まるごと、としての「うた」の可能性


 いま流行っている音楽、という設定が、いつの頃からか、われわれの日常の中から失われたように感じています。そして、そのことの意味というのも、もうあまり立ち止まって考えることもされなくなっているようにも、また。

 思えば、テレビのいわゆるヒット・パレード的な歌謡番組が眼につかなくなってすでに久しく、街なかからレコード屋はもとより、レンタルCDを扱う店もほぼ姿を消しました。ラジオからはまだそれなりに音楽は流れてきますが、でもそれは、かつての「ヒット曲」といった熱を帯びた、群を抜く意味あいからは遠く、たまたまその時その番組の選択で流されているだけの、世にあまたある楽曲のひとつでしかありません。

 それは、音楽の聴き方――この場合は、商品化された商業音楽と敢えて限定するのが正確なのでしょうが、われら世間一般その他おおぜいが日常耳にする、できる「音楽」のほとんどが否応なくそのような商品化された商業音楽の再生でしかなくなっている以上、音楽一般も現実にはそのような存在でしかなくなっているわけで――もまた、すでにweb上のデジタイズされたデータ、つまり「情報」として蓄積され、そこから好みに応じて、あるいはその好みすらも何かどこかであらかじめ選択してもらって手もとに送られてくる、そんな楽曲を手もとの再生機器を介して聴くのが大方になっている情報環境の現在では、同じ〈いま・ここ〉を生きている自分以外の多くの人間が何らかの相通じる想いや心持ちを介して耳にしている楽曲、といった意味あいを、ひとつの音楽、創作物としての作品に付与してゆくこと自体、かつてのようには、もうできにくくなっているということなのかもしれません。

 とは言え、「演歌」とくくられるジャンルだけは、まだかろうじてかつてのたてつけを維持しているらしい。テレビでも深夜帯とは言え、まだ番組は残っていますし、何より一見かつてと変わらない流れで「ヒット曲」をめざした「新曲」がリリースされています。むろん昨今のこと、それらは「百歳までがんばろう」的な、明らかに高齢者をあてこんだ、むくつけなつくりになっていたりはしますが、それでも、あらかじめデータとして、「情報」としてだけ仮想空間に膨大にストックされているに過ぎなくなっているいまどきの「音楽」のありようの中では、まだいくらかでも「ヒット曲」としての、つまり同時代の不特定多数の想いを吸着し得る依代としての「流行歌」としての装いを、それらの楽曲はまだ何か切実なものとして持たされている印象があるのは、かえって不思議な感じがします。

 歌詞としての「うた」と、それ以外のフシや調子、リズムといった音楽本来の要素としての「うた」と、それらが共にひとつの楽曲としてのありようにまるごと込められている表現。ただ、それらの条件から眼を離さぬようにしながら、注意深くそのまるごととしての「うた」を考えてゆこうとすると、これまであれこれ及ばずながら言及してきたように、「ことば」とそれ以外の要素の受け取り方、つまり聴き手としてのこちら側の音楽に対する耳と内面の関係、そういう耳のリテラシーのありようについても、その経緯来歴含めて合焦せざるを得なくなります。

 けれども、それはこれまでの、そしていまある本邦日本語を母語とする環境での学問なり学術研究のたてつけからは、問いとして視野の中心に位置させにくいものらしい。書かれたものを「読む」ことと同じように、そこに流れる音楽を「聴く」ことによって、その聴き手の裡にどのような感覚を介した内面が広がるものか、そしてそれは書かれたものを「読む」時とどのように違い、また地続きでもあるのか。そのような問いは、抽象的な概念、外来語由来も含めた学術研究の道具だてに整然と収まるようあらかじめ誂えられた語彙ではなく、まずはあくまでも自分ごととして、日本語を母語とする環境の裡で生まれ、社会化し、人となってきた他でもないこの自分自身の内面と照らし合わせながら、そこから再度、外部に通じる言葉としてかたちにしてゆかねば、何も具体的に始まらない。しかし、そのような作業は、このあらかじめ逃げられない桎梏としてひとまずある本邦日本語を母語とする環境での学問や学術研究の内側からは、まずほとんど顧みられることのなくなってしまう、その程度にもう迂遠で役立たずのものとすら思われてしまうようです。もちろん、これまでもそういう状況はずっとありました。しかし、それ以上に近年の本邦の人文社会系の〈知〉をめぐる、この何ともとめどない変貌の風景からすれば、なおのことそのような視線がひしひしと強くなっているように感じられます。

