「視聴覚文化論」、その未発の可能性


 視覚と聴覚、という話から、もう少し続けてみます。情報環境の遷移とその裡に宿っていった生身の意識や感覚について、情報化社会と視聴覚文化、といった補助線から、例によっての千鳥足でゆるゆると。

 情報化社会を語ることは、映像情報の大量化を語ることでした。そしてそれは、大衆社会状況をどのように言葉にして認識してゆくのか、大文字の理屈やありがちな能書きにとどまらず、日々の生活実感から立ち上がる素朴な違和感や居心地の悪さなどを手放さない地点からの言語化という意味において、当時どれだけ有効でもっともらしく思えていたのか、という水準も含めての「歴史」について自省することにもつながります。

 そのような語り口のひとつに、かつて視聴覚文化論というのがありました。それは大衆社会状況とそれに伴う情報環境の変貌が新たな段階にさしかかっていた時期、敗戦後、昭和20年代半ばから後半にかけて盛んに語られるようになっていた。こう言うと、ただちに花田清輝などを思い起こす向きもあるでしょう。そう、確かに彼などは真っ先に当時、その「視聴覚文化」に前のめりに投企して、「芸術」といういささか干からびかかっていた語彙に、それまでと異なる様相を加えていったひとりではありました。

 彼の視聴覚文化論については、「歴史学民俗学の対比を、活字文化と視聴覚文化の関係においてとらえ、前者に権力の文化の像を、後者に民衆の文化の像を思い描いた」という、半ば常識のようになっている一般的、通俗的理解があります。それは「活字文化と前活字文化との「対立物の揚棄」という弁証法」といった風に、当時のマルクス主義的な認識論の前提を自明に適用する人々の習い性に後押しされてできあがっていったものでしたが、しかし彼、花田清輝は、そんな単純なものさしでうかうかと理解され尽くしてしまうような物件でもない。単に活字を読み、ものを書くだけでなく、上演を前提とした戯曲をものし、実際に演出も手がけた多面的な表現者であった彼の語彙としての「視聴覚」とは、単にそれまでドミナントであった文字/活字というメディアを対象化する意味だけでなく、生身の意識や感覚、本質的に分節され切ることのできない「まるごと」の官能を、それが宿り、前景化する「関係」と「場」のありようと共に、おのが思考の間尺に腕づくでとりこもうとしたゆえに選択されていたものでした。

花田清輝の視聴覚文化論の根底にある問題意識は、基本的に文化の階級意識論であり、現代の操作的な、大衆を受動化し内部から支配するいわば管理的制度としての文化と具体的に闘うことのできる、対抗的集団的想像力の運動の場をいかに形成していくかということであった。そしてその展望のなかで、近代(活字)文化が失った、そして、近代以前の社会がもっていた語り手と聴衆の相互交通的な「語り」と場の意味を、過去形として暗示されている可能性としてとらえようとしたのである。」(久保覚「やっかいな芸術家――故事新編の思想」1977年)

 だから、いわゆるメディア論的な脈絡でだけ「視聴覚」を考えると、文字/活字もまた視聴覚を介して認識され得る、というもうひとつの解釈の水準が見えなくなり、平板な図式だけが予定調和的に共鳴し、淡々と稼動してゆくいつもの不毛が引き出されるだけになる。これでは、多義的で重層的な可能性をはらんでいた当時の視聴覚文化論の豊かさを、最もやせたところでしか読みなおすことはできないでしょう。一次的な意味あいとしては確かにそのようにとらえられていただろうし、またそのように読むことも間違いではない「文字/活字以外」というくくりでの「視聴覚」という言い方に込められていたものは、しかし同時に、文字/活字も含めて、われら人間が人間であるゆえんでもある情報環境との交渉、交感の過程を、この生身の自分を足場として再度「主体」としてとらえなおすという、否応なく進行する大衆社会状況下での主体回復を志す、認識論的な転換へのモメントでもあったはずです。

