作品であるのだし、そのような作品の効果も含めて戦争体験は初めて歴史へと編集、整形されてもゆく、そういうことです。そして、子どもにとっては往々にしてそのような初発の衝撃、感情や官能の領域にまっすぐに突き刺さってくるような反応こそが、最も濃厚な体験としてあったりするものらしい。それは作者の意図やそれを持ち回る者たちの思惑などとは別に、本当にうっかりと、無意識のうちに何ものか、を引き出すものでもある。表現の魔、芸術のあやしくも素敵なところとはそういうもの、なのだと思います、美や芸術に対してはおおむね粗忽でおおざっぱなこのあたしでさえも。

 そのような当時の子どもたちであった世代が『はだしのゲン』から受け取った「こわさ」についての個人的な感想や印象の断片は、いまどきのこと、web上にもたくさん散らばっています。たとえば、こんな風に。

「ついにこれまで文庫に! と驚いてオレ的8/15特集で読んだ。まいった。少年ジャンプ連載時にも読んでいた記憶がある。自分の核への恐怖というのは、(よくも悪くも)すべてこの漫画のイメージから形作られているのを思い知った。同様のことを会社のY口さんも言っていた。溶ける人。髪が抜ける人。ガラスが身体中刺さった人。押しつぶされた家で生きたまま焼かれる人。自分の核のイメージはこれだ。ハリウッド映画に違和感があるのはこれの影響だ。少年マガジンのドキュメントコミックシリーズやMMRなんてメじゃない。夢にまで見てしまった。続巻も出ていたが買えなかった(こわくて)。 」

「「はだしのゲン」は、私は小学校の図書館で読んだ。
私は70年代生まれだから、当時の学業の場で漫画というのはまだおもちゃ扱いで、雨の日で校庭で遊べないとき限定で先生が出してくれるものだった。
ミッションスクールだったので、多分戦争と平和について考える切っ掛けになれば、ということでおいてあったのではないかと思う。(そのわりに、男子用にウルトラマンの絵本もあったけど)
漫画といえばそれだけだから、皆雨の日は競って図書館に行き、はだしのゲンを夢中で読んでいた。」

 マンガ版よりも、アニメ化されたものの方が、より衝迫力が強かったようです。それらもまた、学校の場で公認され「鑑賞」させられるようなものになっていました。いまならば「心の傷」を持ち出して訴えることができるかも知れないくらいの「こわさ」、だったらしい。

「「はだしのゲン」のアニメ映画を見た、という人は多いと思います。たとえアニメでもあのリアルな戦争、原爆の光景は、かなりの衝撃を受けるはず。はじめて「はだしのゲン」をアニメで見たときは、こわくて、夜ひとりでトイレに行けなかった。戦争の意味はよく分からなくても、「こわい」という感情と、人の死がどういうものなのか、ということくらいは分かります。」

「わたしは、あの描写でトラウマを感じた者のひとりです。小学3年のとき逃げ場のない視聴覚室で見せられた衝撃は今でも忘れられません。見ている間は息苦しくなってくるわ、その後の給食なんて食えたもんじゃない。しばらく、街灯さえも街が焼かれているように見えて、そしてあの描写を思い出す。夜が来るのが怖くなりました。」

 すでに、寝物語に語って聞かされるお化けや妖怪の話は、遠いものになり始めていました。かわりに怪獣が、マンガの妖怪が、身の回りに準備されていた。水木しげるの一連の妖怪もの、が代表的です。具体的な絵柄として妖怪やお化けをビジュアル化させていった、そしてそれが標準として子どもを焦点とした記憶の中に定着させられていった、ぬりかべ、があのような形、姿でいたことになってしまったこと、あずきあらい、が、本来音だけのものだったのに、視覚からだけ定着させられてしまったこと、民俗学者としてそのことは、指摘しておかねばなりません。

