広告・童謡・歌謡曲

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 流行歌の歌詞を作るということが、世間一般その他おおぜいにとってのわかりやすい「一発当てる」という夢の依代になっていたこと。特に稽古をしたり、師匠や先生について修行を積んだりすることをしなくても、またそのための特別な道具をそろえたりすることもせず、ズブの素人のいまの自分のままでも「とりあえずやってみる」ことができそうに思えるし、また実際できてしまうらしい――いわばそんな「出来心」程度の発心でそれっぽいことができてしまうというのは、何も作詞に限らず、その他おおぜいの無名の人がたがある方向にうっかり動いてしまう時の、基本的な条件のようです、昔も今も。

 敗戦後の世相の中で「作詞家を志す」というのは、そのように熱いものになっていたようです。またそれは、国民同胞の多くが喰うや喰わずの日々を送らざるを得なくなっていた当時のこと、「とりあえず食い扶持の足しになる」という、今となってはあまり切実に感じられなくなっているような種類の実利実益とも密接に裏打ちされていました。それは、少し引いたところで眺めるならば、同時代の「サークル」運動やその受け皿になっていた労働組合の活動などを支えたような、ある種得体の知れない「熱」とも通底していたはずです。

 そういう意味でも、昭和20年代というのは、妙な時代だな、と改めて思います。
「敗戦後」とひとくくりにされ、そしてまた「焼跡」「闇市」や「混乱の時代」といった別の角度からのひとからげにも巻き込まれて、そこから「朝鮮戦争」「逆コース」などのアイテムをちりばめながら、何となく「もはや戦後ではない」を介して昭和30年代の高度成長へとつながってゆく、いずれそのような理解ですでに漠然とした「歴史」の水準に織り込まれて片づけられるのがお約束らしいその時代、それらのイメージの皮膜の下でどのような日々の個別具体、日常の細部が事細かにうごめいていたのか、そのあたりの手ざわりは案外省みられることは、なぜかあまりないらしい。間違いなくその頃、その時代を生きていたはずの人がたがこの21世紀、令和の世のすぐ横に未だ生きていて、話を聞こうと思えばまだ十分に聞ける範囲の〈いま・ここ〉と地続きのむかし、only yesterdayであるにも拘わらず。

 「うた」と「うたうこと」、そしてそれらと言葉の関係などについて考えてみようとする時にも、この昭和20年代のすでに「そのようなもの」としてある皮膜の向こう側の、当時の〈いま・ここ〉の感触が改めて必要になってきます。


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 「うた」をめぐる本邦同胞の意識や感覚のありかたに、実は大きな影響をおよぼしてゆくような、当時のそれら日常生活の水準での変化の中には、たとえば「広告」の浸透が新たな媒体を介して行われるようになったということもありました。具体的には民放ラジオの放送が開始になったこと。その後、もちろんテレビ放送も始まるわけで、いずれそれら電波を介した「放送」媒体がそれまでとは比べものにならない規模と量とで日々の暮らしの中に入り込み、それらを介してそれまでと違う質の言葉や音、映像が否応なく流れ込むようになっていった。いまのもの言いで言えば「情報」とこれまたひとくくりにされてしまうようなものですが、ただそれもまた、事態を何か一枚の皮膜で覆ってしまう効果を持つもので、ここも少し立ち止まって考えてみなければならない。

「1951年9月1日、はじめての民放ラジオ局、中部日本放送(CBC。名古屋)と新日本放送(NJB。大阪)が開局した。当時、民間放送というよりも端的に商業放送と呼ばれるのがふつうだったという。」

 プロ野球が「職業野球」とまだ呼ばれていた時代。戦前からある国営ラジオ放送としてのNHKとは別の、新たなたてつけで創設された放送は、当時の語感としては「商業」放送というのが第一にくるものでした。「商業」つまりビジネスとして行われる放送事業。そのことがどのような想定外の事態をわれわれの暮らしにもたらしていったのか。

