「歌謡」と「曲」の来歴

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 戦前、ざっと大正末期から昭和初期にかけて、「童謡」と「民謡」はうっかり隣り合わせになり始めていた。そこでは「童」と「民」、つまり「子ども」と「民衆」≒普通の人々が、共に「謡」≒「うた」を媒介としながら、文字・活字ベースの情報環境で編制された〈知〉の側から改めて「発見」されるようにもなっていた。

 とは言え、ことお題が「うた」という、いずれ生身とからんだ茫漠とした領域にまつわるゆえ、それらの言葉の定義は使う人により、また場合によりさまざまに揺れ動き、それぞれの文脈を落ち着いて斟酌しながら立体的に読もうとしないことには、なかなかその内実にまで届かない憾みが常にまつわってくる。たとえば、こんな具合に。

「童謡とは童心を通してみたる事物の生活を音楽的旋律のある今日の言葉で言ひあらわされた芸文である。」(野口雨情『童謡教育論』、1923年)

「一口に民謡と申しても、その定義といふものは大變に複雑して居りまして、理窟の上から申せば、歌謡といふのも、俗謡、俚謡といふもの、又は童謡といふのも、悉く民謡であつて、昔から古く唄はれたもの、或は地方から發生した唄は、みんな民謡なのであります。」(佐藤惣之助「民謡の研究」、佐藤惣之助・髙橋掬太郎『民謡と歌謡研究』所収、1943年)

 定義自体が目的化するのは、いずれ文字・活字ベースの情報環境で編制された〈知〉の宿痾のひとつではあるだろう。だが、それにしても、これら行儀の良い、だからその分平面的でゲームめいた味気なさもまつわる説明にひとつひとつ律儀に向かい合うだけでは、「うた」としての「童謡」「民謡」がうっかり隣り合わせにさせられるくらいに当時一緒くたに はらんでいたらしいある気分のふくらみについて、〈いま・ここ〉から手ごたえある「わかる」に到達することはできないものらしい。

 「明治初年から民謡は歌われていたが、それは地方でうたわれたもののうちで、座敷唄として適用するようなものを、花柳界で芸者が三味線にのせたのであった。(…)それで、民謡といっても、三味線流行歌のような形であった。レコードができてからも、歌手は芸妓か寄席芸人であった。それほど、民謡は当時百姓唄として音楽界からは重く見られなかった。」(森垣二郎『レコードと五十年』、1960年)

 この時期の「童謡」と「民謡」の隣り合わせは、児童文学と民俗学の本邦近代思想史上の相似という補助線を引くことによって、また別の様相も呈し始める。共に近代的な〈知〉の通俗化と凡庸化の過程にあった当時、それぞれの版図をうっかり拡大してゆくことになったという意味においての、大衆社会化に伴う〈知〉の側からの現実認識、〈いま・ここ〉を把握してゆく新たなたてつけの前景化の過程として。そしてそれは、あの柄谷行人がある時期から今さらながらに柳田國男をあれこれ相手取るようになった、その脈絡の必然ともおそらく重なってくる。

 柄谷的な、あの本邦ポストモダン流儀を愚直に反映した文芸批評の作法に従ってみるなら、「児童」の発見にはそのための「文体」があらかじめ発見されることが必要であり、それゆえ「内面」「自己」という近代的自意識がその輪郭を明確なものにしている必要があった。そして、「児童」は「風景」のように発見されていったというわけだが、それと同じく、「民俗」や「常民」もまたそのように発見されていった過程があったと考えられる。それはいわゆる「現実」の発見、さらに押し進めれば「日常」や「生活」「暮らし」などのもの言いで表象されてゆくことにもなるであろう〈いま・ここ〉をそのように見出してゆくからくりの歴史性にまで敷衍してゆくことになる。あるいはまた、違う方向に視野を広げるなら、柳田的な意味あいとは異なる折口信夫的な意味も含めての茫漠とした「古代」や「むかし」、「文化の古層」といったもの言いによって表象されようとする領域を発見していった過程にもつながると思われる。だが、そのような考察はこの場の間尺になじむものでもない。ここでもまた、初発の問いである「うた」の場所から何度でも、だ。


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 「歌謡曲」という言葉も、最近では使われなくなってきている。

 Jポップなどというすわりの悪いもの言いが一時期編み出され、その後少しは広まったけれども、それも商品音楽の一部のジャンルをカバーする言葉でしかないまま霞んでしまったようだ。まして今やボカロだのYouTuberだのを介した新たな楽曲すらいくらでもwebを介して手もとのデバイスにダウンロードされてくる昨今の情報環境では、そのように日常にあたりまえに遍在するようになった商品音楽をその属性から定義する大きなもの言いは、もはやその必要すらなくなっているのかも知れない。対照的に「楽曲」という、おそらくもとは商品音楽を生産する現場で使われていたような無機的なもの言いが、個々の曲についてのみならず「音楽」一般にまで置き換えられる大きな言葉として、少し前までの「歌謡曲」に代わって使われるようになっているのも、またいろいろ示唆的ではある。

 その分、かつての「歌謡曲」のその「歌謡」の部分がある時期まで独立したひとつの単語として使われていたということも、忘れられかけている。「歌謡曲」とは「歌謡」プラス「曲」であったことの経緯には、その前段の「歌謡」と後段の「曲」とが成り立ちも来歴も別ものでもあったこと、「歌」と「謡」は共に「うた」と読み得ていたのに対して「曲」はそれらと少し距離がある内実を伴っていたということなども確かに含まれていたはずなのだ。

