「作詞家」になりたい

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 敗戦直後、『夢とおもかげ』所収の論考において、南博が正当にも言及していた「大衆娯楽」の「産業構造」の部分への視線は、その後の彼ら思想の科学研究会の進路はもとより、「戦後」の過程における本邦日本語環境での人文社会系自体の脈絡においても、それほど積極的に展開されていったとは言い難いものでした。それは「文化」がそのような漢字二文字の熟語の間尺に囲繞されることで、現実の〈いま・ここ〉に現前し、かつ存在しているということについての具体的な背景にまで見通しにくくなる症状としても深まっていったようです。

 ならば、それらの過程から少し「おりる」ことを、試みてみますか。

 たとえば、当時、「流行歌」を商品として市場に売り出すレコード会社の組織というのは、具体的にはこんなものだったようです。

   1. 文藝部 …… 企畫課 
           音響課
          宣傳部
   2. 營業部
   3. 工 場

 いきなり「文藝部」が出てきます。

「この文藝部というのは、レコードを作ることに關してあらゆる企畫をするところである。例えば、この次にはどんなレコードを作ろうか、それには詩は誰にたのみ、作曲は誰にやらせるか、どの歌手を起用して、どんな風に使うか、などなどといつたようなことをするのである。どこの會社でも大抵の場合、順序として文藝部で企畫を立てる。(企畫を立てたものと別に作詩作曲者の持ち込みも相當あるが)そして、それを最初に詩人に作詩を依頼する。歌詞が出來上つてきたら、よく検討して、これでよしとなると、今度はそれを作曲家に廻して曲をつくらせる。」(清水瀧治『レコード界 人氣花形千一夜』キング音楽出版社、1948年)

 これは当時、新劇や軽演劇などでも似たようなたてつけになっていて、台本を作る作家や演出家など、舞台に実際にあがる役者や歌手、ダンサーなど演者の背後でそれらを動かす仕事、その中でも大道具や小道具、照明などの現場の技術を介した仕事とは別の、広義のマネジメントも含めた事務方に近いペーパーワーク主体で、文字を介した紙とペンの創作作業に従事する者たちを「文藝部」とくくっていたようです。このあたり、それら創作の現場における文字の優越が明らかになってゆく歴史的過程とも関わってくるはずですが、それはまた別の大きな話。

 舞台と違うところは、録音つまり吹き込みに関する技術系専門職もまた「音響課」として「文藝部」に入れられていたところかも知れません。舞台の視線からすれば、大道具や小道具、照明や衣装などと同じく、具体的な技術によって全体としての創作のある一部分を担うといった理解になって不思議ないと思うのですが、当時のレコード会社としては、これは技師だけでなく、それ以上に個々の楽曲を実際に作る作曲家がここに属するもので、また事実、その地位としても録音技師よりも、作曲家(当時は編曲もあわせて担当する場合が多かった由)の方が上だったらしい。さらに当時のことですから、実際の吹き込みに際して伴奏を担当する演奏者も必要になりますが、録音に際して集められる彼ら演奏者たちの差配もまた、この「音響課」の担当だったようです。

 「關係者というのは、文藝部員(ディレクター)、吹込み技師、作詩家、作曲家、編曲指揮者(作曲家がやる場合が多い)、歌手、オーケストラの楽士、このオーケストラのメンバーは大てい十五六人が普通で、本吹込の前に練習をやつて、これならとなると、愈々本吹込みにかゝる。(…)こうして吹込んでワックスにとられた原盤が工場に送られ、工場ではこのワックスをメッキしてマザーという母型を作り、それからそれと反對の盤、第一シェルを作り、又それと反對の、つまりマザーと同型の第二シェルを作って、これをプレス機の中に入れ、上下に第二シェル、眞中にレコードの原料を入れて、壓力器で押すと、これでレコードが出来るので、それをきれいに化粧して袋に入れ文句カードを添えて市場へ出すのである。」

 このような現場の流れから、レコードは昭和初年の市場に流通させられるようになってゆき、それに応じて音楽もまた、それまでと違う世間の視線にさらされるようになっていった。それに伴い、「歌手」をめざすことも立身出世の道筋になってゆきます。と同時にまた、同じ音楽に関わる仕事としての 「作詞家」をめざす熱狂というのも、産業としてのレコード界、「流行歌」を商品音楽として市場に売りに出すしくみの伸長と共に、人々をとらえてゆきました。それらは戦前、大正末から昭和初期にかけてのレコード産業勃興期から始まり、敗戦をはさんだ戦後の情報環境においてさらに拍車をかけられ、「流行歌」が「歌謡曲」となり「芸能界」を支える大きなコンテンツとなってゆく過程では、もはや「歌手」に負けず劣らず、名も無い市井の徒が「自分もなれるかもしれない」と胸膨らませることのできる世渡りの目標、創作を介した「夢」になったようです。


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 たとえば、『歌謡文藝』という雑誌がありました。

 戦前すでに作詞家として一家を成していた高橋掬太郎主宰のサークル「歌謡文藝友の会」発行で、手もとにある創刊当時のものはB5版程度のホチキス止め。雑誌というよりも同人誌、あるいは機関誌と呼んだ方がいいような小冊子ですが、このような「作詞」サークル、流行歌の「歌詞」を創作することを目的とした小さな集まりが、どうやら全国的にあちこちに簇生し始めていて、それらの一部は短歌や俳句、詩の同人などとも重なっていたらしい。なるほど、作「詩」という当時の表記も、まんざら字ヅラだけのことでもなかったようです。