「当然コマーシャル・メッセージがはいるわけだが、さぞ騒々しいものだろうという一般の予想を裏切って、提供番組の前後にアナウンスされるだけ、内容もずいぶんと控えめだった。スポットCMもあるにはあったが、当初は数も少なく、さほど目立たなかった。ちなみに、新日本放送のスポット第一号はスモカ歯磨の60秒。ミニ・ドラマ形式が用いられ、作者は京都伸夫という。」(向井敏「草創期のコマーシャルソング」)

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 「商業」だから「広告」が入る、だから当然「騒々しいもの」という連想が当たり前だった。それまでの広告というのはそういうものだと思われていたし、また実際、新聞や雑誌など紙媒体を介した広告とは別に路上、街頭で繰り広げられる広告、それこそチンドン屋や東西屋、博覧会や遊園地、博物館に美術館からそこらのよくわからない見世物の類に至るまでの、今で言うところの各種イベントの猥雑でけたたましい華やかさから、巷の路地裏にまで訪れる各種もの売り、行商たちの売り声、人寄せ身ぶりなどに至るまで、いずれ不特定多数の眼や耳、五官をある意図の下に誘導し、合焦させてゆくような表現は何であれ「商業」であり広告であり、最もゆるやかな意味での広報宣伝であるといった認識は、すでに戦前のある時期から本邦世間には醸成されてきていました。この「騒々しいもの」という表現には、そのような路上的な表現の猥雑さ、いかがわしさも当然、含まれていたはずです。

 けれども、その予想を「商業」ラジオは当初、裏切ってはいた。ラジオという電波を介した放送媒体に乗せるべき「商業」の言葉、広告という目的に即した話し言葉の表現というのがよくわからなかった、だからとりあえず当時すでに確立されていたラジオ媒体における表現形式であるラジオドラマを下敷きにした「ミニ・ドラマ形式」にした、ということなのでしょう。ラジオドラマという形式が、ラジオ媒体に乗せて世間一般その他おおぜいに何か訴える、それも単にある情報内容を伝達するというだけでなく、それに加えて何か具体的な行動を起こさせ得るような方向にココロを、情動を喚起するという「広告」の目的に合致させるものとして、当時最も自然に想定されるものだったことがうかがえます。


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 それは何も戦後に始めて現われた考え方じゃない。戦前、あの帝国陸軍参謀本部においてすでにこのような認識が平然と持たれていたようです。

「一体自我ノ強イノハ宣伝ニハヨクナイ。宣伝放送ヲスル者ノ中ニモ一人ヨガリノ宣伝ガヨクアル。自分ノ云ヒタイコトヲ敵ニ向ツテ放送シテ痛快ガツイヰル如キハ、宣伝トシテハ下ノ下デアル。(…)実際コチラガイクラ熱シテモコチラノ宣伝等ニ(敵が)熱スル筈ハナイノデアル。コゝガ対座スル議論ト宣伝放送トノ異ナル点デアル。」(「対敵宣伝放送ノ原理」1942~3年頃の参謀本部配布のパンフレット)

  「議論」は「対座」で行われるもので、「宣伝」はその他おおぜい不特定多数に対するもの、という区分けが明快です。「広告」というのはこの後者、「宣伝」でもあることは言うまでもなく、ならば当然、そこで使われる言葉や表現というのは「対座」の「議論」とは別のものになる。何かココロを動かし、その結果うっかり生身の行動を促すような方向での言葉や表現。当然、「うた」の出番になります。先のラジオドラマ形式と共に、放送開始早々から「広告」の表現に「うた」も現われています。

 「第一週から早くもコマーシャルソングが登場した。二本あった。ひとつは、小西六写真提供の音楽番組「冗談ウエスタン」で放送された「ボクはアマチュア・カメラマン」。五節から成り、作詞作曲三木鶏郎、歌手は灰田勝彦。(…)もうひとつは、塩野義「ペンギンの歌」。前年四月「民間放送第一声を求む」という新聞広告を出し、ペンギンをテーマとする童謡と歌謡曲の歌詞を募って十数万通の応募を得、当選作をレコード化して放送を待ち構えていた。」


