ニッポンのゴージャス――「聖地」TDL②

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 現代ニッポンの高度資本主義が世紀末にたどりついた果てに忽然と出現させてしまった最大最強の「聖地」のひとつ、東京ディズニーランド、俗にTDLをあっぱれ経営しているオリエンタルランドとは、もとはと言えば、三井不動産京成電鉄が中心になってこさえた会社である。

 彼らが浦安に眼をつけたのは、なんと今から半世紀近く前、1960年。以後、83年の正式開園まで実に20年以上、淡々と海を埋め、粛々と県およびそこに巣くう役人や地元の政治家どもを巻き込み、もちろん彼の地のディズニー本家にもおさおさ怠りなく働きかけ、深く静かに、しかししぶとくたゆまなくこの聖地創造を画策してきた、ということか。個々のニンゲンを越えて組織の意志、資本の欲望に宿った継続的な営みが時代とシンクロしてしまった、その交点にうっかりと立ち上がった厄災……いや、奇跡か。そしてもちろん、高度経済成長という未曾有の変動期がもたらした「豊かさ」が、そのある種壮大な妄想を後押ししていたのは言うまでもない。

 そんなかつての東京湾岸、波打ち際の風景には飛行機だってあった。津田沼や羽田の飛行機学校。稲垣足穂の「ヒコーキ物語」に記されている。波打ち際をバウンドしながら少しずつ滞空時間を延ばしてゆき、そのうちちゃんと宙に浮いたままになれる、という黎明期の航空譚。ビーチにもシーサイドにもニッポンの歴史は刻印されている。それを〈いま・ここ〉に穏当に気づかせてゆくことばと仕掛けとが失われたままなだけだ。

 とは言え、何ごとも兆しはある。彼らオリエンタルランドの意志にとってもことがいきなり浦安、だったわけでもない。オリエンタルランドという企業にとってのそれ以前、ほんとのはじまりのさらにそのまたはじまりというのは、船橋ヘルスセンターだった。

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 もう地元でもリアルタイムの記憶がある向きは高齢化している。子どもの頃連れていったもらったという世代も、彼の地が最も「らしく」華やかだった60年代に限ればやはり五十代にはなっているか。

 ちょうどいまのららぽーとのあたり、バスによる大量輸送と「観光」とが結びついた新しいレジャースポットとして、1955年、昭和三十年にいきなりできたゴージャスな施設。 観光バスで数十人単位での観光旅行、というのが新たに定番になり始めていた。道路の整備に伴うインフラの変貌がもたらした新たな「娯楽」。海外旅行は夢だとしても、〈ここではないどこか〉へ移動してハメをはずしたくなる近世以来の常民のソウルは健在だった。

 もとはと言えば、その数年前、船橋沖の埋め立て作業の最中に温泉にぶちあたったのを利用したもの。当時のキャッチフレーズはというと、「十二万坪の海辺に一万坪の白亜の温泉デパート」。ああ、もう、一言一句に昭和中〜後期の「夢」と「希望」がてんこもりに込められた、この胸焼けするほどのこってり感が、あたかも当時の「天然色」映画の色彩感とシンクロするような、これぞニッポンのゴージャスである。

 とにかくでっかい風呂がよりどりみどり、ローマ風呂、岩風呂、牛乳風呂と何でもありで、そこに舞台付き宴会場、人工ビーチ、遊園地にボーリング場にゴルフ場に卓球場に宿泊施設まで。と言っても、それまであったような温泉旅館でなく、徹底的にバタ臭く(これまた、当時のもの言い)、ハイカラで欧米趣味丸出しでモダンのごった煮みたいな代物。わかりやすく言っちまえば、ひと昔前のラブホテル、いや、これも当時のもの言いだとさかさくらげの連れ込みなんかともなだらかに連なるような趣味、テイストの場所ではあった。

 実際、このヘルスセンター、当時としてはある意味最先端のものだったらしく、週刊誌はもとより、建築関係の雑誌などでも特集されたりしている。浴場には元ネタ不明な西洋風の彫刻があしらわれていたり、ロココ様式だかなんだかの装飾がゴテゴテついていたり、ま、このへんのセンスはいまだとお隣のいまや何かと話題のかの国、韓国(笑)の郊外型リゾートにひと山いくらで現在形で見られたりするのだが。○○風呂、というのは戦前、昭和初期に大阪あたりの待合いに出現しているものの、それが一気に花開いたのはやはり戦中戦後をはさんでここ高度成長のとば口に至ってようやく、ということになる。以後、同様に大型レジャー施設というのは各地でブームになり、60年代から70年代にかけてのニッポンのゴージャス、レジャーの風景を規定してゆくことになる。


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 常磐ハワイアンセンター、ってのもあった。去年ニッポン映画でちっとは評判になった『フラガールズ』、蒼井優が主演女優賞だのかっさらって中心になっちまったけれども、実は松雪泰子が相当に頑張ってたのにワリ食った、って一本だが、あのフィルムの舞台になってたのがまさにこの常磐ハワイアンセンターだったりする。常磐炭坑の斜陽閉山に伴って起死回生、ヤケクソで始めた新たな観光事業がそれまで捨てていた坑内の高温の出水を利用したヘルスセンター。「ハワイアン」と名付けたあたりが60年代高度経済成長期の「夢」の上限をいみじくも反映してたのだが、実際に東京はSKDから踊り子をひとり招いて地元の炭坑の娘っ子たちにフラダンスを手ほどきさせた、という実話をもとにしたお話。この発想にしても、その少し前、東京湾岸に出現していた船橋ヘルスセンターに刺激されてできたものなのは明らか。その程度にゴージャスは連鎖し、派生していってたのだ。


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 だが、今のディズニーランドに「風呂」はない。「遊園地」と「見世物」の組み合わせ、それに若干の「飲食」、それが全てだ。団体で訪れるのは変わらなくても、風呂につかって身体もココロもほぐしてうまい料理を食って一杯やって……という連鎖はここではもう成り立たない。「アトラクション」という名のしつられえられた「見世物」を順調に消費してゆくことだけに「愉しみ」は定型化されている。

 TDL以前、海外に遊びに行くことがまだほとんどのニッポン人にとって「夢」でしかなく、だからレジャーもまた国内から離れることはなく、家族旅行というモードもまだそれほど一般化できるほど「豊か」でもなく、だからこそ地域や会社などを単位とした「団体」で楽しむことからようやく始まったニッポンのレジャー。それでも鉄道ではない、観光バスで車内から「身内」の空気のまま移動できる、という新たな体験が、その先に待っているゴージャスのあり方をそれまでとは違ったものにし始めていたのは確かだろう。

 とは言え、今のディズニーランドにしても、周辺の宿泊施設での経験も含めてのレジャーと考えれば、そこに「ホテル」と「ショッピング」がオプションとして加わり、それらひっくるめてもなお、自由化以降の「海外旅行」の体験を国内でお手軽に、という一線は船橋ヘルスセンター時代と変わらないのかも知れない。同時に、「聖地」ディズニーランドはいまや、ニッポンの、というよりアジアの「聖地」に変貌しつつもある。そういう無国籍、そういう国境をうっかりと超えた資本の意志が夢見るゴージャスのありかたが、今後どのようにニッポンの現実のまた逆流してゆくのかゆかないのか、そちらの方にも注意を払っておかねばならない。いつか、シナ人の「聖地」巡礼たちが浦安のミッキーやドナルドに「反日」を叫んで襲いかかる日がくるかも知れない、そう思う。