 そして、それらと等価に「戦争体験」も、『はだしのゲン』もそういう「こわい話」のひとつとして子どもたちに読まれ、消費されてゆきました。



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 これら『はだしのゲン』体験についての断片を眺めてみると、面白いことに、かつての「こわい話」は、歳月を経て、大人になってから振り返ると、また別のことばやもの言いに置き換えられていることがわかります。 人によって〈リアル〉と言い、人間の生きざま、と呼び、さまざまです。ですが、それこそがマンガとしての、作品としての時代を超える「力」でもあった。

 ただ、難儀なのはそのような「力」があって始めてそこに現われている生硬な政治的言語もスローガンも、引きずられて痕跡として残ってしまう、そのことです。

 『はだしのゲン』、確かに「反戦」「平和」、さらに「反核」マンガとしての評価は、言うまでもなくすでに高い。ある時期以降は学校の教室にも入り込んでますし、海外に翻訳までされ紹介されている。どちらも「反戦」「平和」を訴える作品としてすでにお墨付きを得ているようなもの。共に作者の実体験が下敷きにされている(ということになっている)のが、「戦争」を銃後で、しかも原爆を体験した「子ども」という立場を絶対的なものにしていることで、作品が喚起するイメージの輪郭をゆるぎないものにしています。

 「子ども」に対する贖罪意識、というのが、「戦争」体験のある部分にはねっとりとからみついていました。「何の罪もない」「純真無垢な」といった無謬性の修飾がさらにつきまといます。「銃後」の国民はそのような意味で「子ども」とシンクロさせられることで、主体性を剥奪され、永遠の無責任の立場に置かれてしまったらしい。「あやまちは繰り返しませんから」という、すでに有名になっているあの原爆がらみの碑文の主語のなさ、にしても、そのような「子ども」の無責任、「被害者」としてのみ、「戦後」のわれわれの世間が自意識を形作ってきたことと関わっているはずです。

 しかし、ここもまた言い添えねばならないのですが、だからと言ってそれはそのまま、戦争の「加害者」としての意識を持て、といった方向にいきなり導かれるものではない。「戦後」の言語空間でなかったことにされてきたままの、主体の回復が真になされないままでは、どんな立場も、思想信条も宿ることはない、それだけのこと。

 そう、主語なき被害者意識は、いつでも無責任で横着な加害者意識にも横転します。昨今、プロ市民方面お約束の、あの対アジア(つまりは中韓の「特亜」ですが)土下座史観、というのは、そのような意味で実は、「戦後」のわれわれの世間の自意識の裏返し、でもあるかも知れない。その頃世界的に流行っていた帝国主義段階の戦争ってやつを、何やっても手際のいいあの白人どもに負けまいときっちりやらかそうとし、それなりに大義も志もあり、それと見合った迷惑も隣近所にかけ、実際、身の程知らずや後先考えずのムチャやワヤも随所でやらかしながら、最後は原爆二発食らって国土は焼け野原、無条件降伏でごめんなさいせざるを得なかった、それら一連の事態をぜんぶまるごと、個々の事情や文脈背景、ことの是非までひっくるめて、そうだよ、全部正しくわれらの所業、日本人として確かにやらかしたんだぜ、と、胸張ってのみこんでしまおうとすることから逃げ回ってきたままだから、いったん蹉跌すると今度はオセロもかくやという手のひら返し、天井知らずで限度なしの自虐や土下座にしかならない。「反日」「自虐」と言われる現象も、つぶさに考えれば、かように根深く「戦後」の自意識の産物のようです。

 「戦後」の言語空間において、「戦争」は常に悪で、だからそれに対置される善なる「平和」は「反戦」とセットになって語られてゆくものでした。その構図をさらに補強するために「原爆」「反核」が時にオプションでついてきた。かくて、「戦争」から「反戦」、そして「反核」までがすんなり同じくくられ方にされてゆき、あってはならない究極の不幸、といった立ち位置に「戦争」とそこから連なるイメージは縛りつけられてしまう。