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 この時、世間一般その他おおぜいに向けて募集したのが「童謡」と「歌謡曲」ということに、改めて立ち止まってみてください。結果的には世間に流行することを想定している広告ですから「流行歌」でもいいようなものですが、しかしここでは「流行歌」を募集はしていない。単なる字ヅラだけのことではなく、この違いは案外重要なはずです。なぜなら、「流行歌」はこの場合の広告の目的にあまりそぐわない、少なくともラジオという媒体に乗せる新しい「民間放送」での広告という形式にはふさわしくない、おそらくそう考えられていた。もしもここで「流行歌」を募集していたならば、応募されてくるのはそれこそ前回の「歌謡文藝」に集っていたような歌詞が主体になっていたはずです。でも、募集した側はそのような「流行歌」を「民間放送」での広告に求めてはいなかった。

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 実際、当選したのは次のような作品でした。

 氷のお山ですまし顔/いつも気取って燕尾服/もしもステッキかいこんで/黒いカバンを持ったなら/とても立派なお医者さん/ペンギン、ペンギン、かわいいな


オーロラ輝くその中で/なんとおしゃれな燕尾服/もしもタクトを振りながら/晴れの舞台に立ったなら/とても立派な楽長さん/ペンギン、ペンギン、たのしいな


つららのお花の咲く陰で/ちょいとおどけて燕尾服/もしもサーカス賑やかに/手品つかいをさせたなら/とても立派な紳士さん/ペンギン、ペンギン、うれしいな

 作詞の重園よし雄(贇雄)は広島の中学校教師、すでにこの時、「ひろしま平和の歌」の作詞の公募で当選、それなりに知られていたようですが、それはまた別の大きな話。


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 当時、あの高橋掬太郎の「歌謡文藝」誌に集っていたような、流行歌の作詞家になることに夢を抱いていたような世間一般その他おおぜいの想像力とはまた別の、もうひとつの世間一般その他おおぜい抱いた夢のありかたがくっきりと見えます。「童謡」とひとまず名づけられていたようなジャンルの、「もうひとつの流行歌」の歌詞の系譜。そして、ここもまた見逃してはいけないのは、それは同時に「歌謡曲」という当時まだ目新しかったもの言いと共にくくられているということです。

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 「童謡」と「歌謡曲」は同じハコに入れられるべきもので、でもそれはそれまですでに使われていた「流行歌」とは別の、何か新しい分類基準だった。少なくとも「民間放送」という言い方の「民間」に込められていたような種類の、それまでの「商業」という言い方ともまた違う、当時求められていたような新しさにとって。先廻りして言うならば、その「新しさ」こそが良くも悪くも「戦後」ならではのものであり、その「新しさ」の象徴たり得た「歌謡曲」と、それまですでにあった「流行歌」との相克は、のちの「歌謡曲」と「演歌」という語彙の対立にも、そして商業音楽に限らず「戦後」の情報環境における広義の大衆文化的な表現の場一般においてまでも、広く長く揺曳していったようなものだと考えます。

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 この当選作、平岡照章(「童謡」作曲の名手だったらしい)の手により楽曲化され、放送を介して当時、広く馴染まれるようになりました。事実、僕自身の記憶にもなぜかはっきりある。けれども、それはあくまで「童謡」としてであり、そして「やはりコマーシャルっけはほとんどなく、ペンギンが同社のシンボルマークとして定着するまではふつうの童謡として遇され、NHKで放送されさえした。」つまり、当初のスポンサーであった塩野義の「広告」の文脈でも、その後公式に使われるようになっていったようです。「戦後」の情報環境での「企業」の自意識と、その反映としての「広告」空間のありかたもまた、「うた」とわれら同胞の感覚の来歴と無関係ではなかったらしい。

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