「知られざる人生」十冊

いきなり逆説的な言い方になって申し訳ないけれども、「知られざる人生」などは、実はもうない。少なくとも、これまでのような形ではもうあり得ない。異形探し、貧乏探し、悲惨探し、逆境探し、といった陳腐化したベクトルで、それら自伝や評伝といったジャンルの表現に網をかけてゆくことは、〈いま・ここ〉を生きるわれわれの生自体をちゃんと光らせてゆくための養いには決してならない。

並外れた人生、はそのものとしてあるわけではない。必ず、その生を語り得るだけの言葉やもの言いの手当ての中に初めて宿るもののはずなのだし、そしてそれらをきちんと受け止めて耳傾けるだけの関係の内側にこそ立ち上がるはずだ。自動販売機のボタンを押すようにして、やせた自分のままで「知られざる人生」が入手できると考えることほど、いまどきの高度情報化社会での消費者としての横着を体現することはない。

 必要なのは、その人生の語り口、をきちんと発見してゆくことなのであり、そういう意味で未だ正当に知られていない生の語り口というのは存在する、それだけだ。読み手や聞き手を想定しない自慢話のような自伝、書き手の体重がどこにどう乗っているか見えない総花的な評伝の中にだけ「知られざる人生」を探す、そういう態度こそが今、他ならぬ自分自身の生のために、他者の生から何かを学ぼうとすることから最も遠いものだと、あたしは思う。


もう何度この本のことを語ったことか。またか、と思われる向きもあるかも知れないが、何度でも言う。明治初期に生を享けたひとりの日本人の生き方を描いたものとして、これほど淡々と誠実なものは、あまりないんじゃないか。言うまでもなく、長谷川伸は劇作家にして作家、そして「紙碑」と自ら言ったような口承の小さな歴史の記述者――つまりそれって堂々の民俗学者ってことだ、あたし的には。

「庶民」とか「民衆」とか、大文字のもの言いで人々をくくろうとする動きは常にあるけれども、その具体的な内実を散文で埋めてゆくこと、それがおそらく自伝や評伝といったジャンルの存在意義だろう。幕末の横浜で一家をなした土木請け負い業の家に生まれ、明治維新をはさんだ激動の中で没落してゆく一家を横目で見ながら、同じく没落士族の私塾などに通いながら変わりゆく世の中にどうやってひとり立ってゆくかを模索する、そんな巷にしっかり生き残っていた近代以前の「義」に生きる無名の人々の描写が素晴らしい。

この「新コ」長谷川伸の生い立ちは、「近代」というおよそとんでもないものにいきなり襲われたあたしたち日本人同胞の最も小さな、しかし絶妙の語り口を介して最も最大公約数にまで開いてゆけるような、そんな生の記録だ。


日本で民俗学という学問をほとんど自力で立ち上げた創業社長にして、その果実をまた一代で蕩尽し尽くしたわがまま爺い。いや、すまぬ、別に悪口を言うつもりはないのだが、あたしも民俗学という破れ看板掲げて世渡りしてきた手前、この創業社長に対してはいろんな想いがある。

もとはと言えば、明治人の内務官僚。帝大時代に農政を修めながら文学三昧だったのを卒業間際に一転、身を翻して立身出世の世界に敢然と乗り込んだ。入った先は農林省。それから内閣文庫の管理から貴族院書記官長まで歴任するが、結局は官を辞して在野の学者として生きることを選ぶ。昭和に入ってからは、当時の小学校教員に代表される大衆インテリを組織して民間伝承の会を組織。大学とは別のところから立ち上がった珍しい来歴の学問として、日本の民俗学を特徴づけた。高度経済成長という世界史的にも珍しい社会変動の直前まで、その学問は確かに文字資料偏重が著しかったそれまでの歴史学を相対化する腕力を持っていたのだ。

兵庫県辻川という村に生まれた自らの生い立ちを、晩年になってから振り返ったこの一冊は、独立独歩の知性であることを志した、しかしその本質は剛直な明治人でもあった著者が自身の内的な世界をどのように形成していったか、その過程の証言として興味深い。


実在の人物、ではないけれども、“おはなし”の文法を介在させることで、実在の人物以上に確かに手ざわりを与えてくれることがある。われら人間が言葉と意味の生き物というのは、実にこういうところに面白みがあるのだが、この「無法松」の話などはその最たるものだろう。

無法松の一生」と呼ばれて広く知られた物語。伊丹万作脚本、バンツマ主演の映画を筆頭に、芝居や小説、演歌やマンガに至るまで、さまざまなジャンルに移植され、語り直されることで国民文学のひとつとなってきたこの作品も、しかし元の小品がどんなものだったか、じかに接した人は案外多くないはずだ。

