鳴り響き始めた“戦後の終焉”の号砲

 

 「戦後レジームの脱却」、ということが言われています。言わずもがな、安倍内閣が掲げる金看板。先の第1次内閣のころほど表立って言わなくなっているように見えるのは戦術でしょうが、それでも、いまだ安倍さん自身の政治家としての課題として、おそらく最重要事項であることは間違いない。

 もちろん、これをめぐっていろいろ異論異見が山ほど出てきているのも、何も今に始まったことでもない。いや、先の第1次安倍内閣がそれまでの歴代自民党政権に比べてもいささか異様に感じられるほど、新聞やテレビ以下のマスメディアから集中砲火を食らって事実上政権から引きずり下ろされたような形になった、その理由というのも、最も焦点距離を引いたところでは、この「戦後」レジュームの脱却ということを前面に、ちと馬鹿正直に見えるくらい率直に掲げてしまったことが大きかったんじゃないか、と思っています。

 ことほどさように、「戦後」を「疑う」、ということは、それがどのような意図に基づくものであれ、何らかの不自由を自動的に起動させるスイッチになっているらしい。いや、もう少していねいに言いましょう。「戦後」を「疑う」、ってことそれ自体、ある一定の範囲でしか許容されない視野狭窄にわれわれの意識は陥っていて、しかもそれはすでにかなり久しい症状らしい。その「戦後」というもの言いに込められている内実が、立場によって見方によって実は相当に違うものになっている、ということも含めて。

 それは、俗に「平和憲法」と呼ばれる現行憲法に規定された日本であり、「民主主義」であり「男女平等」であり、必然的に「戦争放棄」であり「アメリカ従属」であり、その限りで冷戦構造下の主要政策として選択された「豊かさ」を正義とする考え方であり、ひいては今のわれわれの社会のありようと正しく地続きな心の習慣、日常の個別具体からひっくるめての生活意識と不即不離なある総体、ということなんだと思います、良くも悪くも。

 つまり、あえてひとことでくくってしまうならば「現在」であり、〈いま・ここ〉です。単なる瞬間、単線的な時間の推移の中のたまたまの一点、単なる瞬間としての現在ではなく、今の日常生活の中に否応なしにはらまれている「歴史」、個別具体の暮らしの来歴なども全部まんべんなく含み込んだ上での「現在」。そういう意味で「戦後」というもの言いを前向きに、選択すべき明日に向かって開かれた方向で解釈してゆくような意志を介在させないことには、「戦後レジームの脱却」という金看板は、またぞろこれまで何度も飽きず繰り返されてきたような消耗のされ方で泥まみれになってゆくだけでしょう。

 とは言え、何もしかつめらしい顔で案じて見せるまでもない。すでに「戦後」はゆっくりと別の様相を呈してきています。少なくともここ20年たらずの間で、確実に。

 プロ野球や相撲、歌謡曲など、かつて「国民文化」と自他共に認められていたはずのものから、競馬や麻雀といった賭けごとに、タバコや酒の呑み方嗜み方、恋愛や結婚も含めた男女関係と家族親族のありよう、親しい友だち同士のつながり方や、大人と子ども、年寄りと若い衆の関係、新聞や放送、出版に映画といった情報環境を支える仕組みをめぐる情勢……いずれこれまではなんだかんだ言っても安泰だったり盤石に見えたりしていた組織や業界や、人や商品、モノやコトなどが軒並み底が抜けたように傾いたり没落したり、あるいはのたうちまわるように衰退してゆく事例が、ほら、思い返してみたらそこここにいくらでも。

 「失われた10年」などと言われ、後にはそれが20年にまで上積みされたりしてる、その「失われた」感覚を裏側から担保していたものも、実はそういう「戦後」の終わり方のささやかな実感でした。日々の暮らしの中、いちいち大文字で考えたりせずとも、なんだかこれまでのやり方や考え方じゃ対応できない、うまくゆかない局面が出てきたなあ、という感覚。そんなものいつの時代、どんな時にもあるような困難であり、乗り越えねばならない問題に過ぎないと言えば言えそうなんだけれども、でも、どうやらそれだけでもないらしい。だからこそ、つい便利に口にしてしまいがちなあの「戦後」というもの言いにもまた、これまでと違う内実を込めてゆく必要がある。ささやかな実感、のその水準からとりあえず。

 そのような実感をひとつひとつほぐして手もとに並べてゆく作業。一見迂遠なそんな作業を介して、今ある「戦後」の中身を「現在」とクラッチミートさせられるようにチューンしてゆく。それが実はいま、最も役に立つ「政治」なんだと思っています。なので、せっかくのご縁でもあり、少し気長におつきあいいただければ幸いです。