 なのに、事態はそのように進んではゆかなかった。

 確かに、「視聴覚」だと「見る」も「聴く」も共に土俵にあげられる。落ち着いて考えてみるなら、文字/活字もまた「読む」という意味で「見る」を含んでいるのだし、話し言葉という意味では「聴く」にも連接するといった方向にも思い至らせる可能性を持っていたはずなのだけれども、なぜかその後、文字/活字とは別のメディアとして視聴覚メディアがあらかじめ切り分けられたまま前景化されてゆき、しかもそこからさらに「聴く」をも分節、捨象して、「見る」を介した映像≒ビジュアル情報に特化した議論になっていった。このあたりの経緯の詳細については、自分はもういわゆるガクモン世間の現在から「おりる」ことを決めて久しい身ゆえ、アウェイでしかないのですが、どうやら近年では「視覚文化論」というたてつけになって転生しているらしい。

 「視覚文化論は英米ではVisual Culture Studies またはVisual Studies と呼ばれます。とはいえ双方に違いはほとんどありません。まあ経験的にいうなら、前者のほうがどちらかといえば美学・美術史系統の研究者、後者が映画史やメディア研究などの分野の研究者によく使われているとも見えますが、少なくとも名称をめぐる大きな論争の類いはないといっていいでしょう。(…)視覚文化論というものはこれまでの視覚芸術に関する諸分野が相乗りしたようなところがあります。学際性というと我々は折衷的でディシプリンが溶け合った新領域というふうについ発想してしまいがちですが、実際のところ近年の学際研究の多くは相乗り状態のバスのイメージに近い。(…)記憶に間違いがなければ、大体1990 年代の前半、概ね1992 年から94 年にかけてのころに最初の盛期を迎えたのだったと思います。視覚文化論ということを言い始めたのは美術史だという説もありますが、一概にそうとは言えません。というのもこのあたりの展開は1980年代における写真論の広汎な動きから大きく示唆されたものだったからです。」(生井英孝「視覚文化論の可能性」2006年)

 映像≒ビジュアル情報に特化した「見る」にまつわる議論が、結果として美学・美術史や哲学などの領域で主に担われるようになっていったらしい。ということは、かつて「視聴覚文化」論初発の地点で花田が重層的に提示していたような、進行する大衆社会状況下での主体回復を視野に入れた認識論的転換の可能性なども、文字/活字の間尺において幽閉され、淡々と収納されていったのでしょう。なるほどその限りでは、「関係」や「場」も伴う「まるごと」の〈リアル〉の実践なども、おしゃれできらびやかで、どこかよそよそしい〈知〉の商品としてひとしなみに整えられてゆくしかない。

 でも、だからこそ、です。

 話の舞台をかつての情報環境にもう一度巻き戻して、その当時「視聴覚文化」がどのような内実をはらんでいたのか、それがその後どのように転生していったのかについて、未だうまく見えない経路を敢えてたどろうとしてみることがなおのこと、必要になる。その場合、たとえば「イメージ」というもの言いなどは、ひとつの足場になり得るかもしれません。当時、敗戦後の未だ輝かしさをまとっていた戦後民主主義的な言語空間で、「敗戦後」という状況を前向きに生きようとする当時の同時代人たちが、あらためて「個」であることを「発見」しようとしていった過程で、映像的というかビジュアル的というか、いずれそのような視覚を優先的に介した情報が身のまわりにあふれ始めていることに敏感、かつ前のめりに反応していった一群があって、そのような彼ら彼女らが期せずして強調していたもの言いのひとつが、この「イメージ」だったようなのです。


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 もとはやはり英語なのでしょうが、そのimageの本来の語義がどうであれ、この日本語カタカナ表記に変換された「イメージ」というのは、それが実際に使い回される文脈や日々の局面などを考えた場合、未だうまく言語化されにくい不定形な領域――それがキモチであれ心象であれ、未だ言葉にはされ得ず、言葉でなくとも何らかの表現として傍目からわかり得るような形にもできていない、そういう領域を漠然とくくったもの言いになっているところがあります。