 それは、どこかで「人間」というこの生身を伴う厄介な存在についての、日本語を母語とする環境における認識自体が、どこか知らぬ間に、これまで「そういうもの」としてあってきたたてつけから、また別のものへと静かに煮崩れ始めていることの反映でもあるようです。

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 けれども、その「人間」とは、かつてまだ、本邦日本語環境でのそのような〈知〉が、まだそれなりの安定したたてつけの中でまどろんでいられた頃、どのような専門性に足つけたものであっても、いずれ知的営みにとっての大きな、そして永遠とも思える共通の主題ではありました。humanitiesという見慣れぬ横文字に託されていたその内実も、その程度にはこの遠く離れた縦文字の風土、漢文由来の表意文字の表象とすでに長年なじんできていた言語空間においてもなお、けなげに理解されようとはしていたらしい。

 たとえば、戦前生まれで、敗戦後まだそれほど間もない頃、大学入学資格検定経由で大学へ入り、理系も文系も知ったことかと股にかけて自在に往来、その後フランスに留学して学ぶことを自ら選んでいったあるひとりの知性は、そのフランスでの体験に根ざして、こんな感想を書きとめています。

「日本の学者ほど各国の参考文献と研究事情に満遍なく通じてはいないが、自分自身の研究資料と、しばしば偏屈でさえある思い込みに彩られた視点をしぶとく抱えた、学界ではすでに名の通ったベテランもいる中年若年の研究者が、ガクイロンブン準備中の学生も交えて無遠慮にたたかわせる議論の中で、ルソーとか、モンテスキューとか、モースなどの名が、自分たちの属するものの一部というひびきで、いかにもさりげなく語られることに、私は羨望にも似た驚きを感じたものです。」

 ああ、人文学! かのフランスの、本場ヨーロッパの教養のなんと豊かな知的風土!……といった風におそらく当時、大方には読まれたであろう一節です。いや、今でもまじめな人はそのようにこの後半部分、「ルソーとか、モンテスキューとか、モースなどの名が、自分たちの属するものの一部というひびきで、いかにもさりげなく語られること」に、ごく自然に眼をやり、そしてさしたる抵抗なく素直に感動してしまうのでしょう。

 でも、いま、この令和の御代の〈いま・ここ〉を呼吸する身の丈に立ち戻ると、同じ一節から引き出されてくるものの様相は違ってくる。むしろその前、「日本の学者ほど各国の参考文献と研究事情に満遍なく通じてはいないが、自分自身の研究資料と、しばしば偏屈でさえある思い込みに彩られた視点をしぶとく抱えた、学界ではすでに名の通ったベテランもいる中年若年の研究者」という部分にこそ、「読む」射程をとらえさせられるのは、なぜでしょう。そして、そこに軸足を置いて重心をかけて「読む」ことから、その前の「日本の学者ほど各国の参考文献と研究事情に満遍なく通じてはいないが」という留保の一節の意味も、そしてその後の「ガクイロンブン」という敢えてカタカナで、それもそのような表記をカジュアルに行なうことの敷居がまだ十分に高かったはずの当時の状況で、そのような知的遍歴を自ら選んでいた御仁が敢えてこう表記してみせたことの違和感や距離感も、初めて同時に、双方向で視野に収めて文脈化してしまえるようになってくるのも、はて、なぜなのでしょう。

