「記憶」もまた文化資源


 最近、改めて気になっていることをひとつ。もちろん、競馬について、です。

 ある程度の年輩の方、だいたい今だと五十代から上、という感じでしょうが、それらの世代の方々の中と行き合って話をしている時に、ひょんなことから意外なほど競馬の記憶が濃厚に堆積しているんだなあ、ということを思い知らされる機会がよくあります。

 何をいまさら、と言われるかも知れません。ニッポン競馬が今のような形で市民権を得て、大衆レジャーとして成長していった時期に若い時期を過ごした世代ということですから当たり前なのでしょうが、でも、そういう人たちの多くは、いや、もうずっと競馬なんか見ていないんだけどさ、と頭をかきつつ言うような人たちなのです。

 もちろん見てもいないのだから馬券だって何年も買っていないし、だからいまどきの競馬がどういうことになっているのかもよく知らない。冗談ではなく、未だ馬券は八枠連複中心に単複があるだけ、と思っている人だって珍しくない。今は携帯電話やパソコンで馬券が買えますしね、と言っても、へえ、と驚く程度。そりゃ今の時代だからそれくらいできるようになってるだろうけどさ、でもその割に最近、競馬のニュースって見ないよね、ちょうど今頃は皐月賞天皇賞だって季節のはずだけど、テレビでもスポーツ新聞でもそんなに大きくとりあげなくなっちゃってるのは、どういうことなんだろ――と、逆に真顔で尋ねられてこちらがたじろいだりする始末。

 それでも、そんなこんなを糸口に、そこから興味半分に話に枝葉を茂らせてゆくと、昔は一時期よくやったもんですよ、といった話に必ずなる。馬の名前も出てくるわけで、それがハイセイコートウショウボーイあたりはもちろん、どうかするとダイシンボルガードのダービーが、とか、いやもう戦後競馬史の生き証言みたいな断片が次から次へと出てきたり。

 要するに、ニッポン競馬が時代と共に「高度成長」していった時期に、十代二十代あたりだった人たち、ひとくくりにすればあの「団塊の世代」から上、ということになりますか。

 それほどまでに競馬というやつは、つまり当時新たな大衆レジャーとなってゆきつつあったニッポンの競馬は、それぞれの「ファン」の心の中の〈おはなし〉を喚起し、つむいでゆくものだった、ということです。これはあたしの持論のひとつですが、ことニッポンの競馬ファンにとって競馬というのは単なる馬券でもギャンブルでもなく、そのような〈おはなし〉をつむいでゆく作用の中に大きな魅力がひとつあったのだ、ということを再確認させられます。

 八枠連複、という馬券がそのような意味で有効だったことも改めて。買い目を絞って「勝負」する、という感覚。だからこそ自分の「予想」が〈おはなし〉として濃密なものになってもゆける。三連単じゃあなた、買い目絞って狙い撃ちなんか無理ですし、何より当たったのかどうかもにわかには確認できなかったりします。

 屁理屈じゃなく、これってこれからのニッポン競馬にとって、かなり重要な問題だと思っています。スターホースが出ない、誰もが記憶に残るような、語り継がれるべきレースが見えない、と嘆かれて久しいわけですが、その原因のひとつには、このような意味での〈おはなし〉をつむぎ出してゆくような愉しみ方というやつを、当の競馬のシステムの側から提供できなくなっているという部分があるんじゃないか。もちろん、と同時に、ファンの側も世代交代、質が変わってそのような〈おはなし〉を求めなくなりつつある、ということも含めて、ですが、いずれにせよ、単なる馬券、一攫千金(「万馬券」のありがたみも三連単導入以降、ほんとに薄れてしまいましたが)の「儲け」だけに意識の焦点を合わせてゆくような環境ばかりが肥大してゆくことは、ニッポン競馬が世界でも珍しいくらいの大衆レジャーに、誰もがそのように楽しめるものになれていった大きな理由を、自ら放り出して忘れ去ってゆく危険性も同時にはらんでいるんだろうと思います。

 この世代の競馬の「記憶」、ひとりひとりの心のうちに、今はもう遠くなってしまった競馬の風景それぞれもまた、全部ひっくるめて「文化」なんだ、と民俗学者は考えます。博物館やアーカイヴスといった競馬についての「文化」施設を、おざなりでなくほんとに役に立つようにつくることも、そろそろ考えるべきだと僕はずっと言っていますが、その中にはこういう意味での「記憶」もどこかで反映されるような、そして未来につないでゆけるような仕掛けも必ず、考えられるべきだと強く思います。