世相史は、いつも後知恵で

 自分の生きてある〈いま・ここ〉と地続きの時代の流れ、自分以外の他人を介してもなお未だ生身を介しての地続きではある「ほんのちょっと前」――only yesterdayな過去、いわゆる現代史、時には世相史や生活史と呼ばれもするような間尺の、それも日々の暮らしの些細な部分の、特に記録されることもない移り変わりが水の泡のように連なり、重なりあってゆくことで織りなされる、そんなとりとめないさまにおいて、その流れ方や速度がひとつ違うシフトにギアを入れたかのように変わっていったらしいことに、ふと、気づくことがあります。

 それはその時、その時代の只中を、日々生きている時に気づくものではない。あとから振り返って、ああ、つまりそういうことだったんだろうな、と思い至る程度のものでしかないのですが、しかしだからこそ、そうなった時点で初めて、あの「歴史」という無駄にもっともらしく、かつ、不必要にしかつめらしくもある言葉にも、肌身に沿ったある確かな内実が宿るような気もします。

 「高度成長期」とひと口によく言われるのも、そういう思い至り、あとになっての気づきをとりあえずわかりやすく指し示すための救急箱のようなもので、漠然と「あの時代」「あの頃」というイメージだけが、それを口にし、また耳にするわれら同胞の心の銀幕にぼんやり映し出されるという仕組みになっている。それは、経済的指標などから見れば1972年の第二次オイルショックまでのことになる、とか、いや、「三種の神器」と呼ばれた家電類の普及率から考えれば、とか、そういう「定義」沙汰とはひとまず別のところでの、使い回され方ではあるようです。

 同じように、昨今では「団塊(の世代)」というのも新たな常備薬として、そのような救急箱に入れられています。辞書的な定義としての世代を指し示す言葉でもなく、「高度成長期」が世間の大方にとって実際にその時代を生きていた体験を介してイメージできるようなものでもなくなってきたことで、同時代としてその頃を生きていた世代に対する距離感や違和感、隔靴掻痒な届かなさなどをひとことで表現しようとする必要が出てきた、改めて使い回されるようになったもの言いのように見えます。これもまた、元は堺屋太一の造語である、とか、世代的には戦後のベビーブームにあたる昭和22年から24年生まれまでにあたる、とか、そのような「定義」沙汰とは別のところで。

 「うた」について振り返ってみるならば、そのようにそれまでと違うシフトに入り始めたことが露わに感じられるようになったのは、やはりその「高度成長期」、1960年代半ば頃から1970年代にかけての時期、敢えて年号で言えば昭和40年代から50年代くらいになるでしょうか。まあ、ここはひとまず、1970年代にさしかかるあたり、と漠然と言っておきましょう。先の杓子定規な「定義」に従うならば「高度成長期」の末期、「団塊の世代」が10代末から20代にさしかかった頃、にあたります。

 それ以前から、何か大きな変化の兆しが見え隠れし始めてはいた。特に、この場でずっと副音声的に問題にしてきていた、「大衆」「その他おおぜい」という〈リアル〉をどのように同時代はとらえようとしてきたのか、という問いに関して、無視できない事態が少しずつ隆起してきていたらしい。

 先廻りして言うならそれは、〈おんな・こども〉の前景化と言っていいようなものでしょう。そしてそれは、「市場」と「消費」、そしてそれらが当時の新たに姿を整えつつあった情報環境と交錯する地点において、否応なしに意識せざるを得ないようなものになってきていた。おそらく、当時の同時代的な語彙としてなら、「若者」や「ヤング」といった言い方で表わされようとしていた変化だったのかもしれませんが、でも、その内実は単なる物理的な世代としての若者、それも主として想定されていたはずの「(男の)若者」ということの背後に、〈おんな・こども〉という意味あいが必然的にひそまされていた。

 「広告・宣伝」が、戦後新たに登場したマス媒体であった「民放ラジオ・テレビ」の「CM」を介して、音楽なども含めて「家庭・茶の間」にダイレクトに入り込み、新たな市場として想定され、だからこそ直接にグリップするべき対象として現前化してきた「家庭」の消費者としての〈おんな・こども〉に対して、読み書きから聴く、話すなどの身体感覚から、それらの上に宿り、それまでとは違うありかたに新たに上書きされてもゆく日常の生活感覚までもひっくるめて「組織・再編制」していった過程。お菓子やおもちゃ、歯磨きなどの日用品がその尖兵、飛び道具になっていったことは、この場でも触れてきました。「あるべき家庭」を前提に想定された「健全な〈おんな・こども〉」像が、「戦後」の情報環境&言語空間において、「広告・宣伝」と併せ技で醸成されていった過程と、その中で宿っていった感覚や価値観、美意識その他も含めたうねりはまた、同じく生身を介した「うた」のありようにも、どこかで影響を与えずにはいなかったようです。