無学で天涯孤独な人力車夫、富島松五郎は明治中頃、北九州小倉の名物男として知られていたが、ひょんなことから陸軍軍人の一家と知り合うことで、それまでになかった感情に襲われるようになる。主人である大尉が事故で亡くなった後、残された未亡人と小さな息子に対して、まるで父親のように兄のようにふるまい庇護してゆく姿が「純愛」として解釈されたのは、バンツマの映画の影響が大きいけれども、そのような解釈をひとまず脇に置いて原作を読めば、「近代」に襲われた巷のひとりの日本人がどのように孤独に苛まれてゆくか、そしてどのような「老い」を迎えてゆくかについての、ある種昇華された評伝のような形になっているのがわかるはずだ。


  • 竹田米吉『職人』

これも何度も機会があるごとに紹介している一冊。明治時代に伝統的な大工の見習いとして職人の世界に入った著者が、その後自前で近代的な建築にめざめて独学で新たな知識と技術を身につけ、ひとかどの建築家になってゆくまでが、いかにも明治人の実直な語り口で語られてゆく。

もともとは、雑誌『室内』に連載されていたもの。ということは、そう、山本夏彦翁の若かりし日の編集仕事だ。昭和三十年代前半、こういう職人仕事についての関心が世間的に高まった時期らしく、その他にもこういう自伝、評伝の類が比較的まとまって出てくるが、その中でもこれは出色の出来。見込まれて北海道に渡り、開拓期の苫小牧で製紙工場の建築現場に携わるあたりなど、それまであった民俗的・伝統的な知識や技術と、明治になって一気に流入してきた西欧的・近代的なそれとを、現場の職人たちがどのように消化、吸収して適応していったのかについての、貴重が証言がたくさん含まれている。前述した長谷川伸の『ある市井の徒』などと併せて読めば、いわゆるこれまでの偉人伝ではない、それぞれの小さな生を懸命に生きた日本人の姿が、〈いま・ここ〉に立体的なものとなってよみがえってくるはずだ。


ルポとかノンフィクションとか呼ばれるジャンルの表現が、間違いなく読み手の側の現実を侵犯してくる状況というのも、少し前まではあり得た。そんな中でもおそらく最上級の誠実さで書きとめられた生の記録。炭鉱が鉄鋼や造船などと共に「産業」の最も先端の現場だった頃の生が、その後のエネルギー革命という大きな流れの、そして高度経済成長によって肥大してゆく「市民」社会によって疎外されてゆく構造の、共に真っ只中でどのように忘れられてゆくかについて、著者は同伴しながら小さな言葉を刻みつけてゆく。

「民衆」といったもの言い自体が、ここで描かれるているような生に対してどれだけ抑圧的なものになり得るか。顔の見えないのっぺらぼうの大文字としてでなく、どうしようもなく具体的な生身と、そこに宿らざるを得ないさまざまな想いやしがらみをまるごとひっくるめて徹底的に「ひとり」であること。「近代」の獰猛さの前に身ひとつで対峙してゆかざるを得なくなったわれら同胞の先達たちの生の前に、素直に謙虚になれるはずだ。


  • 吉川 良『血と地と知』

なんだか古いものばっかり揃っちまったのは、あたしがついぞ飼い主なし、独立系民俗学者の雑本好きだからとご勘弁いただきたいのだが、新しいものも入れとこう。

ここ二十年くらいで大きく変わったものはたくさんある。高度経済成長の果実が経済だけでなく、文化や人々の意識や、そういうさまざまな領域に浸透するようになったことの反映なのだが、その中でも、日本の競馬ってやつも実はほんとに大変貌。世界に通用するような馬が出てくるまでになった。そんな競馬の大変貌を支えたひとり、社台ファーム総帥吉田善哉氏の評伝。サラブレッド生産はもともと限られた人たちの手によって行なわれてきたが、その限られた人たちのひとりがこの吉田一族。南部藩屯田兵の出身。父の築いた大牧場を受け継ぎ、敗戦をはさんだ苦しい時期も自前で耐えて、早くから世界に眼を向けた馬産を志してきたその生は晩年、80年代になってから、折りからの日本競馬の「国際化」の流れときっちりシンクロして、世界のホースメンたちに知られる社台ファームを築き上げることになった。「在野」のエスタブリッシュメントがどのように「戦後」の激流を泳いでいったか、そしてその中でどのように自分の家業である「馬産」に忠実にあろうとし続けてきたか、ずっと彼に随伴してきた著者の語り口も含めて楽しめる一冊。


