街に流れるうた、の転変

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 「世相」というのはいつも眼前を通り過ぎてゆくものであり、だからよほど意識しておかないことにはそれと気がつかないし、だから書き留められ「記録」になることもない――〈いま・ここ〉というのは常にそんなもの、です。

 だからこそ、日々の暮しは必ずそれら「世相」としての〈いま・ここ〉に包摂されている。それは具体的な空間、われとわが身が確かに存在している場所だけでもなく、たとえば昨今ならばSNSの上を流れてゆくちょっとした断片やつぶやきもまた、それら「世相」そのものではないにせよ、その裡に生きている生身の〈リアル〉を察知させてくれる素材になる。たとえば、こんな具合に。

「最近聞いたブラック職場で上司を糾弾する女子のことばで印象に残ったのは「あの人の心の中には、いったいどんな音楽が流れているの!!」

 「うた」でもなく「音楽」。「頭の中」ではなく「心の中」。人のココロと「うた」との関係の現在をうっかり露わにしてしまうような、こういうつぶやきの断片は、案外大事な足場になり得ます。

 「音楽」ということはあらかじめ用意されている楽曲、いまどきのこととてきれいに整えられた商品音楽ということでしょう。それも「うた」ではないあたり、歌詞や文句に重点を置いた理解というよりも、それらもフラットにただ楽曲の一要素としての「音楽」という感じのはず。そして、それが「頭」ではなく「心」の中に「流れている」という認識。その音楽を実際に聴いている、それが聞こえている状態を想定しているというよりも、それが自分の「心」に響いて何か大事な体験として「個」の裡に沈殿している、その状態に表現が合焦しています。そして、そのような体験が個人の人格、人となりを規定しているという認識がすでに一般的になっているらしい、ということも。

 かつての短歌のように、何かのきっかけで感情がたかぶり、それを表現する行為が「うた」となって身の裡から流れ出す、のではない。それまで耳にしてきた商品音楽がその折々に内面を刺戟し、わが身に刻み込んでいった体験がある種の記憶となり、今の自分自身のありようを規定しているという感覚が他ならぬこの自分にあるからこそ、理不尽な上司という同じ人の裡に「どんな音楽が流れているの!」という言い方での糾弾も可能になる。より砕けた言い方にするなら、それこそ「どんな血が流れているの!」といったものでしょう。人の内面を規定している「音楽」、それも外から与えられる商品音楽に触れてきた体験が、個人の人となりに抜き難く関係しているというこの認識は、敢えてこのように腑分けしてみようとしないことには、おそらく日々立ち止まって考えてみることのない〈いま・ここ〉の、すでにはらまれている「分断」も含めた、ある見えにくい局面です。

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 このように、「うた」が人のココロやキモチと結んできた関係を解きほぐすそうとすると、さまざまな厄介が眼の前に立ちはだかります。それは「うた」が本質的に〈いま・ここ〉の事象であることと関係している。

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 以前、ちょっとしたテレビ番組、取材構成をもとにした企画のレポーターめいたことをやっていた時、それはビートルズ来日30周年にからめた企画だったのですが、1966年の彼らの来日当時、ホテルの部屋にまでつきあって彼らの写真を撮っていた浅井慎平さんに話を聞きに行ったことがあります。番組として必要と思われることはあらかた尋ねたインタヴューの最後、世間話の合間にほんの何気なく、ビートルズの曲はどういう時に聴くのが一番しっくりきますか、といった質問を投げかけた時、打てば響くで返ってきた答えがこれ。

 「いや、あれは不意に耳にするからいいんです。街に流れているのがたまたま耳に聞こえる、そういう聞き方が一番いい」

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 ああ、商業音楽の、つまり商品として流通している「はやりうた」のある本質を的確にわしづかみにした言い方だなぁ、と舌を巻いた。と同時に、ならばその「街に流れるうた」というのがあたりまえだったのはさて、いつ頃までだっただろう、というその後それなりに引きずることになった問いも、また。

 思えば、ただぶらっと街なかを歩いているだけでも、何となく音楽が聞こえてきていた環境、というのは確かにありました。少し前、ある時期までは間違いなく。

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 最近だとサウンドスケープとか何とか、もっともらしい術語も引っ張り出されてそれら音が形成する情報環境について考察されるようにもなっているらしいですが、そんなことをせずとも、喫茶店やパチンコ屋、呑み屋や居酒屋、スナックの類からそこらの小売店の店頭、商店街の割れた音出す錆びたトランペット・スピーカーに至るまで、何となく「うた」を、レコードやラジオ、有線放送などを介して流しているのが、少し前までの本邦の日常ある部分でのサウンドスケープでもあったはず。そんな中、「街頭で出会い頭に」出会う楽曲が人々の記憶の裡にあるくっきりとした痕跡をそれぞれ残してゆく、確かにそれが「はやりうた」「歌謡曲」の世間一般その他おおぜいにとっての〈リアル〉であり、現実的なあり方でした。

「歌謡曲の現実的なあり方は、むしろその断片的な記憶として残っていることのほうにあると思われる。(…)たまたま流れてくる歌がこちらをとらえ、ああいいなと反応するのだが、それはあくまでも部分であり歌の断片だからだ。しかもたいていは、そのままわれわれは通り過ぎてしまう。通り過ぎたあとにしこりのようなものが残るとすれば、それが一節なり二節なりの記憶としてあるのだ。好きな歌手の歌なら何でもレコードを買うというような年齢を過ぎた生活者は、おそらくそのようにして歌と出会い、擦過して、肉体のうちに断片化した歌の記憶を蓄積していくのだ。」(上野昂史「肉体の時代」1989年)

