騎手の「味」について

 そもそも、競馬という事業にとって、重要な資源とは何でしょうか。

 まず馬。当たり前です。彼ら馬が走ってこそ競馬ですから。当然、その馬を生産する牧場の生産者も欠かせない。次に、それらの馬を買って支える馬主。言わば出資者ですから、もちろん大切。彼ら馬主が出資した馬を預かって調教する調教師に、日々実際に世話をする厩務員など、馬を養う厩舎とそのスタッフは言わずもがなですし、獣医や装蹄師なども同様に不可欠。一方、野球やサッカー、相撲などのように単に試合やレースを見てもらうだけで成り立っている事業じゃないのですから、馬券を売り、それに関する仕事をきちんと信頼できる形でこなしてファン=お客さんに確実に還元してゆくという、競馬という事業を支える経営基盤を維持管理してゆく仕組みとそのシステムも本質的な柱ですし、競馬場やトレセンなど開催関連施設の維持管理も同様です。

 改めて言うまでもなく、競馬という事業は、これくらい広い範囲の人たちが馬を中心に関わることによって成り立っている。どんな事業でもそうでしょうが、同じ大衆レジャーやスポーツといった範囲でだけ考えてみても、競馬が社会に根をおろしているその裾野というのは考えられている以上に広く、深いものになっています。だからこそ、経営状態が悪化して現行の「お役所競馬」での自助努力が難しくなっても、「廃止」という判断がおいそれとしにくいのですが、これらのどの部分が揺らいでも、この競馬という事業は成り立たない。今世紀に入ってからはっきりと眼に見える形であらわになってきたニッポン競馬の「危機」というのは、この競馬という事業を支える資源のあらゆる部分が、それぞれにガタがきて、やせ細って、維持しにくくなり、何よりもそれらこれまで蓄積し達成してきた資産を新たな世代に継承してゆくことすら危うくなってきている、言わば多臓器不全、全身症状の悪化が深刻な水準になってきていることに他なりません。

 中でも、ファンが実際に眼にするレースで馬と共に直接「見られる」立場にある騎手たちというのも、それら資源の中でも特に重要であることは言わずもがな。厳正な免許制度によってその技術が保証され、戦後のニッポン競馬がここまで世間から広く信頼されてきた本質的な源である「公正競馬」をその一挙一動、その日々のパフォーマンスによってファンにとって最もわかりやすい形で支えている立場でもある彼ら彼女らからして、どうやら他の競馬を支える資源と同じく、枯渇し始めているような気がします。

 たとえば、今の四十代以上の地方競馬のベテラン騎手たちのパフォーマンスを目の当たりにできる幸せについて、心あるファンならばもう認識しているでしょう。あの安藤勝巳=「アンカツ」を生んだその豊かな背景であり、その意味で潜在的に多くの「アンカツ」が同じくまだ現役で、平日も含めて日々、どこかの競馬場でその「腕」を披露し続けている、それが「ニッポンの見えない、もうひとつの競馬」地方競馬です。

 吉田稔がこのところ、南関東で騎乗しています。「アンカツ」の切り開いた地方騎手からJRA所属の騎手になるための一次試験免除の条件をクリアして何度も挑戦、次は彼だろう、と言われ続けながら、未だ夢かなわぬ名古屋の花形ジョッキー。期間限定の短期騎乗で「お客さん」扱いとは言え、騎乗依頼は引く手あまたのようで、それで実際に結果も出しているのは、やはりさすがとしか言いようがない。黄色と黒のあの勝負服を大井や船橋で、それも未だ現役一線で頑張っている的場文男森下博などと同じレースで見ることのできるのは、同じ時代に生まれ合わせたからこその眼福です。

 暮れの呼び物になっているJRAのワールドスーパージョッキーシリーズに向けての、地方代表騎手選出のシリーズも始まっています。これまでも園田所属時代の岩田騎手や、笠松濱口楠彦騎手などが活躍、去年は高知の赤岡修次騎手が三位に食い込む大暴れで、一躍、全国のファンに名前を知らしめました。知名度はともかく、「腕」ならば絶対にJRAの騎手たちにひけを取らない、と自負している彼ら地方騎手たちが、その自分の「腕」を、良くも悪くもJRAしか知らない一般のファンの前で、全国区の晴れ舞台で証明してみせることのできる貴重なチャンスなわけで、その意味で、このシリーズに出るための予選は、いま、日本で一番熾烈なジョッキー同士の闘いの場、になっています。

 地方競馬でも騎手の世代交代が少しずつ進んできている。三十代以下の若い騎手からそれぞれ才能が芽吹き始めているのは、このところのJRAとよく似ている。ただそれでも、地方競馬の場合は四十代から上のベテランたちの「味」というのが、余人をもって代え難い存在感と共に、まだ現役で眼前に存在しています。岡部や河内や増沢や武邦など、かつてのJRAの花形騎手たちもはらんでいたような「味」は、いまの若い世代にはもう伝承しようのないもののようにも思います。

 でも、眼に見えないそんな「味」も含めて、騎手という存在は競馬の重要な資源である、という見識もまた必要なのではないでしょうか。これは単に世代交代、時代のうつりかわりさ、と見て、坐視しているだけでいい問題でもないように思うのですが、いかがでしょう。