民俗学って学問はほんとに妙な学問で、大学だの研究所だのと全く無縁の、まるで巷の道楽や趣味みたいなところから根が生えてきている。この宮本常一もそう。もとは郵便局員で代用教員、家は周防大島の百姓で、早くから故郷を出て大阪あたりでゴソゴソやっていた。ある時期からその後ろ楯になっていたのが、渋沢敬三という、これは渋沢栄一の孫で戦後は大蔵大臣までやった御仁だけれども、この御仁もまた趣味としての民俗学にいれあげていたひとり。彼に気に入られてこの宮本常一、全国の漁村の民俗(つまり、伝統的な生活習慣だ)を中心につぶさに調べて歩き、水産庁まわりのデータベースにも寄与、後には近畿日本ツーリストと組んで観光文化についての研究所まで作り上げた。柳田国男の作り上げた民俗学ネットワークとはまた少しズレたところに造られたこの渋沢敬三オリジンのネットワークは、後に千里の国立民族学博物館(こちらは「族」だが)や、日本常民文化研究所などに結実してゆく。

その宮本常一についての、ひとまず最もていねいな評伝的ルポ。彼の伝説的な名作『土佐源氏』の成立事情について、当時の関係者を探し出して聞き書きするなど、著者の佐野真一は持ち前の執拗な取材でほとんど民俗学者のお株を奪いまくり。いずれどこの学問もそうだが、弟子筋が不自由な神話を作り出してゆく過程まで含めて、「外部」の視線で新たな人間・宮本常一像を描き出している。


その宮本常一が書いた、自分の生まれ故郷である周防大島での暮らし。近世末から明治期にかけての激動期に、西南日本のムラがどのように変貌していったのか、あくまでも自分のイエ、そしてそのイエの中に生きていた自分の親や親族たち、さらにはムラの朋輩といった身のまわりの人々を通して描き出してゆく。

焦点が当てられるのは、「しつけ」だ。人はどのような関係の中でどのように意味づけられ、そしてまっとうな社会的な存在になってゆくのか。通りいっぺんの教育論などとはまるで違う水準から、かつての日本人にとっての当たり前な一人前になってゆき方を、彼は言葉にしてゆく。戦争中に書かれたことを割り引いても、その記述の内圧は高い。

隠居した老人の役割についての記述などは秀逸。特に母と娘の関係が、嫁いだ先に対しても有効であることとか、子育てに老人が果たす意味などは、高齢化社会と言われるこれからにとっても役立つもののはずだ。固有名詞によって語られる生活史ではないが、ムラという暮らしの場で人が最大公約数の幸せをどうやって獲得していったか、について教えてくれる、今となっては貴重な記述だ。

 

中流」ってもの言いも、昨今の「新・階級社会論」などでは袋叩きにあっているようだが、それって「一億総中流」の高度経済成長後期が異様なんであって、モノホンの中流、言葉本来の意味での「ブルジョアジー」ってのも、わがニッポンの歴史にはすでに宿っていたはずなのだ。「市民」なんてスカスカのもの言いもまた、そういう歴史を省みて初めて、もっと役に立つようになるはずなのに。

大正から昭和にかけて、都市部に現われたモダンな生活のありようは、その中で生まれ育った者たちの意識に今のわれわれと地続きの感覚を植えつけていた。街育ちのその気分を自らのぞきこむようにしながら、自分が自分になっていった過程を同時代の「もの」や「こと」とのからみあいでゆっくりと書き起こしてゆくその筆致は、最もおだやかな意味での生活史、社会史といったものだ。農民がマジョリティであった頃の日本に、比率からしたら例外に等しいようなものであったにせよ、こういう街の暮らしが確実にその居場所を拡張し始めていた。後に辣腕ジャーナリストとなっていった著者が、ものごころつき始めた頃から学生時代、そして青春客気の時期をくぐり抜けてきた時代の空気を、手もと足もとのあれこれからもう一度振り返る。

 

文学、と呼ばれる営みが無条件で何か尊敬に値するアウラをまとっていた時期も、この間まであった。もちろん、それはアウラに見合った別物意識もまつわっていたわけだが、それにしても、生きることだけで精一杯なのが当たり前だった時期に、なおそれ以上の余計なよしなしごとをあれこれと考え、書きつけるのが習い性となってしまったような彼ら文学まわりの者たちの生は、存在そのものが突出した語りを引き出すようなものだったりもしたようだ。

「詩人」金子光晴は、その若い頃のヨーロッパ放浪の遍歴を何度も反芻し、異なる記述にまとめている。同じ見聞、同じ体験が時代を越えて微妙に異なる形にまとまっているのを確認するのも、また楽しいものだ。中部地方の素封家に生まれた著者が、同じく地方の教員のお嬢さんだった女性と恋愛関係に陥り、その心の動きのままに世間の規範をはずれ、いつしか国境を越えて先の見えない道中を共にするようになる。気負った文学幻想などというよりも、むしろどうやってもそのようにしか生きられない、そういう初期設定からして外れ者であらざるを得ない自分たちの業、みたいなものに対する諦念が、まずある。「知られざる人生」を導き出すのはたかだか自分ひとりの意志などよりも、それらをずっと超えたところであらかじめ決められているかもしれないそういう宿命、のような気もする。