 傍目から、自分以外の他人から直接見えたり、確かめたりすることのできない領域だから、それは圧倒的に「自分だけ」のものであり、そういう意味でその「イメージ」と名づけられる領域はそのままこの「自分」と重ね合わされてしまう。「自分」とはそのような「イメージ」であり、言語化され得ない、未だ表現されていない何ものかであり、少なくともすでに言語化され、意識化された領域と共に「あるべき本当の自分」を構成する重要な部分である。だから、「あるべき自分」を「探す」のなら、未だ意識されていないらしいその重要な部分を自ら自覚し、どのような手段であれ形にしてゆくことが必要なのだ――ざっとまあ、こんな理路で当時、「自分」という「個」のそれまでと少し異なる「発見」の仕方が、同時代的に前景化されていったようなのです。

 たとえば、中平卓馬という人がいた。「職業写真家」の自称もまぶしい当時一線級のカメラマンであり、そして文章表現にも臆せず手を拡げるマルチな表現者でもあった御仁ですが、昨今のような「視覚文化」を語る身ぶりやもの言いがどこか漂白された流行りものとしての装いを凝らす事態など想像すらできなかった物情騒然、素朴に猥雑でしかなかった半世紀ばかり前、当時の状況下での「映像」論がそれなりに熱く語られ始めた頃の論客としても名を馳せていた彼が、やはりこの「イメージ」に執拗にこだわり、それも「詩」と結びつけて七転八倒、あれこれ思索を展開しています。というか、どうやら彼にとってはもともと「詩」が原点のようなものだったらしく、前後関係からいえば「詩」ありきで「イメージ」はむしろ後から実装されていった語彙であり、それはまた「文学」や「芸術」と置き換えても概ね構わなかったかもしれないような印象でもあるのですが、いずれにせよ、その「イメージ」というもの言いがそれまでの「詩」や「文学」などより何かしっくりくるものであり、それゆえ当時の彼にとっては、その言語化以前の領域を同時代の情報環境に生きる生身の感覚に即して形にしようとする際、うまく役に立ち得る道具として感じられていたということなのでしょう。


 「〈イメージ〉とは、あるいは〈詩〉とは、長い間あらゆる芸術作品に当然のことにように期待されていたものである。ある作品が、それがいかなるものであれ、イメージがないとかイメージが弱いと言って批判され、否定されてきた事実をすでにわれわれはいやというほど知っている。そしてそのことについてこれまでわれわれは一瞬たりとも疑いをさしはさみはしなかった。なぜなら〈イメージ〉こそ芸術を芸術たらしめる当のものであったからだ。」(中平卓馬「なぜ、植物図鑑か」1973年)

 「美」であり「アウラ」であり、その他どういう語彙で表現してもいいような、「芸術」としての存在意義の核心とされてきたもの。それ以前から「そういうもの」としてあったようなものではあるけれども、しかし、当時の同時代感覚としては、そんな既存の言葉と文脈で説明しておとなしく収めておけるようにも思えなくなっていた。だから彼はしつこくこだわり、何とか言葉にしようと健気に格闘してみせています。そして思わず、こう口走ってもいる。

「〈イメージ〉とは極論すれば、作家たる個がもつ世界についての像であり、それは個に先験的に備わっていなければならなかった。」

 ここでは「イメージ」は「個」であることの存在証明にまで拡大され、創作に携わる主体であることの根拠として過剰な意味を託されるようになっています。それまでの文字/活字をドミナントなメディアとして自己形成してきた、当時はまだ多数派であったであろう自意識とは、すでにどこか異なる内実をこの「個」は宿し始めていたはずです。

 