 この場合の「歌謡曲」は、歌詞や文句が前景化した意味での「うた」でしょう。その一節が耳に残り、あるいは歌詞の意味とあいまって心に刻まれ、どれ、ひとつレコードも買ってみよう、になる。手もとのレコードを介して繰り返し聴くことで同じ楽曲の作品世界の全体像が俯瞰的に見えるようになり、その過程で最初に耳に残った一節もまた新たな文脈で発酵、培養され確かなイメージを伴って記憶に刷り込まれてゆき、個人的な生活史の記憶のひとコマと共に再編成されてゆく。あの「歌は世につれ、世は歌につれ」という、すでに陳腐化したもの言いにしても、そのような楽曲と体験、個人的記憶との間の相互作用を重ねることによって、ある確かさを宿せていたのでしょう。

 ただ、そのような「うた」の体験と共に、音楽に含まれていることばが背景に退いてゆくような耳の習い性が育ってゆく過程もまた、同時代にはらまれていたらしい。「BGM」や「イージーリスニング」といった言い方で、日常の空間に「ただ流しておく」音楽、歌詞を抜いた形での楽曲もまた、歌謡曲や洋楽などの商品音楽と並行して普及してゆきました。ほら、スーパーとかでエンドレスに流れているようなああいうやつ。レコードとして買われることはなくても、日常に流れている音の一部にそのようなBGM的な消費をされる音楽も含まれてゆく過程は、思い返せば確かにあった。

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 あるいは、「映画音楽」というくくりで、主に洋画の主題歌や挿入曲を流通させる市場もありました。あれは家具調のステレオセットが家庭に入り込んでいった時期でしょう、わけもわからず月賦で買い込んだそれらを鳴らすレコードが、そこらの街頭で流れているような歌謡曲や流行歌しかないのでは最新型のステレオセットが泣く、と言って戦前から蓄音器趣味の王道、「教養」としてのクラシック音楽をいまさら嗜むようなガラでもない――そんな高度成長期の本邦その他おおぜいにとって、それら「映画音楽」は絶好の「豊かで幸せな家庭生活」を飾るアクセサリーでした。実際、頒布会形式で毎月送られてくるそれらのシリーズは、百科事典などと並んで当時、結構な商売になっていたといいます。たとえ歌詞があって歌われていても外国語だからそれらもまた単なる音でしかない分、ただ流しておいても耳の邪魔にならないし、何より、いちいち心にひっかかることもなく聞き流せる。それはまた、音楽における「ことば」がその楽曲の記憶をこちらの内面に刻みつける手がかりとしての地位を失っていった過程でもあったようです。
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 レコードという商品をわれらがあたりまえに手にするようになるまで、巷に流れているのは「流行歌」でした。それ以前なら、まさに生身の口と耳とを介してはやり病のように「はやってゆく」のが「うた」だったものが、レコードという新たな媒体が出現して商業化して以降、その「はやってゆく」過程がそれまでと違うものになってゆく。ラジオという「放送」媒体が登場するのはその後だったわけで、このあたりの前後関係が、ラジオに付随していた「臨場感」という仮想的な〈いま・ここ〉への執着にも関わってきていたようです。

 たとえば、ラジオ放送が本格的に始まる前、当時のこととて逓信省がその運用についての通達を出していて、そこにこんな一節がある由。

「直接ノ音声ニ依ルヲ原則トシ可成「レコード」ニ依ルヲ避ケシムルコト」

 つまり、ラジオの電波に乗せて放送していいのはナマ音源だけ、レコードという録音音源を使うことはできる限り避けよ、というお達しです。

 これまでの研究書などでは、ラジオで放送するとそのレコードが売れなくなってしまうからレコード会社の商売に配慮した通達だった、ということになっていて、これは同じく初期のラジオに新聞社がニュース原稿を提供することに制限をかけたのと同じ理屈です。確かにそういう傾向はあったらしく「レコード会社としては、はじめから放送が力を持ちはじめてきたら、レコードは売れなくなるんじゃないかと、放送することには、だいぶ反対の動きがあったように記憶しております」(古関裕而の発言、『放送夜話』1968年)といった証言もある。もっとも、この通達自体、じきに削除されたそうですが、それでもレコードを音源として放送に乗せることはその後しばらくの間、ラジオの現場では何となく忌避されていたようです。

 同時にまた、こんな証言も。主は丸山真男の兄だった丸山鐵雄。

「レコードのヒットをそのままとり上げるのは、放送局のプライドが許さなかったし、歌そのものも、家庭の茶の間にとび込んでさしつかえのないものが、すくなかった。」(丸山鐵雄の発言、『放送夜話』1968年)

 この「放送局」というのは当然、その頃唯一のラジオ放送局だった日本放送協会、つまり今のNHKのこと。新興のマス・メディアだった「放送」なれど、まただからこそ、でもあったのでしょう、「プライド」という言い方が当然のように付随して出てきます。その内実は、民間の商業資本であるレコード会社に対する優越意識と共に、続いて出てくる「家庭の茶の間にとび込んでさしつかえないもの」というあたりに重心がかけられたものになっています。その「家庭」という新たなまとまりを構築してゆく上で、ラジオのその「臨場感」というのは、どうも想像以上に重要な役割を果していたようです。そしてそれは、流行歌など当時すでに「街頭」に流れるようになっていた音たちとは一線を画すように、当初は設計されていました。