「便所飯」のこと

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 「便所飯」というもの言いがあります。いや、あるそうです。実際、耳にしたことはありませんが、インターネット界隈でささやかれ、そのせいか多少は雑誌などでもちらほら見かけるように。

 いまどきの大学生で、まわりとうまくつきあえないまま、昼メシもひとりで誰にも見られず食べたいあまり、トイレに入ってぼそぼそと食うこと、だそうです。それもコンビニのおにぎりやサンドイッチにペットボトルのお茶など。まわりに気づかれぬようあらかじめ包み紙をとって入るのがコツで、時には洋式便器のフタを閉めてテーブル代わりにもするんだとか。

 「便所飯」という呼び方が実際あるかどうかともかく、そういう類の生きづらさ、学校という場所での身の置き場のなさを実感している若い衆が一定の比率でいることは、まあ、事実です。だからこそ、半ば都市伝説のように「便所飯」というもの言いもささやかれるのでしょう。かつて帝国陸軍内務班全盛の頃、便所は唯一の「個室」であり、自分を取り戻す空間だった由。軍隊生活をつづった記録ものにも、そのことはお約束で出てくる。そのデンでゆけばいまどきの大学生活、いや、大学に限らず下は小学校から、いわゆる「学校」という空間で過ごすこと自体、かつての軍隊並みの辛さ、ってことなんでしょうか。

 とは言え、同じ便所でもかつての軍隊のそれとは、今や意味が違っている。たとえば、その明るさ。十ワット程度の裸電球ではなく、煌々と蛍光灯が輝いてますし、あるいはまた、洋式便器の普及からして大違い。まんべんなく都市化した今のニッポン、マチとイナカの区別は一見つきにくくなってますが、ただ、洋式便器の普及率の違いは、ひとつものさしになるかも。どだい和式便器のあのサイズ、聞けば戦後すぐの日本人の標準体型を基準にして設計されているとかで、どう考えてもいまどきの若い衆には小さすぎる。いきおい、便器からはみ出したり飛び散ったり汚れやすいわけで、そうなると「駅の便所」や「公衆便所」と言われた時に即座に浮かぶ、あの和式便器の個室の汚れ具合の原風景というのも、そういう「戦後」、意識されざる歴史に規定されていたりするようです。

 一方では最近、便器を手で磨くことが流行っています。もとは掃除やあと片づけという、日々の家事仕事をうまくこなしてゆく身体をつくるためのアイデアだったはずが、いつしかある種の「運動」モードになっていて、そうなると子どもにやらせる「教育」方向に横転もする。そりゃあ確かに「磨く」ことへのフェティッシュはわが民族、少なくとも近世後期このかた筋金入りで、かつての長屋のおかみさんは廊下から障子の桟、腰板までを癇性に磨きたてるのがお約束だったし、軍隊では銃器も甲板も常にピカピカに磨いておくのが基本。いや、戦後も戦後で、運動部ならボールや道具を「顔が映るくらい」までひたすら磨くのが新入部員は一年坊主の役目でした。手仕事と、その作業が眼前の「もの」との関係で結んでゆく、ある発熱の状態。なるほどそれは「伝統」であり、「文化」かも知れないようなものですが、しかし、そのベクトルが今やよりによって便所に、便器に固着してゆくようになっていることと、都市伝説かも知れない冒頭の「便所飯」に何かそこはかとない〈リアル〉を感じてしまうこととの間には、何か未だうまくことばにされていない、でも正しく〈いま・ここ〉の理由が介在しているように感じています。