「歌謡は唄はれるべきものである。即ち歌謡は音樂である。故に我々は歌謡を作るに當つては、つねに音樂的條件を考慮する。(…)だが、歌謡は音樂である以前に、まづ文學でなくてはならない。(…)歌謡は文學と音樂とが結合することに依って初めて完成するものであり、その製作過程から云へば、文學を先とし、音樂を後にするのが當例である。」(高橋掬太郎「創刊の辞」『歌謡文藝』第一号、1947年)

 たとえ流行歌の作詞であっても、それはあくまでも「文学」であり、言葉の創作であることを強調し、「我等の茲に創刊する「歌謡文藝」は、まづ此の歌謡の文學的自覺を世に促し、それに依つて紙上歌謡の昂揚を企て、進展を圖りたいと思ふ」と言いながら、同時に「如何に文學的自覺をもつて製作したところで」「大衆を相手とする歌謡の宿命」として「甘んじなければならない程度がある。」「ただ我等は理想を有ちたい。つねに大衆と肩を組みかはし、平明通俗の道を歩かうとも、その眼は、その心は、絶えず彼方の高嶺に向けてゐたい」と、商業音楽として市場を介して「大衆」を意識せざるを得ない立場、分際についても明確に意識しています。

 「文学」「文芸」の志が、大衆社会状況に後押しされた市場の〈リアル〉に否応なく直面させられることで、それまでのありようとは別の内実を宿さざるを得なくなる。「売れる」ということ、「商品」としてあらかじめ規定される属性を意識して、それでもなお創作としての作業をしなければならない、という状況が訪れます。それはもちろん小説などにおいても当時の大衆小説、大衆文芸作家も直面していた同時代の必然的な局面ではあったでしょうが、だがしかし、こと「詩」に関する限り、その状況は「うた」という要素と不可分になった「流行歌」という新たな形でフィードバックされざるを得なかった。「ことば」と「うた」の複合形態。それは文字の読みものにとっての「おはなし」と「さし絵」の関係にも通じるもののはずですが、それもまた別の大きな話。

 大衆的な市場に対面することで、フィードバックされてくる何ものか。それは、それまでの「文学」なり「文芸」、あるいは「詩」といったもの言いでくくられてきた、いずれ文字を介した創作に関わる独特の自意識や態度に、期せずして深刻な影響を与えずにはいられない。限定された同人的広がりの「評判」「評価」「人気」によって規定されていた自意識の輪郭に、大衆的な市場を介して「売れる」という商業的なものさしが重なってくることで、その結果の金銭的な利益の衝撃と共に、創作に関わる意識の変容ももたらされてくる――高橋掬太郎と彼の仲間たちが当時残したものには、そういう経緯に放り込まれた葛藤がにじみ出しているようです。

 北海道は根室の渡り漁師の息子として生まれ、北辺僻地の末端で文字の創作に心啓かれて詩作その他に没頭、地元の地方新聞社に記者として奉職しながら、半ば仕事、半ば趣味としてそれら創作を続けてゆく中で、時代のめぐりあわせとひょんなきっかけでそれら作物が「レコード」になって当時の市場に送り込まれることになり、それによって彼の裡の「文学」「文芸」のあり方も、その意味も、当人の自覚とはまた別な水準も含めて変わってゆかざるを得なかった――高橋掬太郎という、敢えて言えば間違いなく凡庸な、そしてだからこそ当時の情報環境の裡に宿った文字リテラシーの通俗の水準に忠実でもあった「作詩家」の軌跡は、彼のもとに集った全国の無名の同人たちの創作と共に、同時代の民俗資料としての「読み」を待っているように見えます。

 「今日世に續々と流れ出る歌謡や、あらゆる歌謡誌のすべての作品(すべてと断言してもそう誤りではあるまい)が、全く、愛、戀、星、夢、華、鳥、等々の文字を、たゞそれらしく組み合せるに止り、昔の歌謡より、そのレベルが、思想に於て、感情に於て、一歩も進んだものを見る事の出来ないと云ふ事は誰も否み得ないと思ふ。(…)歌謡は、なによりも先ず詩である。だから詩の深さと高さを有たねばならない。歌謡は音楽である。だから民謡の普遍性と、リズムを有たねばならぬ。(…)今日世に歌謡を書いてゐる人々の大部分(勿論一部専門家は論外)は、詩を極めて居ない。先ず歌謡の低さ、通俗さの面からその創作に取組んだ人々である。此等の人々が、此の儘でいくら歌謡を勉強しても、器用に纏め上げる、所謂歌謡創りの熟練工にはなれるであらう。が、併し、これでは歌謡を一歩も前進させる事は永久に出来ないであらう。詩魂を、高く、深く練り上げる事が我々の怠ってはならぬ條件である。併し此の詩魂の飛躍によつて、歌謡の通俗を輕んじ、此れを厭ひさへする様になり勝なものである事を忘れてはならない。さうすればその時、その人は歌謡詩人では在り得なくなるわけである。」(槇耕一郎「歌謡の進路」)