 たとえば、ロカビリーブーム、というのがありました。戦後史の、それも世相史や生活史といった色合いの出版物なら、写真と共に記されることの多い事象のひとつ。当時の日劇の舞台に平尾昌晃やミッキー・カーチスなどが演奏しているその前で、熱狂し、紙テープを投げ、時に舞台にまで駆け上がる観客席はほとんどが若い女性ばかり。「若い女性」がそのように公共の場所に群れ集い、そしてあられもなく熱狂して興奮する――おそらくそれまでの本邦の世間が、あまりおおっぴらに見聞したことのない光景が、そこに繰り広げられていたはずです。


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 あるいは「ダッコちゃん」のこと。タカラが作ってツクダが売り出したビニール製のくろんぼ人形ですが、子ども向けのおもちゃとして売り出されたものが、「若い女性」がファッションとして、腕に巻き付けて街路を闊歩するさまが、同じく世相史的な脈絡で写真と共に紹介されるのがお約束。子どものおもちゃを身につけて往来に出て、世間の眼にさらされることを気にしない、いや、それ以上に敢えてそうして見せるような「若い女性」がそこここに見られるようになったこともまた、それまでの本邦世間のものさしからすれば、異様なものだったでしょう。



 それぞれの事象は、個別にはまるで別のものであるけれども、でも、概ね同じ時代の裡にあったモノやコトの背後に、その時代を生きていた生身の感覚や気分は常に横たわっている。それら「若い女性」を介して前景化していたらしいできごとが、その後のできごととの連絡をつけていったこともまた、後になって、ああ、そういうことだったのか、と、常に後知恵で気づいてゆくしかないようです。


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 その当時の、そのように「異様なもの」としても見られるようになっていた「若い女性」とは、言い換えればそのような〈おんな・こども〉とは、果たしてどのような存在だったのか。例によってとりとめない問いですが、その「異様」が当時のどのような視線の交錯の裡に現前化し、そしてそれらが「市場」と「消費」のからくりの裡に回収されてもいったのか、というあたりにまつわる小さな挿話の類をひとつひとつたどってゆくことは、こういう問いをほどいてゆく足場になり得るかもしれない。

 阿久悠という人がいます。言うまでもなく、少し前に触れた五木寛之などと並ぶ、戦後の高度成長の過程で、マルチライター的な活躍を八面六臂にしたひとり。彼もまた、五木と同じく、「広告・宣伝」の仕事の場でのキャリアを足場にして商品音楽の作詞家へと転身していったのですが、その彼が、森田昌子――のちの森昌子を見出した際のことを書き残しています。

 当時、のちに伝説的なタレント発掘番組となる『スター誕生』(日本テレビ)の立ち上げから制作現場に関わっていた、その体験や見聞をもとに語られる、ある時代の変化のさま。桜田淳子森昌子山口百恵ら、「スタ誕」が発掘して、後にアイドル歌手として大きく輝かせることになっていった経緯などを回想しながら、そのような「少女」を見出した側の当時の現場感覚について、こう言っている。

「そこそこに歌が上手く、そこそこに心をうつ魅力を備えていて、苦労もまた歌のコヤシと位置づけているタイプに、眩しい光を当てることもドラマチックな美談ではあるが、「スター誕生」が求めているものではなかった。」

 すでに、商品音楽を市場に送り出す手口が「歌謡曲」「芸能界」といったたてつけでできあがっていて、また、その中で商品として歓迎される楽曲なり歌手のありかたも、ある定型が想定されるようになっていた当時の状況で、それらのルーティンに素直に従うような歌い手は応募してくる人たちの中にもそれなりにいて、歌の上手下手ならばセミプロ級の者、まさに「そこそこに歌が上手く、心をうつ魅力も備えていて、苦労もまた歌のコヤシと位置づけているタイプ」の人たちは少なくなかった。けれども、そういう才能は必要ない、そうじゃない何ものか、を「スター誕生」の現場は求めていた。ただ、それがどのようなものなのか、現場の彼らもまだはっきりわかっていない。「いわゆる上手そうに思える完成品より、未熟でも、何か感じるところのあるひと、というので選んでいた」し、「できるだけ下手を選びましょう、それと若さを」とまで、番組スタッフや審査員に対して提案していたけれども、その基準は漠然としていたし、何よりそれが間違いないものさしかどうか、確信はない。そんな手探りで暗中模索していた、まだ番組立ち上げ間もない頃、第7回の番組で「森田昌子という13歳の少女が出場し、見事に高得点で合格した」。


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「地方の中学生にすぎない少女は、何一つ光るものは持っていなかった。胸ときめかせる幻想の美少女でもなかつた。また、個性という名の癖を感じさせるものもなかった。要するに普通であった。(…)要するに、歌を歌う直前までは、会場に場違いの子どもが紛れ込んだかのように扱い、、眼中になかった。(…)若さと下手さで計ると、若さだけはたっぷりともっていて、もう一つ、どういう下手かが勝負だな、と半ば投げたようなことを言っていた。(…)予備知識のあるスタッフはともかく、歌を一度も聴いたことのない審査員の中に、番組の救世主になる少女だと予感した者はいなかったと思う。」