 嘘じゃない、ほら、そのすぐ後、この一節はこのように続いているのですから。

「日本では、こうした学問の先達の名と業績は、まずヨーロッパの社会、思想、学問の歴史の脈絡のなかに位置づけて理解しなければならない。そして「語学」のできる人が、そうした欧米の学史や学説の理解に長けていると、それだけでその人にひけめを感じたりする。(…)国際的な人の興隆と情報の交換がこれだけ盛んになったいまでも、日本では相変わらず欧米の知的モードの紹介業者の文章が氾濫し、「あちら」ではそんなことはもう時代おくれだという空疎な強迫的言辞が依然説得力をもち、外国人の著作の引用や評釈が大部分を占めていて、引用と筆者自身の意見の区別もつきにくいような著述が横行しています。」(川田順造武満徹「音・ことば・人間」1980年 岩波書店)

 われら日本人にとっては翻訳という変換作業を介してはるばる輸入されてきた知的アイテムとして存在するしかなかった「ルソーとか、モンテスキューとか、モースなど」も、そこではあたりまえに自分ごとであり、自ら生まれ育ってその裡で社会化してきたような言語空間に「そういうもの」として存在している。「自分たちの属するものの一部」というのはまさにそういうことです。そして、そのような前提で「自分自身の研究資料と、しばしば偏屈でさえある思い込みに彩られた視点」もまた平然と共存していて、それもまた当然自分ごととしてその「自分たちの属するもの」と地続きであるらしい。だから、そのような視点を「しぶとく抱え」続けたまま中年まで過ごしてくることも何の疑いも持たれずにあるのだし、さらになんとそれは、いま学位論文を書こうとしている段階の若い衆世代とも、同じく平然と地続きの言語空間に共に呼吸している。

 とは言え、その「学位論文を書くこと」は、彼のような留学生はもとより、当時の日本人の大方ならば自明にそう受けとったはずの重大な関門、立身出世の階梯における大事な瀬戸際といった意味をどうやら持たされていないらしい。そのことも、ここで彼は敏感に察知したようです。

 なるほど、それが修士号であれ博士号であれ、いずれそのような「学位」を取得するのを目的とした「論文」を書くことは、書いてそれなりの手続きによって「審査」され「評価」されることまでも含めて、確かに大変な作業であり、それはその若い衆自身にとってある種の通過儀礼と言ってもいいかもしれないかけがえのない経験にはなるだろう。けれども、それは「自分たちの属するものの一部」が世代を越えた自明の広がりを持ち、生身の主体の実存含めてまるごと確かにそこに包摂されている、それがあたりまえの環境として育まれているこの地の〈知〉にとっては、実はそれほど本質的なことでもないらしい――彼の察知したのは、おそらくこんなことだったはずです。だからこそ、「ガクイロンブン」というそのカタカナ表記が、ある距離感と共にこの文脈に置かれているのだし、またそれゆえ確かな意味もはらんで、改めて〈いま・ここ〉に浮び上がってきます。

 本邦の近代においてざっくり「教養」と置き換えられ、より当用的には人文系と呼ばれてもきたような、それ自体迂遠で役立たずでしかあり得ない〈知〉の本領。おそらくhumanities がこの島国にまで流れ着き、そこであれこれ紆余曲折を経た後に選ばれてきた日本語の語彙だったのでしょうが、それがもともと出自の彼の地で根を生やしていた風土や環境をまるごと察知されたからこそつむぎだされたかに見えるこの一節。まあ、ありがちな日本的な知的風土への批評、外来借り物文化の抜き難い習い性といった側面からだけ読んでしまう、それ自体すでにある種の拘束具となっている本邦の〈知〉のルーティンのいまどきからすれば、ためにする揚げ足とり、あるいは「そうも読めるかもしれない」程度の「実証的裏づけのない単なる感想」として、いまさら一顧だにされないのでしょう。

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 音楽もまた言葉であり、言葉もまた音楽である。そのような意味で「うた」は生身の身体の自分ごとを介して初めて、まるごとの音楽であり言葉でもあるようなありかたを、改めてわれわれの〈いま・ここ〉に現前させてくれる。そのような〈リアル〉は、どんな時代、どんな社会であっても、人が生身を伴う存在である限り、必ず何らかのかたちで宿るものですし、また、そのような現前に共感する生身を自ら認識することで初めて、それらまるごとの〈リアル〉も外部へ開いた言葉へと変換させてゆくことが可能にもなる。言葉に関わる「歴史」についても同じこと、まるごとの音楽、まるごとの言葉という視点を梃子にして、これまで見慣れぬ「うた」としての位相もまた、うっかりと〈いま・ここ〉に現前させることができるかもしれません。