 もちろん、「曲芸」や「戯曲」などのように、それら「曲」という一語に込められてきた意味あいやニュアンスから考えてみようとすれば、そもそもその漢字の本家本元、大陸からの由来や来歴がそこにこってりとからんできていることに思い至らざるをえず、いずれ門外漢には手にあまる。だが、それらを十分承知した上で、とりあえずこの場の「歌謡」プラス「曲」という言葉の成り立ちにおける近代このかたいまどき日本語の脈絡での「曲」について言えば、生身の主体の動作にまつわる「うた」の部分とは別の、それら主体の外側からアタッチメントのように取り付けられる客体としての楽曲の部分、といった意味あいになるだろう。つまり、近代西欧的な意味での「作曲」と地続きな、あらかじめ楽譜に置換され整理された形式で「うた」とは別の主体の制御の下に作り出される生産物としての「曲」、である。そして、その「曲」の部分こそは当時、レコードという新しい媒体を介して拡散されてゆくことになった商品音楽――「レコード歌謡」という言い方もあった――に必然的に伴い始めていた、「作曲家」の手による創作物という新たな属性を付与した「うた」のありようを受止めるために必要だったらしいのだ。

「レコード音楽が成長するとともに、歌謡の詩すなわち歌詩は純然たる文学的色彩を次第に失いながら、音楽と結びついた文字表現の新しいジャンルの芸術として発展していったのである。ここに「流行歌」が普及するとともに歌謡作家という新しい職業が出現することとなった。」(小山心平『我つらぬかむ――作詩家・髙橋掬太郎小伝』(財)北海道科学文化協会、2004年)

 「歌」と「謡」は共に「うた」であり、前者の「歌」が「歌手」に、後者の「謡」が歌の「文句」を創作する「詩人」「作詞家」に、そして「曲」はそれらに伴う楽譜化された客体的な楽曲を創作する「作曲家」に、それぞれ対応していた。そしてそれは、レコードという当時の新しい媒体を介した「うた」の共有のされてゆき方、「流行歌」と呼ばれるようになっていたその「流行」の部分についての当時の情報環境の変貌を期せずして反映した言葉でもあったらしい。

 それらは単に個人の主体的な創作物というだけでなく、あらかじめ不特定多数の読者や受け手を想定したところで作られる、いわば「市場」的な広がりを視野に入れた上での創作という意味において、当時急速に前景化していったものだった。「純粋詩」との対比として「レコード歌謡」「ラヂヲ歌謡」といったもの言いが生まれてきたのはそういうことだ。そしてそれは、あの「純文学」と「大衆文学」という、近代の文学史において定番になっている図式と同じく、今世紀に入ってからそれまでと異なる様相を示して変貌し始めていた大衆社会化の現実に伴い、広義の文学・文芸がそのありようを変えてゆかざるを得なくなった同時代状況の反映でもあった。

 そう考えてゆけば、「流行歌」の「作詞」に詩人が関わっていったことに、何の不思議もない。ただ、いわゆる正当とされる「文学」史のたてつけにおいて、それら「詩」の立ち位置からそれら「流行歌」に手を染めていったかつての詩人たちの系譜は、ほとんど正面から取り上げられることはなかったように見えるし、まして、その彼らの仕事について、その正当とされる「詩」と「文学」の側からでさえも、改めて位置づけ、評価しようとすることなど及びもつかないままだったようだ。それは、吉川英治長谷川伸など「大衆文学」とされた側の仕事が、戦後のある時期までそれら「文学」史の正統の視野にうまくおさまれないままだったこととも、間違いなくパラレルである。

 十代の頃から西条八十に見出され、また、当時のオトコとしては極めて異例にピアノが弾けて楽譜も読めるという、恵まれた生まれ育ちからのアドヴァンテージをフルに活用、早く頃からレコード産業に「作詞家」として関わってきて、敗戦直後「リンゴの唄」で一躍、国民的な知名度を獲得することになった男でさえ、このように愚痴っている。

 「實際こんなにヂヤーナリズム(チクオンキ屋と映畫屋)に支配されてはやり切れない。僕自身のことにしても、自信のあるいゝ唄を作つた時にはきつと映畫會社から文句がくる。


「先生この歌は大變結構です、ケツサクです、でもヒツトにする為には「林檎の唄」のやうなのがいゝやうですな、如何でせう、先生、一つ「林檎の唄」のやうに直していたゞけませんか」


 さうして僕の氣持ちなど少しも考へず、次の如くのたまうのだ。


「先生小説の筋なんかに、こだわつては困りますよ、何でもやんやと大向うから受けるやいに流行語をはさんで、くださればそれでいゝのですよ」


 人と生れて小唄つくりとなるなかれである。」
サトウ・ハチロー+松坂直美『流行歌謡の作り方』全音楽譜出版社 1948年)


リンゴの唄 - 並木路子、霧島 昇 (1946)
 敗戦後、「流行歌」はそれまで以上に大きな市場を獲得してゆく。「歌」も「謡」も「曲」も、それぞれを担当する人間が新たに求められるようになり、だから「歌手」をめざし、「作詞家」を志す世間一般その他おおぜいは沸騰した。「うた」もまた、それまでと違うありようで世間に浸透し、同時代気分の大事な血肉になっていった。