 その時の審査員は、星野哲郎、鈴木邦彦、町田トシ、そして阿久悠。星野と松田が40代と50代ですでに名のある大御所だったのに対して、鈴木と阿久悠が30代そこそこの「新しい世代」。その前で、彼女が歌ってみせたのは「涙の連絡船」。都はるみの本格的な出世作で、その頃より少し前、1965年の楽曲。詞は、大正生まれで映画監督、脚本家、漫画家、写真家に作詞家と、多方面に仕事をこなした才人、関沢新一の作。いわゆる「演歌」調の正統派と言っていい楽曲でしょう。

 「その審査員が思わず腰を浮かし、一瞬表情を緊張したものに変え、やがて、深い深い溜息をついて微笑で顔を覗き合う状態になるまでいくらも時間がかからなかった。(…)それは全く見事な演歌で、あるひとは背中に寒さが走ったと言い、回状のざわめきを鎮めてしまうだけの力があった。(…)彼女は若さと下手さではなく、若さと上手さで合格したのであるが……」 

 このあとを彼、阿久悠はさらっと、こう表現しています。

「……歌い方ではなく、歌が上手なのであった。」

 単に年格好の若い女の子、というだけではない、それがすでに商品音楽の定型として認知され始めていた「演歌」をうまく歌ったこと、それによってそれまでの「少女」と異なる何ものかを、単に「うた」の歌い方というだけでなく、その「うた」が宿った生身のありよう、たたずまいなどから総合的に発散される何ものか、今ならさしずめ「キャラ」と丸められるのかもしれないような部分も含めて「商品」としての「うた」の価値に積極的に織り込もうとしてゆくことが、新たな時代の要求に応える意味で必要であり、またそれが可能であることを、審査員はもちろん、その場の聴衆も含めて何か直感的に感じ取ったようです。それはまた、先の審査員の年齢構成、そして歌った楽曲の質と共に、それらを「うた」として上演してみせた少女「森昌子」が13歳、高度成長ネイティヴの世代だったことも含めて、それらそれぞれの世代性と、そこに否応なく付随してくる生身のありようの交錯が、果してどのような「場」を現前させていたのか、というあたりに、何かひとつのカギがあったようにも思えます。

 商品音楽の作詞家としての阿久悠が当時、どれだけ「新しい」ものとシンクロナイズしていたのかについては、いまさら多言を要するまでもない。森昌子とまさに同世代、同学年でもある自分自身の記憶をさぐってみても、「また逢う日まで」や「ジョニィへの伝言」など、ちょうど小学生から中学生にさしかかるあたりの時期、テレビの歌謡番組やラジオなどを介して耳にしていた当時のヒット曲、後に彼、阿久悠の手による作詞だったことを知る一連の楽曲には、耳に立つ何ものかを確実に感じていましたし、「あ、何か新しいものだ」という感覚、自分たちの生活感覚にフィットするものを受け止めていたように思います。


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 彼自身、「スター誕生」に携わった頃の現場の雰囲気を、当時のナベプロ王国との確執の中で生まれた「反主流」の番組であり、「あれは、日本テレビ音楽班の有志が企てた壮大なクーデターで、ぼくはそれに巻き込まれ、あるいは、巻き込まれることを利用して自らの幻想を実現しようとした夢見る傭兵であったのかもしれない」とも言っている。「歌謡界の認識からいうとやはり、ハネっかえりの傍流で、主流は遠藤実であり、船村徹であり、市川昭介猪俣公章であった。この主流と傍流が交わることはあるまい、と考えていた。同じ歌、音楽を志向していても、入口も出口も違うものだと思っていた」と、これはその後、森昌子となった森田昌子のデビュー曲を、その大御所遠藤実とのコンビで依頼された際の戸惑いにまつわる回想ですが、ちょうど潮目のように、新しいものと古いものとが共にぶつかりあう界面みたいな時代とその中にあったひとつの局面が生み出した「場」のありよう。「高度成長期」にさしかかるあたりに、いくつかの世相として見え隠れし始めていた〈おんな・こども〉の「異様」が、「マス≒大衆」というその他おおぜいを相手どるメディアの生産点において、ある条件の下で「商品」化のからくりにうまく反映され、使い回されてゆく機会は、このように不意打ちに現われることもあったらしい。


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 高度成長ネイティヴ森昌子の当時13歳の身体に、同じく当時30代の阿久悠からすれば「古いもの」であり、自分たちの「新しいもの」の〈リアル〉とは相容れない表現だったはずの正統派「演歌」である「涙の連絡船」が憑依して、うっかりと現前化された「うた」のありよう。それは、現前化だけを本質とする表現だったはずの「うた」の身体に、「マス≒大衆」という形象の影が投映されざるを得なくなっていた1970年前後の本邦の商品音楽をめぐる情報環境と、それらが編制し始めたそれまでと異なる「市場」と「商品」の関係から、「うた」そのものが逆に規定されるようになってゆく変貌を、先取りして垣間見せてくれていたようです。