 「個」の解体という自覚が、大衆社会状況下において、殊に情報化社会と敢えて言挙げせざるを得なくなっていたほどの高度成長期の情報環境の変貌の中で、それまで以上に広汎に共有され始めていました。「断片」の、あるべき「文脈」「背景」と切り離された情報だけが大量に身の回りに流れ込んできているという感覚。しかも、その中でも映像系の情報が、刺激と共に鮮烈な印象を絶えず植えつけてくるという実感が日常生活でも強く感じられるようになった。自己同一性という「連続」「文脈」を介したまとまりとして想定されていた「個」は日々の暮らしの中でゆらがされ、そこに包摂されていたはずの「自我」もまた危機感を抱く。だから、その反作用のように、それまでよりも鮮烈に「個」であることが問い直されるようにもなるわけですが、しかし、そのような情報環境の変貌の中で、現実と対峙するべき「中心」としての「個」は果してどのように担保され得るのか。それら解体過程の中にある「個」という認識は、何かを表現し、創作する場合にも当然、あらたな葛藤や不安をもたらさざるを得ないけれども、だが、明確な処方箋は見つからない。なぜなら、それら新たな情報化社会の現実は、同時に「中心」としての思想なりイデオロギーなりも同時に相対化し、解体させつつあったから――ああ、そう言えば、あの「イデオロギーの終焉」(ダニエル・ベル)が翻訳され、当時増え始めていた新たな「読書人」層も含めて広く読まれるようになったのも、また同じ頃でした。

 処方箋が明示できないのなら、とりあえずそのような現状をそのまま受け止めるしかない。どのような意図や目算があるにせよ、当面の判断としては「現状肯定」が選択されざるを得ない。とは言え、大衆社会状況下のその情報化社会に一方的に「巻き込まれる」のは避けたいし、戦略的にも否定しておきたい。ならば……そうだ、そのような現状をまず「客観的」に「記録」することで、匿名性を帯びた没個性の「断片」の群れをつくりだす、それによって、これまでと違う意味での「個」もまた、その匿名の群れの裡に現出してゆくことができるかもしれない――当時の彼が示してみせたのは、「カタログ」「図鑑」といったもの言いによって、それら「断片」の群れを「客観的」な「記録」の集合として編集し、正当化することでした。それは同時に、「主体」としての「自分」を現実から切り離しておくことで、「イメージ」として湧き上がる自分の内面や感情その他、言語化され可視化・自覚化されていない領分もまた、当面そのままにしておくことにもなりました。

 手先の操作、単なる作業として、情報としてのそれら映像を採集し「カタログ」「図鑑」的に処理してゆくことで、「詩」ではない、まして「文学」や「芸術」ではさらに飽き足らない、もっと動的な属性を伴う「イメージ」を身の裡にはらんだままにされた「自分」もその状態で固定され、と同時に物情騒然、刻々と移り変わる〈いま・ここ〉の現在からも鋭くフィード・バックされずに温存される。ある意味、ふくらんだ「イメージ」をはらんだままでの「個」の固定化、しかも眼前の現実から一歩退き、いわば棚に上がったところでの常態化が期せずしてもたらされる。感じることばかり敏感になり、その分、立ち止まって考えることをしなくていいようになった、おそらくは現在にまで地続きな、その意味では戦後由来の本邦的な「個」としての「自分」のありようが、その裡の「イメージ」の膨張と共にあやうくもかろうじてピン留めされる。そして、それまでの「詩」や「文学」はそのような〈いま・ここ〉から落伍してゆき、増殖してゆく映像的な情報によって間断なく刺激されたおのが身の裡の「イメージ」という解釈格子によって、世界は視覚とそれを介した解釈と意味の群れを加えてあらためてそれまでと異なるありように編制されてゆきます。映画であれ写真であれ、前世紀から20世紀にかけて登場した新たな複製技術によって可能になった表現たちが、この時期、「美」を宰領してきた「芸術」という旧来からの枠組みの側に次々と、堂々と参入してゆくようになっていった背後には、当時決定的になっていった文字/活字ドミナントな情報環境からの離陸に規定された「イメージ」をめぐる主体の内的な解釈格子のこのような転換が、新たな同時代の〈リアル〉を支える下部構造として形を整えていった経緯も、未だうまく合焦されていない「歴史」の水準としてあったはずです。