 政治の手段としての戦争、というクラウゼヴィッツ的な認識はもとより、具体的にどのような過程を踏んで戦争が起こって行くのか、といった部分での国民的理解なども、到底広まりようがない状態。もちろん、軍事が何ひとつ常識的な教養になってゆくわけもなく、それは何も制度的な軍隊に関してだけでなく、民衆による武装、こちら側にとっての手段としての戦争、といった発想までもなかったことにされてゆきます。「戦後」のもたらした「平和」とは、実にそういう偏頗な、国際標準からはほど遠いおとぎ話でした。そしてそのおとぎ話の中だからこそ可能だった高度経済成長、というのが「戦後」の〈リアル〉を一方で頑丈に支えていった。

 かつては学校の教員たちの間で「子どもたちを戦場に送るな」が合い言葉になった時期もありました。教師にとっては「教え子」が、もちろん普通の親にとっては自分の子どもが、常に客体として想定できる。誰もが即座に当事者になれてしまうモティーフ。なぜ、「自分は戦場に行きたくない」と一人称で言えなかったのでしょうか。なぜ、「子ども」を、それもごていねいに複数形の子ども「たち」にまでしてあいまいなものに仕立てて、卑劣な責任回避にしか見えないことをやらかしてきたのか。

 「戦争」に対しては子どもを、あるいは若者をダシにしてものを言う、というモードは、かくてめでたく確立されました。絶対的無条件の被害者、ゆえに「平和」なり「反戦」なり、いずれ大文字のスローガンを持ち回る際の方便として使い回されてゆく。かくて、「政治」の奴隷になってゆく善意の織物。思えば、「戦争を知らない子どもたち」というかつて流行ったあの歌などは、そんな「戦後」における自意識が最大限、ストレートに表出された地点だったかも知れません。

 とは言え、共同体の盾となって死んでいった「若者」たち、に対して生き残った共同体の側に宿る贖罪意識は、洋の東西を問わず見られるものであるでしょう。と同時に、しかしそれらのディテールにつぶさに合焦させてゆくならば、きっとわが国固有の、近世以前からの民俗的水準の心意ともどこかで連なっているように思えます。その意味で、「銃後」とは、そして世間とは、そのような民俗的水準の心意をもはらみながら現出された表象でもあるらしい。

 そして、死とは、常に生き残った側の問題、です。死んだ者、は死んでしまったことによって、生きている現在の側に「意味」を放射する原点になってゆく。

 だからこそ、近代戦がもたらす理不尽な、しかも大量の死、というのは、それ自体不条理で理屈にあわないものであるがゆえに、それを説明し、意味の側に落ち着かせてゆくためには、現世の政治ではすくいきれない部分が出てこざるを得ません。そこをかろうじて手をさしのべるのは、突き詰めればおそらく信仰や文学、物語といった水準でしかない。原爆体験、被曝体験というのは、国民的規模で考えるならば、そのような「民話」をどのようにつむぎ出してゆけるのか、という問いでもある。『はだしのゲン』が評価されるのは、そのような「民話」としての水準を期せずしてはらんでいるから、です。

 ならば、原爆体験、さらに戦争体験そのものも含めて、そのような「民話」の水準で十全な何ものかをつむぎ出すことに成功してきたのか。それこそが〈いま・ここ〉から問われるべき歴史の問いです。たかだかお化け屋敷と選ぶところのないような、少なくとも子どもたちにそのような感覚を抱かせてしまう程度の語りやもの言いしか組織できていないのだとしたら、その程度の「民話」しかこさえられない貧しさをこそ、問うべきです。

 テレビに代表されるいまどきのメディアと、その背後でまごうかたなく「権力」と化している広告資本の思惑に操られるマンガや、その他サブカルチュアのありようと身の丈で接してゆく時に、最低限必要なのは実はこのような構えなのだと、民俗学者は思っています。