 現実というのもまた、「おはなし」の枠組みに沿ってのみ、〈リアル〉になるものでした。「身にしみる」というのはそういう〈リアル〉についての評言であり、逆に言えば「おはなし」の枠組みがうまく稼動しない、できないところでは、どんな現実も「身にしみる」ようには響いてこないものでした。そして、そのような「おはなし」は、ほぼ必ず「うた」というまるごとと共に響き、伝わり、そして共有されてゆくものだったようです。

「つまり語ることとは耳を窓口にしているため文字を語る、読むといったことではなく、あくまでも耳が聴き取ることにウエイトがかかっている。耳との折り合いが一番重要な点である。」(高橋康雄「童話への息づかい――与謝野晶子おとぎばなし少年少女』他」、『冒険と涙』所収、p.148。)

 かつて、言葉もまた音であり、音である限りは耳を介して、「うた」のまるごととしても訴えかけてくるものでした。「語る」は、だからそこにある文字をなぞって読むことではなく、「うた」のまるごととしてのありように憑依しながら、耳との折り合いをつけながらの表現でした。

 そのような意味では、あの文語もまた、その定型も含めての発声から朗読までの過程、つまりその「語り」のありようこそが、眼の優越に阿る「記録」でなく、耳をも介した「記憶」にとっての利便であったのかもしれない。ということは、言文一致から口語体へ赴いたことで、われわれの記憶力はある意味、減衰していった可能性がある。音や響き、間や調子といった、いずれ話し言葉による「語り」ならではの、言い換えれば「うた」としての属性もまた、その「記憶」の相からは剥がれ落ちてゆき、文字に容易に変換できてしまう限りでの効率的で合理的な、情報環境の変貌がもたらしてゆく近代の「速度」に身を沿わせてゆくようなことばによる「記録」としてしか、かたちとして残らないようになってゆきました。

 もちろん、そのような「記録」でも、それをほどいて「読む」側の裡に、かつてはらまれていたはずの音や響き、間や調子など、「うた」のまるごとへの感覚が開かれていて、それらが生身の実感、体験として宿っている限りは、その「読む」過程でそれらを補完しながら解読することもまた、あたりまえに可能だったでしょう。しかし、時が経ち、世代も変わってゆくことで、そのような生身の側の条件も変わってゆく。そうすると、「読む」こともまた、最も貧しい意味での「記録」をただそのものとして、単に書き言葉の間尺に移し替えることでしかなくなっていったらしい。言文一致などと共によく言及される近代におけるあの「黙読」の普及浸透というのも、「内面」の形成といった説明軸と共に、その一方でそのような「読む」作法に本来備わっていた多様性、「うた」のまるごとに親しい部分を取り除き、編制されてゆく近代の情報環境にふさわしく整形してゆく過程の反映という面もあったはずです。

 いずれにせよ、このような情報環境とそれに伴う言語空間の形成を、まず穏当に〈いま・ここ〉の裡で確実に意識しておくこと。それがいま、humanitiesの本願に沿った人文系理解、まるごとの〈リアル〉の失地回復をこの日本語を母語とする環境において敢えて迂遠に志す方法意識にとって、おそらく本質的な下ごしらえになります。すでに失われてゆくことが確定し、もはやその輪郭すらおぼろになりつつある、そんなかつてのまるごとを〈いま・ここ〉の内側から回復してみせるための、「読む」ことの有効射程距離。普通に見ればただの断片、世にあまたあるありふれた文章の一節であり、あるいはまた楽曲の一部でしかないようなものであっても、そのような「読む」を実装した生身を介せば、また新たな相貌、思ってもいなかった風景を引き出してくれる素材へと、自在に闊達に、その姿を変えてくれるものになります。「うた」というまるごとの可能性は、どうやらそのような人文学における方法的な文脈においても、まだ十全に開かれていません。